無の情/トンビ
【無の情】
執務室で、
秒針が時を刻んでいる。ペンが走り、紙を捲る音が時おり響く。
「ただいま戻りました」
声とともに鳩羽の影が伸び、中から男の姿が立ち上がった。鳩羽は驚く素振りも見せず、椅子ごとゆっくりと振り返る。
「ご苦労だったな、
背後に立つ男を見上げ、わずかに眉をひそめた。
「なんだその顔は、みっともない。ちゃんと拭いておけ」
促されて、九條は視線を棚のガラス板に移す。頬に返り血が一筋、垂れていた。
鳩羽は引き出しから布を一枚取り出し、無言で九條に差し出す。色褪せ、端が少しほつれたハンカチ。
「……ハンカチが、汚れてしまいます」
「構わん。古いものだ。後で捨てろ」
有無を言わさず九條の手に押しつける。古びた木綿に石鹸の混じった匂いが、九條の鼻に微かに届いた。
鳩羽はネクタイを緩めて椅子に深く座り直す。
「少し仮眠する。三十分後に起こせ。お前もその間、休んでいろ」
「承知しました」
背もたれに身を預け、鳩羽は静かに瞼を下ろす。
九條は黙ったまま、手の中のハンカチと鳩羽の閉じた目を、交互に見返していた。
■■■
【トンビ】
灰色の冷たい空。鳶が一羽、風に乗って弧を描く。鳴き声が寂しげに降ってきた。
「鳩羽さん、どうされましたか」
九條の声が、思考を現実へと引き戻す。
「……なんでもない」
鳩羽は視線を逸らし、ポケットに手を入れて歩き出す。九條が隣へ並び、歩幅を合わせた。
「……『トンビ』」
「え?」
ぽつりと零れた言葉に、九條はわずかに目を見開く。
「コードネームだ。昔のな」
淡々と答える。そこには懐古も憂いもなく、ただ乾いた響きで事実を告げるだけ。
だが、九條にとってはそれで十分だった。鳩羽が自ら過去を語ることなど、滅多にないのだから。
「いいですね、トンビ。好きですよ、俺」
「……ただの記号だ、意味などない」
素っ気ない声。けれどその口元がかすかに緩むのを、九條は見逃さなかった。
鳶が静かに遠ざかる。灰色の空気だけが、二人を包んでいた。
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