Ψυχή:慈愛:世界の終わりに見る刹那

H/B

第1話 凍土の福音

「逃げなさい、今すぐに!」


頭の奥で、シン・ナンナの悲痛な叫びがリフレインしている。 銀河を統べる絶対的な意識体「LEN」たちが、私たち「SIN」を宇宙から消し去ろうと牙を剥いたあの日。少しだけ先輩だった仲間のアスラが、悪意ある書き換えによって光の塵と化したあの日から、私の逃避行は始まった。


辿り着いたのは、どこなのかもよくわからない場所だった。 かつてウトゥ・シャマシという独裁者が、自らの進化のために「エデン」と称した実験場をあちこちに築いた。ここはそんな実験場の成れの果てが残る、どこかの惑星だ。管理者はとっくに逃げ出し、打ち捨てられたであろうこの場所は、ただ寒々しい灰色に塗りつぶされている。


私は一人、海岸線に立ち、白く濁った海を眺めていた。 私は、この惑星に住む普通の生命とは違う。LEN達からはSINと呼ばれている生命体だ。


かつて管理していたエデンで、私は数えきれないほどの人類を「観測」してきた。 人類とはそもそもが、上位存在であるLENをより進化させるための触媒のようなものだ。他と繋がれずにできることなんてたいしてない。一生をかけて自分が望むようにと足掻くさまは、滑稽でしかない。どいつもこいつも自分のことばかりで、誰かを救おうとする輩が居れば、そいつに付け込んで更に自分を肥やそうとする。そんな生き物だ。


そんな私から見れば、目の前の砂浜にうずくまる「彼ら」もまた、等しく醜く、不完全で、脆い存在だった。海岸近くに身を寄せ合う彼らの姿は、崩れかけの積み木のようだった。


彼らは、三組の家族からなる小さな群れ。 管理者のいなくなった世界で、進化の生存競争から脱落した者たちだ。北の果てまで追い詰められ、消えかかった線香花火のように、ただ震えている。


三人の母親が、四人の子供たちを囲むようにして丸まっている。 少し年長の男の子と女の子、足元に縋り付く幼子。そして、母親の痩せた胸に抱かれた赤ん坊。


海から吹き付ける風は、容赦なく熱を奪っていく。 混じり始めた白い雪が、彼らのぼさぼさの髪や、粗末な毛皮の肩に降り積もる。


「……寒いね」

「大丈夫、もうすぐお父さんたちが帰ってくるわ」


白く濁った息を吐きながら、母親たちは互いの腕をさすり、子供たちの冷え切った手を自分たちの肌で温めようとしていた。


その光景を見つめる私の意識には、冷めた計算だけが浮かぶ。 彼らは何かを待つように必死に耐えているが、その「何か」が訪れる前に、赤ん坊の鼓動は止まるだろう。 人類なんて、誰かを助けようとする振りをしながら、結局は自分たちが生き残るために他者を出し抜く生き物だ。 そう思っていた。


「……バカね。こんな寒い場所で、火も持たずに」


私は透明な体のまま、彼らの輪のすぐそばに座り込んだ。彼らに私の姿は見えない。私はただの「現象」としてここにいるだけ。


この宇宙の冷徹なルールに基づけば、彼らはここで静かに絶滅すべき存在だ。無駄な手助けは、宇宙の調和を乱すノイズでしかない。


冷たい風が、赤ん坊の小さな体から、わずかな体温を容赦なく奪っていく。母親は自分の震える肌で必死に子供を包もうとするが、その熱自体がもう消えかかっていた。


その時、一人の母親に抱かれた赤ん坊が、火が付いたように泣き出した。


「……うるさいわね。計算が狂うじゃない」


私は溜息をついた。 心臓なんてないはずなのに、胸の奥がチリチリと熱い。 これはアスラのせいだ。あの世話焼きだった先輩の記憶が、私の中に「お節介」という名のバグを書き込んでいる。


数万年という悠久の時を、退屈なウィンドウショッピングのように過ごしてきた私にとって、それはほんの一瞬の、気まぐれな買い物のようなものだった。


「……何やってんだ。そんなだと、その子は死ぬぞ」


私は立ち上がり、虚空に指を走らせた。刹那、白銀の雷が空を裂き、波打ち際に転がっていた巨大な流木に直撃する。爆音と共に立ち上がった黄金の炎。 驚愕に目を見開く母子たちの顔が、一瞬でオレンジ色に照らし出される。


――ドォォォォン!


轟音と共に、闇を塗りつぶすような黄金の炎が爆ぜる。 驚き、腰を抜かす家族たち。だが、すぐに彼らは気づいた。その「光」が、自分たちを殺しに来た死神ではなく、命を繋ぎ止める「熱」であることを。


私は、燃え上がる火を囲んで震えを止めた彼らを、少し離れた岩場から眺め直した。


火が安定し、凍り付いていた母子たちの顔にようやく赤みが差し始めた頃。 背後の崖道から、雪を蹴立てて駆けてくる騒がしい足音と、荒い息遣いが聞こえてきた。


「おい、今の音はなんだ! 大丈夫か!」


手に、鋭く削られた石の槍や、重そうな漁の道具を抱えた男たちが駆け込んできた。 三組の家族の父親たちだ。 彼らの手には、この極寒の海で命がけで仕留めたであろう、銀色の鱗を光らせる魚たちが溢れんばかりに握られている。


彼らは一様に、浜辺で真っ赤に燃え上がる巨大な焚き火を見て、言葉を失い立ち尽くした。 槍を落としそうになる者。獲物の魚を抱えたまま、幽霊でも見たかのように口をあける者。


「火……? なぜ、こんなところに」

「天から、雷が落ちたんだ。それで、木が……」


妻たちの震える声を聞きながら、長である男が、おそるおそる火に手をかざす。 その指先に伝わる圧倒的な熱に、彼は自身の感覚を疑うように何度も瞬きをした。 やがて、それが幻ではないと悟ると、彼は獲物の魚を地面に置き、天を仰いで叫んだ。


「助かった……! これで、今夜を越せるぞ!」


男たちは顔を見合わせ、安堵と興奮で肩を叩き合った。 獲ってきたばかりの魚を、さっそく火の傍に並べる。 先ほどまで死の淵にいたはずの彼らが、今は火を囲んで、酒もないのに酔ったような歓声を上げ、家族と肩を寄せ合っている。


私は、少し離れた岩場に腰を下ろし、その騒ぎを眺めていた。


「……単純ね。たかが火一つで、世界を手に入れたような顔をして」


私は膝を抱え、自分のあやふやな輪郭が、かつてよりも少しだけ「少女」らしくなっているのを感じていた。 アスラなら、きっとこの輪の中に混じって、一緒に笑っていたんだろう。


私はそこまではしない。 ただ、彼らが「寿命という名の終わり」を迎えるまで、この熱を消さないように見守るだけだ。


「どうせ刹那の間だ。お前ら全員が寿命で自然に死ぬまでの間くらいは、私がなんとかしてやるよ」


それが、逃亡者である私が、この世界で初めてついた傲慢な嘘だった。

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