4.手のひらの跡



 唖然とした者たちの顔を、私はゆっくりと見渡した。



「――あっ、そうですわ。帰る前に一つ。婚約は解消ですので慰謝料はいりませんが、この三年間、王家のために働いた報酬は、きちんといただきます」



 わざと軽やかに告げてから、私は足を向けた。先ほど立ちかけた宰相補佐、ユリウス・ファルケンハインのもとへ。



 十歳ほど年上。端正な顔立ちと落ち着いた佇まいを持つ彼は、常に冷静で、王宮内でも一目置かれる存在だった。





「ユリウス・ファルケンハイン。――あなた、私と一緒に来ませんか?」



 その言葉が届いた瞬間、彼の青灰色の瞳がかすかに揺れた。一瞬の驚き、そして迷い。けれど、次に浮かんだのは決意の色。




「行くわけがないだろう!」


 後ろから、宰相や重臣たちの怒声が飛ぶ。




「そうだ! ユリウス、しっかり断るんだ!」


 だがユリウスはその声に見向きもしない。ただまっすぐに私を見つめ、わずかに口元を緩めた。




「行きます」


 その一言は静かに、しかし広間のすべてを震わせた。ざわめきが凍りつき、空気が止まる。





「ありがとう、ユリウス。アンヌ、入って!」


「はい! ルシアーナ様」




 扉が押し開かれ、アンヌが迷いなく膝をつく。懐から魔具を取り出すと、床に滑るように線を走らせていった。


 瞬く間に複雑な紋様が描かれ、淡い光が広がる。


 光は壁を、天井を照らし尽くし、空気が震える。





「しまった! 転移魔法だ。発動が異常に早い! 誰か止めろ!」


 陛下の怒声が響く。




「無駄よ」


 私はそっとユリウスの手を握り、ためらうことなく魔方陣の中心へと踏み入れた。光が私たちを包み込む。



 慌てふためく者たちを一瞥し、唇にかすかな笑みを浮かべる。




 次の瞬間、光がすべてを呑み込んだ。視界も、空気も、音も、何もかもが遠のいていく。






 *****





 目を開けると、私たちはアイゼンベルクの古城の前に立っていた。




「お二人とも、酔いはありませんか?」


「大丈夫よ」


「私も大丈夫だ。今まで経験した中で一番穏やかな転移で、むしろ驚いたくらいだ」



 アンヌが安堵の息をつき、嬉しそうに礼をした。



 古城の石造りの壁は苔むし、長い歳月を静かに語っている。


 角塔の窓からこぼれる光は懐かしく、重厚な鉄の門扉の向こうには、三年ぶりの我が家――広大な庭園が広がっていた。




「もう、ユリウスったら。手のひらに爪の跡がくっきり付いているじゃない」




 そっとその手を取ると、赤く残った痕が目に入った。あの広間で、私の言葉を見守りながら拳に力を込めていたのだ。その緊張の名残が、静かに彼の手の中に刻まれていた。




「アイゼンベルク公爵令嬢が、ご自分の元へ来るなと目で合図するからではありませんか」




 少しすねたような、いつもとは違う声音。


 私は思わずくすりと笑った。


 整った眉、鋭い眼差し。見冷ややかな印象を与えるその表情。でも、私は知っている。その中に確かな優しさと、揺るがぬ信念が宿っていることを。




「ユリウス。ルシアーナよ。王と呼ばれるようになるまでは、それでお願い」


「よろしいのですか? では、ルシアーナ様。これから、どうぞよろしくお願いします」


「ふふ。じゃあ、まずはこれからの話を、お祖父様としましょう」




 重厚な扉を押し開け、石畳の廊下へと足を踏み出す。


 歩幅を合わせて隣を歩くユリウスに、私はそっと視線を向けた。




「ねえ、ユリウス。思い返せばこの三年間、私たち、本当によく頑張ったわよね」




 静かな廊下に私の声が響く。


 彼はわずかに微笑み、光の粒がその横顔をやわらかく照らした。


 石造りの壁が音を反響させ、澄んだ空気に溶けていく。窓から差し込む陽光が、長い廊下の床にゆっくりと影を伸ばしていた。




「宰相が、あなたに指示を出して、私に膨大な仕事を押し付けてきたでしょう?二人で王宮の雑務から国家に関わる案件まで、気が狂いそうな時もあったわ」




 笑いながらも、声の奥には疲労の名残が滲む。



 ユリウスが手を貸してくれなかったら、きっと私は倒れていた。日に日に増える仕事の中で、彼は何度も宰相に異を唱えてくれた。




「『今日も苦言を呈したの? 無駄なのに』何度、そう言ったかしら」



 当時の口調を真似ると、ユリウスは少しだけ顔を伏せ、静かに答えた。




「それでも、本来あなた様の職務ではありませんでした。黙って従うことなど、できません」




 その声には、いつもの冷静さと誠実さが滲んでいた。思えば、ずっとそうだった。彼は一度たりとも、理不尽を見過ごさなかった。




「初めのうちはアンヌがユリウスのせいじゃないのに、毎回睨んでいたわね」


「だ、だって、宰相の手先かと思ったんです。最後の方は、書類の山を見て三人で苦笑いする日々でしたね」


「本当に。仕事終わりのティータイムだけが、唯一の楽しみだったわ」



 懐かしい空気が三人の間に流れる。


 ふと、私は歩を緩め、少しだけ真剣な声で問いかけた。



「ねえ、ユリウス。あなた、ベールの下に隠れていた私の顔、気付いていたのでしょう? あんなに近くに、長く一緒にいたのだから。でも、言わないでいてくれてありがとう」




 彼の青灰色の瞳が、一瞬だけ揺れた。


 短い沈黙ののち、穏やかな笑みがその瞳の奥に戻る。




「ええ。ですが、思っていた以上の美しさでした」



 その言葉に、胸の奥がそっと波打つ。


 彼の長い睫毛が頬をかすめ、微笑とともに瞳が細められる。そのやさしさに包まれるようで、私は小さく笑い、前を向いた。




 廊下の先に、古城の光が満ちていく。


 新しい日々が、静かに幕を開けようとしていた。


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