雪の山荘、虚構の密室
舞見ぽこ
第1話 筋書きのない密室
ドアを開けた瞬間、冷たい空気が一気に流れ込んできた。
まるで部屋の中に、冬そのものが入り込んだみたいだった。
開け放たれた窓から、細かな雪が舞い込んでいる。
朝の光は弱く、白いカーテンが風に揺れるたび、床に落ちた雪が淡くきらめいた。
ベッドの上に、男が仰向けに倒れている。
一瞬、現実感が失われる。
だが次の瞬間、その腹部に突き立てられたナイフが視界に飛び込んできた。
刃の根元から、赤黒い血がシーツに広がり、ところどころはすでに乾きかけている。
「きゃああああああ!」
甲高い悲鳴が、部屋に響き渡った。
誰かが息を呑み、誰かが後ずさる。朝の静けさが、いとも簡単に引き裂かれていく。
これは――現実だ。
頭ではそう理解しているのに、体がうまく動かない。
ドラマや小説で何度も目にしてきた光景が、まさか自分の目の前に現れるなんて、想像したこともなかった。
どうして、こんなことになったのか。
その問いと同時に、意識がゆっくりと昨日へ引き戻されていく――。
* * * * * *
雪に包まれた山荘に到着したのは、前日の午後三時ごろだった。
山道を上がるにつれて、視界はどんどん白くなっていく。
アスファルトの端はすでに雪に埋もれ、ところどころ、タイヤが踏み固めた跡だけが黒く残っていた。
ナビがなければ、たぶん途中で引き返していただろう。
エンジンを切ると、あたりは驚くほど静かだった。
雪は音を吸う――そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
俺は
フリーのライターだ。
今回は取材の仕事で、この山奥の山荘を訪れていた。
名物の料理があると聞き、正直、それ以上の期待はしていなかった。
玄関の扉を開けると、ふわりと暖かい空気が流れ出してくる。
薪の匂いが混じっていて、思わず肩の力が抜けた。
玄関の奥から現れたオーナーは、思っていたよりずっと若かった。三十代前半だろうか。
雪焼けした肌に、少し無精ひげ。アウトドア慣れしていそうな体つきで、山の男という言葉がしっくりくる。
「今日は足元が悪い中、ありがとうございます」
穏やかな口調だが、どこか人懐っこい。
聞けば、繁盛期以外は一人で、この山荘を切り盛りしているという。
チェックインを済ませ、荷物を置いたあと、暖炉のあるオープンスペースでノートPCを開いた。
仕事を片づけてしまおうと思った矢先、声をかけられた。
「お仕事ですか?」
振り向くと、眼鏡をかけた細身の男が立っていた。背は高く、頼りになりそうな印象だ。
「ええ、取材で」
「取材? ライターさんですか?」
その声に反応したのか、周囲に集まっていた数人がこちらを見る。
「
そう名乗ると、最初に反応したのは、まだ幼さの残る青年だった。
眼鏡の男は
理屈っぽそうだが、話し方は丁寧で、いかにも頭脳派といった雰囲気だ。
その隣には、長い髪を後ろで束ねた男がいた。
視線の鋭さが、少し気になった。
そして、彼らの中でひときわ存在感があったのが、
茶髪で、他のメンバーより年上に見える。
軽そうな笑みを浮かべているが、どこか落ち着きがあり、場の中心に自然と立つタイプの男だ。
最後に、少し遅れて名乗ったのが
小柄で、くりっとした目。
茶色の髪は肩にかかるくらいの長さで、緩くウェーブがかかっている。
いかにも可愛らしい見た目だが、どこか距離を保つような佇まいで、必要以上に喋らない。
彼らは大学のミステリー研究会で、今回は合宿を兼ねてここを訪れているという。
なるほど、と内心で頷いた。
この雪の中、観光という雰囲気でもないと思っていたが、そういうことか。
「ミステリー研究会、ですか」
思わずそう口にすると、牧村が少し驚いたようにこちらを見る。
「興味あるんですか?」
「まあ……読むのも書くのも、嫌いじゃなくて」
一瞬迷ってから、正直に続けた。
「趣味で、ミステリー小説を書いてまして」
