遺品整理士の最後のご馳走 〜三ツ星シェフは死者の台所に立つ〜
@DTUUU
第1話 焦げた味噌汁と、父の沈黙
夏を先取りしたような5月の湿った空気が、築40年の木造アパートにまとわりついていた。
階段を上がるたびに古い木材が悲鳴を上げ、独特の黴臭さと、閉ざされた空間特有の停滞した熱気が鼻を突く。
九条蓮は、紺色のワークウェアの袖を無造作に捲り上げ、203号室の玄関に立った。42歳。1984年生まれの彼は、人生の折り返し地点を過ぎた男特有の、静かな凄みを纏っている。
彫りの深い顔立ち。日焼けした肌には、かつて数多の料理人を束ねた過酷な厨房の記憶が、鋭い眼光となって宿っている。短く整えられた顎髭には、わずかに白いものが混じり始めているが、それがかえって、彼が歩んできた時間の重みを感じさせた。
「……ボス、またそんな怖い顔して。近所の人が通報しちゃいますよ?」
背後から、場に似つかわしくない軽やかな声がした。
佐倉ひまりだ。28歳。透き通るようなブロンドを高い位置でポニーテールにまとめ、意志の強そうな碧眼を輝かせている。彼女は九条とお揃いのダークネイビーの作業着を纏っているが、首元からは鮮やかなスカイブルーのインナーが覗き、耳元には北欧ブランドのイヤーカフが光っている。
このむさ苦しく、死の影が漂う現場において、彼女の存在だけが奇跡のように発光していた。作業着の上からでもわかるそのスレンダーでしなやかな体躯は、通りすがりの男たちが思わず足を止めるほどの華やかさがある。彼女が現場に足を踏み入れるだけで、澱んでいた空気が一変し、そこがただの「死の跡」ではなく「人の生きた場所」へと浄化されるような錯覚さえ覚える。
「……怖がらせるつもりはない。ただ、空気の密度を測っているだけだ」
「それは『死』の重さじゃなくて、ボスの顔圧のせいですって。ほら、下がってください。私が先にデジタル遺品のチェックと現場の記録を済ませちゃいますから」
ひまりはスレンダーな体を器用にくねらせ、九条の横をすり抜けて部屋へと入っていった。彼女は元広告代理店のSNSマーケターだ。数字と効率、そして虚飾の世界に疲弊し、心を病みかけていたところを、九条に救われた過去を持つ。今では、故人のスマホやPC、SNSの履歴からその人の「隠された真実」を読み解く、メモリアル・キッチンの無二の戦力だ。
今回の現場は、68歳の独身男性、佐藤和夫の孤独死。
死後3日。発見は早かったが、部屋は荒れていた。壁にはヤニが染み付き、床には新聞紙と競馬新聞が散乱している。
依頼人は、20年間疎遠だったという一人娘、真由美だ。彼女は玄関先で、顔を背けるようにして立っていた。
「……父とは、まともに話した記憶さえありません。母が死んでからというもの、あの人は自分を閉じ込めてしまいました。パチンコと、酒と、安いカップ麺。それが父のすべてだったはずです。こんな男の部屋に、整理するほどの価値なんてあるんでしょうか」
真由美の言葉には、深い断絶と、それ以上に深い「諦め」が混じっていた。
九条は答えなかった。彼はただ、ゆっくりと部屋の奥へと歩を進めた。
彼が向かったのは、テレビのあるリビングでも、万年床が敷かれた寝室でもなかった。
九条は迷わず、キッチンへと向かった。
九条の鼻が、微かな匂いを捉える。
油の酸化した匂い、埃、排水溝の湿り気。だが、その幾重にも重なった不快な匂いの地層の奥底に、別のものが眠っているのを彼は見逃さない。
彼は冷蔵庫を開けた。
ひまりが予想した通り、中には使いかけの調味料と、賞味期限の切れた缶ビール、そしてコンビニの割り箸が数本転がっているだけだった。
だが、九条の鋭い眼は、野菜室のさらに下、プラスチックの引き出しの奥に置かれた「異質なもの」を捉えた。
