続・続・小生さんがゆく

釜瑪秋摩

第1話 見知らぬ駅の深夜醤油ラーメン物語

 小生の名は、文谷修蔵ふみやしゅうぞうである。

 名は文豪めいているが、書けるのは報告書と謝罪文ばかり。

 そんな小生が、今夜は終電の外にいる。


 金曜日の夜であった。

 座れた電車は心地よく、揺れは子守唄のようで――。

 気づけば車内に人影はまばら、見慣れぬ駅名が流れていた。


 終点。


 扉が開き、冷たい空気が流れ込む。

 小生は半ば夢の続きのように、ホームへと降り立っていた。


「……小生は、帰り道を失ったようだ」


 車内にいた人々は、早々にホームを去っていく。

 電車は去り、取り残されたのは小生一人。


 改札を出ると、街は思いのほか明るかった。

 酔客の笑い声、清掃車の音、シャッターの降りる振動。

 その中で、小生の腹が、実に正直な音を立てた。


「なるほど……胃袋は、終電を知らぬらしい」


 角を曲がった先、赤い提灯。「ラーメン」の二文字。

 湯気が夜気に溶けている。


 小生は、吸い寄せられるように暖簾をくぐった。


 店内はカウンターのみ。

 先客は二人、黙って麺を啜っている。

 寸胴から立つ湯気と、鶏ガラと醤油の匂い。


「いらっしゃい」


 短い声に、小生は小さく会釈し、腰を下ろす。


「醤油ラーメンを」


 それだけで良かった。

 今夜の小生に、余計な言葉は要らぬ。


 ほどなくして置かれた丼は、実に慎ましやかであった。

 澄んだ褐色のスープ。

 細めの麺。

 チャーシュー一枚、メンマ、刻み葱。


「……深夜ラーメンとは、かくあるべし」


 先ずはレンゲでスープを一口。


 熱すぎず、軽すぎず。

 鶏の旨味と醤油の香りが、舌にほどける。


「ああ……これは、叱らぬラーメンだ。胃袋を殴らず、ただ寄り添う」


 麺を啜る。

 音が、やけに大きく響く。


 小生はふと、自分の今日を思い返す。

 意味の薄い会議。

 回される資料。

 誰のものとも知れぬ責任。


「小生は、どこへ帰ろうとしていたのか」


 終点まで来てしまったのは、単なる居眠りか。

 それとも、帰りたくなかったのか。


 答えは、スープの底と同じく、よく見えぬ。


 だが、今はそれで良かった。


 チャーシューは柔らかく、噛むたび、淡い脂が滲む。


「この一枚に、どれほどの夜が煮込まれてきたのだろうか」


 小生は、誰にも急かされず、誰にも謝らず、ただ、麺を啜っている。

 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 やがて、丼は空になる。

 レンゲを置くと、夜の音が戻ってきた。


「ごちそうさまでした」


 声に出して言うと、自分がまだ現実にいると分かる。


 外に出ると、空気は冷たい。

 吐く息が白い。


 ふと目に入ったのは、駅前のネットカフェの灯り。


「……明日……いや、今日は休日だ」


 それは、小生にとって充分な理由であった。


 小さな個室。

 リクライニングチェア。

 自販機の無料スープ。


 背を預けると、今日がようやく終わる気がした。


「帰れぬ夜も、悪くない。小生には今、醤油ラーメンの余韻があり、明日の予定が、何もない」


 天井を見つめ、小生は目を閉じる。


「……こんな事でもなければ、あの店に出会うこともなかったであろう」


 ラーメンの湯気を思い出しながら、小生は、見知らぬ街の夜に、身を預けた。





 - 完 -

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