そう言うと、場の空気が一気に和らいだ。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、他愛もないミステリー談義が始まる。
そのときだった。
玄関の扉が開き、いちゃいちゃと肩を寄せ合ったカップルが入ってきた。
互いしか目に入っていない様子で、軽く会釈をすると、そのまま部屋へ向かっていく。
* * * * * *
夕食は、暖炉のある食堂で取ることになっていた。
食堂には四つのテーブルがあり、中央寄りの二卓をミステリ研の面々が使っていた。
人数が多いため、自然と二つに分かれた形だ。
俺は少し離れた壁際のテーブルに一人で腰を下ろし、さらにその奥、窓際の一卓をカップルが占めている。
テーブルごとに距離はあるが、声は十分に届く。
静かな山荘の食堂では、それだけで空間が共有されている気分になった。
名物だというどっちゃん焼きが運ばれ、鉄板の上で肉と野菜が音を立てる。
俺は一通り料理の写真を撮り、ノートPCを開いた。
キーボードを叩きながら、取材用のメモをまとめていく。
「これ、マジでうまくないっすか」
月野の声が、中央のテーブルから響いた。
「まあ、悪くはないな」
荒川が素っ気なく返す。
ロン毛を束ねた横顔は様になっているが、言葉にはどこか棘があった。
「相変わらずだな、お前」
杉田が苦笑しながら言う。
「せっかく来てるんだから、もう少し楽しめよ」
「楽しめ? この合宿自体が茶番だろ」
荒川の言葉に、杉田の箸が止まった。
「……お前さ」
声の調子が、わずかに低くなる。
「いい加減にしろよ。みんな来てるんだぞ?」
「だから言っただろ。俺は最初から――」
そのときだった。
ふと、奥のテーブルが目に入った。
カップルの女が、こちらを見ていた。
正確には、口論をしている二人を、睨んでいた。
表情は硬く、感情を隠そうともしていない。
(……気持ちはわかる)
せっかくの夕食だ。
あんなやり取りを見せられれば、不快にもなるだろう。
「もういい」
杉田は、はっきりとそう言った。
そのまま椅子を引いて、立ち上がる。
「付き合ってられん」
それだけ言い残し、彼は食堂を出ていった。
一瞬、場が静まり返った。
月野が戸惑ったように視線を泳がせ、牧村は眼鏡の位置を直すだけで何も言わない。
荒川は腕を組んだまま、無表情でその背中を見送っていた。
俺はキーボードに視線を落としながら、内心でため息をつく。
(……若いって、大変だな)
そう思って、再び画面に目を落とした。
* * * * * *
夕食のあと、食堂は少しずつ静かになっていった。
ミステリ研の面々は、それぞれ部屋に戻ったらしい。
俺はオープンスペースのソファに腰を下ろし、コーヒーを片手にノートPCを開いていた。
ここに到着してから撮った写真を整理しながら、記事の下書きを進める。
暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てている。
外は相変わらず雪だ。窓の向こうは白く霞んでいて、時間の感覚が少し曖昧になる。
時計を見ると、夜十時を少し回ったところだった。
――ドサッ。
一瞬、何の音かわからなかった。
重たいものが落ちたような、鈍い音。
建物全体が、わずかに揺れた気がした。
俺はキーボードから手を離し、顔を上げる。
「……今の、何ですか?」
カウンターの奥で片づけをしていたオーナーに声をかけると、彼は慣れた様子で振り向いた。
「ああ、屋根の雪ですね」
あっさりした答えだった。
「今日は結構降ってますから。溜まった雪が、まとめて落ちることがあるんですよ」
なるほど、と頷く。
確かに、これだけの雪だ。珍しいことでもないのだろう。
オーナーはそれ以上気にする様子もなく、作業に戻った。
俺も画面に視線を戻す。
それきり、特に何も起こらなかった。
外は静かで、雪は降り続いている。
暖炉の火が落ち着いたところで、俺も部屋に引き上げることにした。
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