それは、小さな白いホーローの容器だった。
蓋を開けると、中には真っ黒に近いほど熟成された、粘り気のある味噌が入っていた。
「ボス、何か見つけました?」
ひまりが後ろから覗き込んでくる。彼女の端正な横顔が九条の肩越しに迫り、彼女が纏う清潔な石鹸の香りと、現場の埃っぽさが一瞬だけ混ざり合った。彼女の碧い瞳が不思議そうに味噌を見つめる。
「……味噌だ。それも、かなり古い。市販品じゃない。自家製だ」
「えっ、おじいさんが自分で? 娘さんの話じゃ、料理なんて一切しない、カップ麺ばかりだったって言ってましたけど……」
九条は味噌の表面に鼻を近づけ、深く吸い込んだ。
大豆の力強い発酵臭。微かな潮の香り。そして、何十年も使い込まれた樽のような、深いコクのある匂い。
九条は次に、換気扇を調べた。
フィルターの油汚れを指で拭い、その粘度を確かめる。
さらに、コンロの横に置かれた、底が真っ黒に焦げ付いた雪平鍋を手に取った。
九条はゆっくりと目を閉じ、深い呼吸を繰り返した。
『痕跡のレシピ』。
かつて味覚を失った彼が、研ぎ澄まされた他の五感を総動員して辿り着いた、狂気にも似たプロファイリング技術だ。
摩耗した鍋の取っ手の角度。
キッチンタイルの飛沫に残る、塩分とタンパク質の割合。
換気扇の奥に沈殿していた、大豆を煮た時の甘い残香。
そして、冷蔵庫の味噌に含まれた塩分濃度と、それが仕込まれた時期の気温変動――。
バラバラだった情報が、九条の脳内で一本の線へと繋がっていく。
「……ひまり。この人のSNSか、あるいはクラウド上の日記に、『11月14日』に関する記述はないか。5年前から現在に至るまでだ」
「えっ? 11月14日……。ちょっと待ってください。……ありました。PCの隠しフォルダに、非公開のブログ。……ええと、これ。5年前の投稿です。『今年も失敗だ。やはり、彼女のようにはいかない。火が強すぎるのか、それとも水が違うのか』……。画像もあります。これ、焦げ付いた味噌汁?」
ひまりがタブレットの画面を差し出す。そこには、具材が炭のようになり、黒く濁った汁が注がれたお椀の画像が並んでいた。毎年、11月14日に更新されている。最後の一枚は、一ヶ月前のものだった。そこには『ようやく、あの時の香りに近づいた気がする』と一言だけ添えられていた。
「娘さん」
九条は、震える肩を抱いてキッチンの入り口に立っていた真由美を呼んだ。
「……あなたの母親の、命日はいつですか」
「え……、11月14日です。それが、何か?」
九条は雪平鍋を、まるで壊れ物を扱うように静かに置いた。
「お父さんは、毎年この日に、お母さんの味噌汁を再現しようとしていたんだ。……この冷蔵庫の味噌を見てください。これは、お母さんが亡くなる直前に仕込んだものを、お父さんが種として大切に保管し、毎年新しい大豆を継ぎ足して育ててきたものだ」
「父が……? そんなはずありません。あの人はいつも、料理なんて面倒だ、お前の母さんの味は濃すぎて嫌いだと言っていたのに……」
「それは、あの人の照れ隠しだったのかもしれません。……この鍋の無惨な焦げ付きを見てください。これは不器用さの極致です。料理のいろはも知らない男が、たった一杯の味を追い求めて、何百回、何千回と失敗を繰り返した跡だ。……彼は、あなたに一度だけ食べさせたかったんだ。『お前の母さんは、今でもこの家に、この味の中に生きているんだ』と、言葉ではなく、食を通じて伝えるために」
真由美は言葉を失い、父が残した真っ黒な鍋を凝視した。
九条はワークウェアの大きなポケットから、畳まれた一組の白い布を取り出した。
それは、彼がかつてパリで身に纏っていた、一分の隙もない純白のコックコートだった。
