第十二話:三問の試練(二)
第十二話:三問の試練(二)
執筆:町田 由美
雨音の隙間に、老人の吐息が混じる。
一対一万。その問いは、かつて机の上で学んだ聖賢の書にはなかった。
書物は常に「仁」を説き、一人の民をも慈しむことを教えた。だが、今この荒野で吹き荒れているのは、書物の外にある剥き出しの真実だ。
私は、自分の手のひらを見つめた。
叔父上の墓を掘り、血が滲み、泥にまみれたこの手。
「……答えてみろ、若造。一万の命を救うために、お前はその手に剣を取り、一人の無辜の血を流せるか。それとも、自らの手を清廉に保つために、一万の民を見殺しにするか」
老人の問いは、刃となって私の喉元を撫でる。
私は均(きん)の熱い手を握りしめたまま、沈黙を守り続けた。
頭の中で、天秤が激しく揺れている。
一人の命。それは、叔父上の命かもしれない。均の命かもしれない。あるいは、私自身の命かもしれない。
一万の命。それは、名もなき民の群れであり、この世から消え去ろうとしている秩序そのものだ。
「……私は、殺す」
私の唇から、地を這うような低い声が漏れた。
老人の目が、僅かに見開かれる。
「……ほう、殺すか。一人の命を奪うことを、厭わぬと?」
「厭わぬはずがない!」
私は、叫んでいた。
「殺したその瞬間、私の魂は二度と戻らぬほどに汚れるだろう。救った一万人は、私を英雄と呼ぶかもしれぬが、殺された一人の家族は私を永遠に呪い続けるだろう。……だが、それでも私は殺す。……一万の民を見殺しにする『清廉』など、ただの臆病だ! 自分の手が汚れるのを恐れて、なすべきことをなさぬ者は、この乱世においては罪人と同じだ!」
私は息を切らし、闇の中の老人を睨み据えた。
「私は、一人の命を奪う罪を、一生背負う。……その一人の家族の呪いを、死ぬまで抱えて生きる。……それが、人を治める者が負わねばならぬ『罰』だ。……一万人の命の重さを知る者だけが、一人の命を奪う重さを引き受けることができる。……私は、その地獄を引き受ける」
廟の中の空気が、一瞬にして凍りついたように静まり返った。
雨音さえも、遠くへ去っていったかのような錯覚。
老人は、しばらくの間、無言で私を見つめていた。
やがて、その口元がゆっくりと、不気味なほど大きく裂けた。
「……く、ははははは! 見事。見事だ、諸葛家の小僧! ……『地獄を引き受ける』か。……聖人君子の顔をした偽物どもに聞かせてやりたい台詞よ。……お前は、自らの『徳』よりも、この世の『理』を選んだのだな」
老人は立ち上がり、私のすぐそばまで這い寄ってきた。
「だが、忘れるな。……その『一人』が、もしもお前の目の前にいる弟だったとしても、お前は同じことが言えるのか? ……その問いの答えは、今は聞かぬ。……いつか、お前が真に天下の天秤を握った時、天が再びお前に問いかけるだろう」
老人の声は、呪詛のように私の耳に残った。
均が、夢の中で小さく身震いする。
「……最後だ。第三の問いを授けよう」
老人は、廟の外、激しい雨が降り続く闇の彼方を指差した。
「第三の問い。……若造。お前が目指すその『理想の世』に、お前自身の居場所はあるか? ……お前が法を敷き、秩序を戻し、民が安らかに暮らす世が完成した時。……最も理不尽な知恵を持ち、最も苛烈な法を知るお前自身は、その平和な世において『最も危険な異物』となる。……その時、お前はどうする。……天下を捨てて去るか。それとも、完成した世に再び自らが乱をもたらすか」
最後の問いは、これまでの二つとは次元が違っていた。
それは、未来の、完成された果てにある「自己の死」についての問いだった。
私は、崩れ落ちた神像の残骸を見つめた。
神の首が落ち、祈る者を失ったこの廃廟。
(私の居場所……)
私は、自らの内側にある「冷徹なる龍」に問いかけた。
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