雪の山荘、虚構の密室

舞見ぽこ

第1話 筋書きのない密室

 ドアを開けた瞬間、冷たい空気が一気に流れ込んできた。

 まるで部屋の中に、冬そのものが入り込んだみたいだった。


 開け放たれた窓から、細かな雪が舞い込んでいる。

 朝の光は弱く、白いカーテンが風に揺れるたび、床に落ちた雪が淡くきらめいた。


 ベッドの上に、男が仰向けに倒れている。


 一瞬、現実感が失われる。

 だが次の瞬間、その腹部に突き立てられたナイフが視界に飛び込んできた。

 刃の根元から、赤黒い血がシーツに広がり、ところどころはすでに乾きかけている。


「きゃああああああ!」


 甲高い悲鳴が、部屋に響き渡った。

 誰かが息を呑み、誰かが後ずさる。朝の静けさが、いとも簡単に引き裂かれていく。


 これは――現実だ。


 頭ではそう理解しているのに、体がうまく動かない。

 ドラマや小説で何度も目にしてきた光景が、まさか自分の目の前に現れるなんて、想像したこともなかった。


 どうして、こんなことになったのか。


 その問いと同時に、意識がゆっくりと昨日へ引き戻されていく――。



 * * * * * *



 

 雪に包まれた山荘に到着したのは、前日の午後三時ごろだった。


 山道を上がるにつれて、視界はどんどん白くなっていく。

 アスファルトの端はすでに雪に埋もれ、ところどころ、タイヤが踏み固めた跡だけが黒く残っていた。

 ナビがなければ、たぶん途中で引き返していただろう。


 エンジンを切ると、あたりは驚くほど静かだった。

 雪は音を吸う――そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。


 俺は高島田 義春たかしまだ よしはる、三十六歳。

 フリーのライターだ。


 今回は取材の仕事で、この山奥の山荘を訪れていた。

 名物の料理があると聞き、正直、それ以上の期待はしていなかった。


 玄関の扉を開けると、ふわりと暖かい空気が流れ出してくる。

 薪の匂いが混じっていて、思わず肩の力が抜けた。


 玄関の奥から現れたオーナーは、思っていたよりずっと若かった。三十代前半だろうか。

 雪焼けした肌に、少し無精ひげ。アウトドア慣れしていそうな体つきで、山の男という言葉がしっくりくる。


「今日は足元が悪い中、ありがとうございます」


 穏やかな口調だが、どこか人懐っこい。

 聞けば、繁盛期以外は一人で、この山荘を切り盛りしているという。


 チェックインを済ませ、荷物を置いたあと、暖炉のあるオープンスペースでノートPCを開いた。

 仕事を片づけてしまおうと思った矢先、声をかけられた。


「お仕事ですか?」


 振り向くと、眼鏡をかけた細身の男が立っていた。背は高く、頼りになりそうな印象だ。


「ええ、取材で」


「取材? ライターさんですか?」


 その声に反応したのか、周囲に集まっていた数人がこちらを見る。


高島田 義春たかしまだ よしはる。フリーのライターです」


 そう名乗ると、最初に反応したのは、まだ幼さの残る青年だった。

 月野つきのと名乗った彼は、少し緊張したように背筋を伸ばし、「すごいっすね」と素直に感心した顔をする。


 眼鏡の男は牧村まきむら

 理屈っぽそうだが、話し方は丁寧で、いかにも頭脳派といった雰囲気だ。


 その隣には、長い髪を後ろで束ねた男がいた。

 荒川あらかわ――整った顔立ちで、黙っていればモデルか何かに見えなくもない。

 視線の鋭さが、少し気になった。


 そして、彼らの中でひときわ存在感があったのが、杉田すぎただった。

 茶髪で、他のメンバーより年上に見える。

 軽そうな笑みを浮かべているが、どこか落ち着きがあり、場の中心に自然と立つタイプの男だ。


 最後に、少し遅れて名乗ったのが雪宮 真凛ゆきみや まりんだった。


 小柄で、くりっとした目。

 茶色の髪は肩にかかるくらいの長さで、緩くウェーブがかかっている。

 いかにも可愛らしい見た目だが、どこか距離を保つような佇まいで、必要以上に喋らない。


 彼らは大学のミステリー研究会で、今回は合宿を兼ねてここを訪れているという。


 なるほど、と内心で頷いた。

 この雪の中、観光という雰囲気でもないと思っていたが、そういうことか。


「ミステリー研究会、ですか」


 思わずそう口にすると、牧村が少し驚いたようにこちらを見る。


「興味あるんですか?」


「まあ……読むのも書くのも、嫌いじゃなくて」


