『占いの街』救済の侵食

奈良まさや

第1話

◆◆第一章◆◆


人は、未来が見えたから動くわけじゃない。

 信じたい未来を、誰かに肯定されたときに動く。


 香坂恒一は、その事実を営業の現場で嫌というほど学んできた。


 香水専門商社。

 目に見えないものに、物語と価格をつける仕事。

 成分よりも、説明。

 品質よりも、信頼。


 そして――

 信頼よりも、期待。


 どれだけ売っても、天井は決まっている。

 ならば、自分で作ればいい。


 人が未来に金を払う場所を。


●釣りをしていない釣り師


 夕方、得意先からの帰りだった。


 香坂恒一は、駅から自宅までの湿ったアスファルトを歩きながら、頭の中で無機質な数字の羅列を構築していた。

 月商、原価、広告費、そして組織という天井を突き破るための損益分岐点。


 香水専門商社の営業という仕事は、彼にとって「形のないものに価値を付与する」知的遊戯に過ぎなかった。

香りに物語を纏わせ、実体のない幻想を信じ込ませ、対価を得る。

 だが、どんなに華やかな物語を紡ごうとも、その利益の大部分は会社の運営へと吸い込まれていく。


 「……天井が、低すぎる」

 「30歳、独立には良いタイミングだ」


 独りごちた言葉は、夜の空気に溶けて消えた。

 人は何に金を払うのか。どこまでが納得で、どこからが信仰という名の狂気なのか。

 占い、投資、成功法則。呼び名は違えど、その根底にある構造は一つだ。

「確実な未来」という麻薬を差し出した瞬間、人は自ら財布の紐を差し出す。


 そんな思考の檻に閉じこもっていた香坂の足を止めたのは、公園の片隅にある、ひどく場違いな静寂だった。


 ベンチには、くたびれたスーツを着た男が座り、無表情にスマートフォンの画面をなぞっている。どこにでもいる、現実に去勢された会社員の姿だ。

 だが、その数メートル先。先程灯ったばかりの街灯の光が届くか届かないかの境界線で、一人の若い女がスケッチブックを広げていた。


 彼女の指先が、狂いなく鉛筆を走らせる。

 香坂は無意識に、その手元を覗き込んだ。


 そこに描かれていたのは——深い静寂の中、水辺に糸を垂らす「漁師」の姿だった。

 獲物を待つ鋭い眼光、波の音を聞き分けるかのような微かな傾き。

そこには、ベンチに座る男からは削ぎ落とされたはずの、剥き出しの「生」が宿っていた。


 香坂は、実物と絵を交互に見比べる。

 実物の男は、釣り竿など持っていない。ただの時間潰しだ。


「こんにちは、暗くなってきましたね」

「……何を見て描いてるんですか、それは」


 香坂の声に、女がゆっくりと顔を上げた。

 二十代前半。華やかさとは無縁の、だが深淵を覗き込むような凪いだ瞳。


「あの人」

 女は、顎でベンチの男を示した。


「釣り、してないですよね」

「してないね」


 あまりにも平然とした答えに、香坂は喉の奥に奇妙な引っかかりを覚えた。


「でも、あの人。ここに座ってる時の顔じゃないから。

一番相応しい場所にいる時は、こういう顔のはず」


 女はそれ以上の説明を拒むように、再びキャンバスの闇に線を叩きつけ始めた。

 香坂は、何かに導かれるようにベンチの男へ近づいた。


「突然すみません。……あなたは、釣りが好きですか?」


 男が怪訝そうに顔を上げた。

「……はあ。好きですが。休みの日は、だいたい海にいます」


「本気で、漁師になりたいと思ったことは?」


 男の瞳に、一瞬だけ火が灯った。

「……どうしてそれを。若い頃、本気で目指していました。でも、現実はこれですよ」

 男は自嘲気味に自分のスーツの袖を掴み、力なく笑った。


 香坂が女のもとへ戻ると、彼女はすでにスケッチブックを閉じていた。


「当たっていましたよ。彼は、釣りをしてる時だけ、生きてる」

「彼の今の仕事は?」

「続ければ、平凡。悪くはないけど、魂が死んでいく人生」


 淡々とした、宣告のような口調。

 香坂の胸の内で、冷たい熱が沸き上がった。

 これは統計学でも、ただの性格分析でもない。

その人間が持つ「最も輝く可能性」だけを抉り出す、残酷なまでの予知能力だ。


「……いつから、それを?」

「一年くらい前。ちゃんとスケッチを始めてから」

 女は思い出したように、スマートフォンの動画を見せた。海外だろうか。乾いた土の上で、必死にボールを追う少年。

「甥っ子を描いたら、スペインが見えた。周りは反対したけど、私だけが背中を押した。今は四部リーグ。でも、あれはまだ通過点」


 香坂は画面を見つめたまま、確信した。

 正攻法のビジネスには時間がかかる。信頼を積み上げ、

実績を築く、退屈な歩みだ。

 だが、もし。最初から「理想の未来」という福音を見せることができるなら。


 香坂は、女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「……それ、ビジネスにしたら、驚くほどの速さで金になりますよ」

「分かりやすいところで言ったら、占い」


 女は微かに眉を寄せ、どこか他人事のように呟いた。

「占いか。まあ、仕組みは似てるかもね」


 香坂は答えなかった。ただ、脳内の計算機が、かつてない速度で弾き出される利益を提示していた。

 正しさなど、後からいくらでも装飾すればいい。


 公園のベンチで、現実に埋没した「釣り師」は、再びスマホの闇に沈んでいく。

 香坂は、一歩踏み出し、ようやく自身の名を名乗った。


「失礼しました。私は香坂。香坂恒一といいます。……あなたの名前を聞いても?」


 それが、救済という名の侵食、その最初の一滴だった。

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