聖調士⭐️星詩・アポカリプスラブ

稲富良次

第1話 プロローグ あるいはソロ

闇は静かだった。

だが、静寂はいつも完全ではない。星が生まれる前の残響が、まだ世界の裏側で震えている——そんな気配を、不動明は舞台の上で聴いた。


紀ノ国屋音楽ホール。板の匂い。衣擦れ。

見栄を切る一歩ごとに、客席の視線が重さを増していく。

重力だ。逃げ場はない。

それでも明は踏みとどまった。台詞が喉を通り、言葉が灯りの中へ放たれた瞬間——胸の奥で、何かが「点火」した。


(思い込みが、力になる)


誰かの声ではない。教訓でもない。自分の内側が鳴らした合図だった。

拍手が起きる。幕が引かれる。客席は沸く。だが明の耳には、別の音が混じり始めていた。拍手の粒をすり抜けて、遠い宇宙の振動だけが残る。


楽屋口を抜け、夜の路地へ出た。街は湿った夏の匂いを抱え、ネオンが滲んでいる。

そのとき、看板のガラスに「目」が映った。


笑っている。

巨大な眼球が、路地の奥で、明だけを見ている。


「……誰だ」


声にした瞬間、視界の端がねじれた。看板の文字が一瞬、読めない形に崩れる。空気が薄くなる。

そして、目は増えた。壁、排水溝、閉じたシャッター、マンホールの蓋。笑う眼球が点々と咲き、路地は一つの“見られる場所”に変わる。


明は足を止めない。止めれば負ける、と身体が知っていた。

角を曲がったところで、路地の影が盛り上がった。影から影が抜け出し、人の形を取る。だが、顔だけが空洞で、そこに眼球が浮かんでいる。


「観客は好きか?」

声は口から出ない。空間そのものが囁いた。

「お前は、見られることで燃えた。ならば——見られ続けろ」


眼球の群れが同時に笑った。笑い声ではない。神経を爪で撫でるような、嫌な振動だ。明の胸の火が、瞬間、冷えかける。


(燃やせ)


明は深く息を吸った。舞台で覚えた呼吸。焦点を一点に絞る。思い込みを、刃にする。

足元の影が伸び、明の影と重なった。影が熱を持つ。皮膚の内側に金色の狼が立った気がした。幻ではない。だが実体でもない。感覚の芯にだけ、確かな輪郭がある。


——燃えろ。

——縮めろ。

——確率を、ねじ曲げろ。


次の瞬間、路地の灯りが一つ、白く弾けた。

明の視界が“狭く”なる。世界の余計なものが削ぎ落とされ、眼球の中心だけが残る。

そして明は、拳を構えた。


眼球の怪物が距離を詰める。見えない針が明の額へ刺さろうとする。

明は踏み込んだ。舞台の所作ではない。獣の一歩だ。


「——黙れ」


拳が当たった。

だが殴ったのは空気ではない。眼球の“視線”そのものだ。

衝撃が走り、路地の壁が震え、眼球の群れが一斉に歪む。笑いが途切れる。怪物が初めて、怯んだ。


「見られることが力なら、見返すことも力だろ」


明の言葉が、火になる。

胸の奥の炎が、今度は確実に燃え上がった。熱は全身へ回り、背骨が一本の槍になる。

明は二撃目を放った。拳が白く光る。拳の光が路地を裂き、眼球の中心を貫いた。


怪物は叫べなかった。口がない。

代わりに、路地のすべての“目”が同時に瞬きをし、闇へ崩れ落ちた。シャッターの笑い、マンホールの嘲り、ガラスの反射——全部が消える。


静寂が戻る。

だが、戻ってきた静けさは、さっきとは違う。世界が一度、歪みを見せた後の静けさだ。


明は膝に手をつき、息を吐いた。汗が背中を伝う。

その足元に、紙が一枚落ちていた。路地にあるはずのない、古びた紙片。

拾うと、そこに奇妙な文字が並んでいる。読めない。だが意味だけが頭に入る。


『第一の白の騎士——角笛の前兆』


「……黙示、か」


背後で、足音がしない気配がした。振り向くと、路地の奥に金色の狼が立っていた。目は穏やかで、冷たい。導くためではない。確認するための眼だ。


狼は言った。

「もう聴こえたな」


それだけで、狼は闇に溶けた。


明は紙片を握りしめた。舞台で燃えた火が、今も胸の奥に残っている。

世界は静かだった。

だがその静寂の奥で、確かに何かが震えている——角笛が鳴る前の、白い疾走の気配が。


明は歩き出した。

この夜から、自分は“見られる側”では終われない。

見返し、折り、倒して、進む。

黙示は、もう始まっている。

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