彼は作業着を脱ぎ捨て、そのコートに袖を通す。
一瞬にして、42歳の遺品整理士は、かつて世界中の美食家を跪かせた「三ツ星の巨匠」へと変貌を遂げた。その背中からは、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような、圧倒的なカリスマ性が放たれている。
「ひまり、食材の調達を。最高の鰹節と、信州の天然水だ。それから、豆腐はあそこの老舗のものを。……急げ」
「了解、ボス。……もう、私のスケジュールを無視して勝手なんだから」
ひまりは困ったように肩をすくめながらも、その頬は高揚感で赤らんでいた。彼女はすぐにスマホを操作し、分刻みの指示を業者へと飛ばし始める。彼女の流れるような指先と、時折見せる真剣な横顔は、やはり非の打ち所がないほど美しい。
1時間後。
アパートの狭く、煤けたキッチンは、厳かな聖域へと変わっていた。
九条の手が舞う。大きく、力強い手が、驚くほど繊細な動きで出汁を引いていく。沸騰直前の温度管理、アクを掬うタイミング、そのすべてがミリ単位の精度で行われていく。
ひまりは、その様子をうっとりと見つめていた。仕事中の九条は、普段の無愛想さが嘘のように神々しい。彼女が安定したキャリアを捨ててまで彼についてきた理由。それは、この男が持つ「死者の尊厳を食で救う」という、狂気じみた絶対的な美学に触れてしまったからだった。
最後に、あのホーロー容器の味噌が解かれる。
黒く熟成された味噌が、黄金色の出汁の中に溶け込んでいく。その瞬間、キッチンいっぱいに、優しく、どこか懐かしい香りが弾けた。
「……できました。召し上がってください。これが、佐藤和夫さんが一生をかけて辿り着きたかった答えです」
真由美の前に、一杯の味噌汁が置かれた。
具材は、クタクタに煮込まれた豆腐と、故人が不器用に刻んでいたであろう、少し厚みの不揃いなネギ。
彼女は震える手で箸を取り、一口、その汁を啜った。
「…………っ」
真由美の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
それは、20年という長い歳月、憎しみと無関心という名の蓋をして閉じ込めていた記憶を、一瞬で抉じ開ける味だった。
厳格だった母の眼差し。その横で、いつも小さくなっていた不器用な父。
母が死んでから、父がなぜ頑なに再婚もせず、このボロアパートに住み続けたのか。
パチンコに明け暮れていると思っていた時間は、実は、この味噌の熟成を待ち、母の面影を追いかけるための祈りの時間だったのだ。
「……美味しい。……ああ、これ……お母さんの味です。……お父さん、こんなに……こんなに頑張って……」
真由美は声を上げて泣いた。
九条はその泣き声を聞きながら、何も言わずにキッチンのシンクを磨き始めた。
ひまりは彼女の隣にそっと寄り添い、予備のハンカチを差し出した。ひまりの瞳にも、宝石のような涙が溜まっている。
「……ボス、お疲れ様。今回も、100点満点ですね」
帰り際、ひまりが九条の隣に並んで歩きながら言った。彼女は少しだけ甘えるように、九条の逞しい右腕に自分の細い腕を絡める。
「……俺は再現しただけだ。レシピを書いたのは、あの部屋で孤独に生きた男だ。俺はただの、翻訳家に過ぎない」
「相変わらず謙虚すぎるんですよ。……でも、そういう不器用なところ、私は嫌いじゃないですけどね」
ひまりは茶目っ気たっぷりにウインクすると、九条の腕をぐいと引っ張った。
夕暮れのオレンジ色の光が、二人の影を長く引き伸ばす。
九条は困ったように眉を寄せながらも、その手を振り払うことはしなかった。
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