幸福

蒼 隼大

第1話

 雨のそぼ降る夕方、一人の若い女性が神社の本殿に向かって、手を合わせている。

 彼女の名は、明日美。その願いは過去を、自らの記憶を消すことだった。


 貧困家庭に生まれた明日美は地獄のような人生を生きてきた。彼女の両親はネグレクト気味で、ろくに風呂にも入れられず、洗濯もしていない汚れた服を繰り返し着ている明日美が「バイキン」と呼ばれてイジメを受け続けても知らぬ顔をしていた。まともな食事を与えられず、腹を満たすために小学一年生の頃に万引きを覚えた明日美は中学生の頃に身体を売って金銭を得ることを覚えた。彼女が性行為を覚えたのは小学四年の頃から始まった実父からの強制性交によるものだが、欲望に忠実な父が快楽を得るために教え込んだ、男を悦ばせる技術は思えば明日美が親から受けた唯一の教育だったのかもしれない。

 中学を卒業すると明日美は家を飛び出して夜の世界に飛び込んだ。年齢を偽り、過去を偽りながら送る欲と嘘にまみれた日々。身分がバレそうになるたびに店を渡り歩き、街を渡り歩いた。

 そんな生活を送る明日美がある事情で都会を追い立てられ、地方都市の場末のスナックで働いている時に出会ったのが、上司に無理やり誘われて店を訪れたという歳上の会社員、真斗だった。

 明日美に一目惚れしたという真斗は度々来店するようになり、そのうち店の外でも会うようになって自然な流れで交際が始まった。それは明日美の人生に初めて訪れた穏やかな時間だったが、やがて真斗が結婚を匂わせるようになると止めどなく込み上げてくる不安に苛まれるようになった。自らの心身に深く刻み込まれた負の記憶を抱えたまま家庭を築き、幸福になれるビジョンがどこにも見当たらなかったのだ。

 だから、明日美は心の底から願った。

 真斗と共に未来を生きるために、泥濘の中を這いずるように生きてきた忌むべき記憶を消して欲しいと。


 神社の石段の下に倒れているところを発見され、救急車で搬送された明日美だったが、数カ所の骨折はあったものの幸いにも生命に別状はなかった。目撃者の証言によれば「まるで突き飛ばされたようだった」とのことだが当人も突き飛ばした者の姿を見てはおらず、怪しい人物も見当たらなかったため、結局は足を滑らせての転落事故と判断されることとなった。


 報せを受けて病院に駆けつけ、彼女と対面した真斗は愕然とした。

 明日美は、全ての記憶を失っていたのだ。

 医師によると脳に損傷があったわけではなく、転落による心理的なショックが原因で記憶を喪失したと推測される……ということだった。最悪だったのはそれでいて度重なる性被害の苦痛だけが心身に深く刻み込まれていたことだった。明日美は男性に対して激しい嫌悪の感情を顕にし、そしてそれは真斗に対しても例外ではなかった。


 明日美の苦痛に満ちた人生を全て受け止め、彼女を幸せにしていこうと心を固めていた真斗は大きく落胆し、絶望した。いくら手を差し伸べても、その手を拒絶されてしまえばどうしようもない。深く傷つき、茫然自失のままふらふらと街を彷徨う真斗はいつの間にか神社の前に立っていた。そこが明日美が転落事故を起こした神社であることに気づくこともなく、真斗は石段を昇り、拝殿の前に立った。

 どうか明日美に自分のことを思い出して欲しい。もういちど微笑を自分に向けて欲しい……真斗は一心に祈った。明日美と同じように、明日美と同じ神に。


 全てを忘れたい。

 全てを思い出して欲しい。

 二人の相矛盾した二つの祈りは、思わぬ形で聞き届けられることになった。

 翌日、不意に明日美は記憶を取り戻した。だが、一度全てを忘却の彼方に追いやった彼女の心はあまりに無防備だった。濁流のように押し寄せてきた悪夢のような記憶に耐えられず、彼女の精神は完膚なきまでに破壊されてしまったのだ。


 明日美は今も、窓の外を眺めている。その瞳に映るものを理解しているかどうかも分からない。言葉は発さず、自らの意思で行動することもない。

 真斗は常に、そんな彼女の傍に寄り添って食事や入浴、排泄など全ての世話を続けている。

 時々、ふと何かの拍子に視線が合うと明日美の口元が小さく綻ぶことがある。そんな時に真斗は思うのだ。


 これがこそが明日美にとって、そして自分にとって最高に幸せな瞬間であるのかもしれない、と。


 

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幸福 蒼 隼大 @aoisyunta

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