人間が全てAIに置き換えられるまで
@oh2002
第1話 あなたが今見てる俳優は人間ですか?
西暦2070年。
その変化は、あまりに静かに、そしてあまりに魅力的な姿で現れた。
最初は、誰も気に留めていなかったのだ。それが、人類という種が積み上げてきた「表現」という聖域が崩壊する、最初の地滑りだとは。
「この俳優、ちょっと若返りすぎじゃない?」
暗い編集室のモニター前で、若手の助監督がコーヒーを片手に笑いながら言った。
画面に映っているのは、新作映画の重要な回想シーンだ。
「CGだろ。今どき普通だ。精度が上がっただけだろ」
プロデューサーが吐き捨てるように言った。彼の関心は、製作費をいかに抑え、いかに効率よくヒットを飛ばすかという一点に集約されている。
スクリーンの中では、三十年前にこの世を去った伝説の名優、桜井 雄二が、瑞々しい二十代の姿で泣いていた。
かつて「昭和の涙」とまで呼ばれ、国民的俳優の称号をほしいままにした男だ。
その泣き方は、完璧すぎるほど、完璧だった。
桜井特有の、わずかに左の口角が下がる癖。台詞を発する前の、肺の空気が震えるような絶妙な間の取り方。そして、大粒の涙が頬を伝い落ちる直前の、わずかコンマ数秒の沈黙。
そのすべてが、かつてのフィルムから抽出されたデータを遥かに超える密度で再現されていた。
「……上手すぎないか?」
誰かが小さく呟いた。
それは称賛というよりも、本能的な恐怖を感じていただけかもしれない。
その映画は、公開されるや否や歴代最高の興行収入を塗り替えた。
観客は劇場でむせび泣き、SNSは「桜井 雄二の再来」「奇跡の復活」という絶賛の嵐で埋め尽くされた。
人々は、自分たちが目にしているのが、演算処理の結果に過ぎないことを忘れていた。あるいは、忘れたかったのかもしれない。
「やっぱり桜井はすごい。彼にしかできない演技だ」
「生身の人間よりも、ずっと人間らしい感情が伝わってくる」
――演技が、人間を超えた。
そう書かれた批評家たちの熱狂的な記事は、わずか三日で忘れ去られた。
それが「普通」になってしまったからだ。
異変が顕著になったのは、次の作品の制作現場だった。
その映画では、もはや生身の俳優が一人も使われなかった。それはスキャンダルを回避するためでも、制作費を削るためでも、誰かの代役でもなかった。
「この役、人間には無理です」
AI演出担当のチーフが、端末の数値をチェックしながら淡々と言った。
「脚本の要求する『絶望の表現』が深すぎる。生身の俳優がこれを演じようとすれば、相当な勇気が必要になりますよ。
現場にいたベテラン俳優は、それを聞いて鼻で笑った。
「感情なんて、練習と経験でどうにかなるものだ。桜井さんだって、最初からあんな神懸かった芝居をしてたわけじゃない。泥をすすり、血を吐くような思いをして、ようやく辿り着いた境地なんだよ」
AI担当は、憐れみすら含んだ無表情で俳優を見返した。
「そうですね、かつてはそうでした。ただ、この最新モデルは一秒間に何百通りの『後悔』を演じ分けます。相手の表情、瞳孔の開き、その場の湿度や照明の波長に合わせて、観客の脳が最も揺さぶられる『後悔』をリアルタイムで生成し、出力する。……あなたに、何百もの表情がありますか?」
現場を支配していた乾いた笑い声は、そこで凍りついたように止まった。
やがて、ハリウッドからも、東映からも、あらゆる撮影所からオーディションが消えた。
配役を検討するためのキャスティング表が消えた。
スタジオにはグリーンバックだけが残り、カメラマンも、照明技師も、メイクアップアーティストも姿を消した。
映画のエンドロールに流れる名前は、急速に短くなっていった。
「主演、AIモデル堂園 完治」
「ヒロイン、AIモデル石黒 かおる」
そこには、個人の物語も、苦労話も、もう必要なかった。
半年後、新作映画の完成記者会見の光景は一変していた。
豪華な檀上に立つのは、人間ではない。巨大な高精細スクリーンだけだ。
詰めかけた記者たちが、画面の中の「俳優」に向かってマイクを向ける。
「今回の役作りで、最も苦労した点はどこですか?」
記者の質問に対し、スピーカーから穏やかで、聞き取りやすく、しかしどこか実体のない声が返ってくる。
『ありません』
スクリーンの中の美女は、完璧な角度で首を傾け、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
『私は、ただ状況に合わせた答えを選び続けただけです。苦労という非効率なプロセスは、表現においては不純物でしかありませんから』
記者はペンを走らせるのを止めた。
会場にいた誰もが、その言葉の正しさに反論できなかった。
人間が一生をかけて絞り出すような情熱や、身を削るような葛藤は、AIが導き出す「正解」の前では、ただの計算ミスのようなものだった。
観客は、完璧な悲しみに酔いしれ、完璧な喜びに癒やされた。
それが偽物であることに文句を言う者はいなかった。
なぜなら、それは本物の人間が演じるよりも、ずっと「人間らしく」見えたからだ。
誰も気に留めていなかった。
これが、人類が「自ら考えること」や「自ら表現すること」を、少しずつAIという揺りかごに預け始める序章であることに。
幸福な退場は、まず、銀幕の向こう側から始まったのだ。
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