 一瞬迷ってから、正直に続けた。


「趣味で、ミステリー小説を書いてまして」


 そう言うと、場の空気が一気に和らいだ。

 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、他愛もないミステリー談義が始まる。


 そのときだった。


 玄関の扉が開き、いちゃいちゃと肩を寄せ合ったカップルが入ってきた。

 互いしか目に入っていない様子で、軽く会釈をすると、そのまま部屋へ向かっていく。



 * * * * * *


 夕食は、暖炉のある食堂で取ることになっていた。


 食堂には四つのテーブルがあり、中央寄りの二卓をミステリ研の面々が使っていた。

 人数が多いため、自然と二つに分かれた形だ。

 俺は少し離れた壁際のテーブルに一人で腰を下ろし、さらにその奥、窓際の一卓をカップルが占めている。


 テーブルごとに距離はあるが、声は十分に届く。

 静かな山荘の食堂では、それだけで空間が共有されている気分になった。


 名物だというどっちゃん焼きが運ばれ、鉄板の上で肉と野菜が音を立てる。

 俺は一通り料理の写真を撮り、ノートPCを開いた。


 キーボードを叩きながら、取材用のメモをまとめていく。


「これ、マジでうまくないっすか」


 月野の声が、中央のテーブルから響いた。


「まあ、悪くはないな」


 荒川が素っ気なく返す。

 ロン毛を束ねた横顔は様になっているが、言葉にはどこか棘があった。


「相変わらずだな、お前」


 杉田が苦笑しながら言う。


「せっかく来てるんだから、もう少し楽しめよ」


「楽しめ? この合宿自体が茶番だろ」


 荒川の言葉に、杉田の箸が止まった。


「……お前さ」


 声の調子が、わずかに低くなる。


「いい加減にしろよ。みんな来てるんだぞ?」


「だから言っただろ。俺は最初から――」


 そのときだった。


 ふと、奥のテーブルが目に入った。


 カップルの女が、こちらを見ていた。

 正確には、口論をしている二人を、睨んでいた。


 表情は硬く、感情を隠そうともしていない。


(……気持ちはわかる)


 せっかくの夕食だ。

 あんなやり取りを見せられれば、不快にもなるだろう。


「もういい」


 杉田は、はっきりとそう言った。

 そのまま椅子を引いて、立ち上がる。


「付き合ってられん」


 それだけ言い残し、彼は食堂を出ていった。


 一瞬、場が静まり返った。


 月野が戸惑ったように視線を泳がせ、牧村は眼鏡の位置を直すだけで何も言わない。

 荒川は腕を組んだまま、無表情でその背中を見送っていた。


 俺はキーボードに視線を落としながら、内心でため息をつく。


(……若いって、大変だな)


 そう思って、再び画面に目を落とした。



 * * * * * *

 

 夕食のあと、食堂は少しずつ静かになっていった。


 ミステリ研の面々は、それぞれ部屋に戻ったらしい。

 俺はオープンスペースのソファに腰を下ろし、コーヒーを片手にノートPCを開いていた。

 ここに到着してから撮った写真を整理しながら、記事の下書きを進める。


 暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てている。

 外は相変わらず雪だ。窓の向こうは白く霞んでいて、時間の感覚が少し曖昧になる。


 時計を見ると、夜十時を少し回ったところだった。


 ――ドサッ。


 一瞬、何の音かわからなかった。

 重たいものが落ちたような、鈍い音。

 建物全体が、わずかに揺れた気がした。


 俺はキーボードから手を離し、顔を上げる。


「……今の、何ですか?」


 カウンターの奥で片づけをしていたオーナーに声をかけると、彼は慣れた様子で振り向いた。


「ああ、屋根の雪ですね」


 あっさりした答えだった。


「今日は結構降ってますから。溜まった雪が、まとめて落ちることがあるんですよ」


 なるほど、と頷く。

 確かに、これだけの雪だ。珍しいことでもないのだろう。


 オーナーはそれ以上気にする様子もなく、作業に戻った。

 俺も画面に視線を戻す。


 それきり、特に何も起こらなかった。


 外は静かで、雪は降り続いている。

 暖炉の火が落ち着いたところで、俺も部屋に引き上げることにした。


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