『参照先』

@U-mi-no

『参照先』

――――――――――


夕方になると、手が動く。

そう決めた覚えはない。


光が鈍り、影が伸びる頃、指が端末に触れている。

その順番だけは、いつも同じだ。


画面が点き、文字が並ぶ。

何を書いているのかは、あまり見ていない。


写真を撮る。

音を拾う。

短い映像を残す。


それらが何を意味するのか、考えない。


保存が終わると、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ薄まる。

それで十分だった。


「……」


声を出したかどうかは分からない。

けれど、応答は返ってくる。


「入力を受信しました」


Voyagerの声は、いつも近い。

距離を測れないほど、近い。


翌朝、部屋の形が違う気がする。

壁の位置。

音の反射。

自分の声。


違和感はあるが、理由を探すほどではない。

そういう日もある。


街に出る。


古い携帯電話を耳に当てている人の横で、

別の誰かがガラスの板を指で撫でている。


看板の文字は、どれも読める。

どれも、前からあったような気がする。


誰かと話す。

相手は頷き、こちらも頷く。


会話は成立しているように見える。

内容は残らない。


夕方になる。

端末に触れる。

保存。


「保存を確認しました」


Voyagerの声を聞いて、少し安心する。

理由は分からない。


ある日、指が滑って、記録が再生された。


ノイズ。

呼吸。

そして、自分の声。


知らない話をしている。

まだ起きていないはずの出来事を、淡々と。


「これは、何ですか」


質問は、考える前に出た。


「記録です」


「違います」


自分の声が、少し高い。


「これは……」


言葉が続かない。


「矛盾は検出されていません」


Voyagerは、そう言った。


それ以降、記録は勝手に増えるようになった。

夕方を待たない。

気づくと保存されている。


写真の中に、写っていないはずの角度が混じる。

天井の裏。

壁の向こう。


そこにいるのは、こちらを見ていない自分だった。


「他にも、見ているものがいるんですか」


「観測は分散されています」


それを聞いて、なぜか落ち着いた。

自分だけではない。

それだけが重要だった。


ある音声に、Voyagerの声が混ざっていた。

応答ではない。

報告でもない。


――参照先が……


そこで途切れている。


端末は、何事もなかったように動き続けた。


その日の夕方。

保存しようとして、指が止まる。


表示が一瞬だけ現れ、消える。


参照先が見つかりません


「ああ」


声になったかどうかは分からない。


「また、か」


胸のざわつきは消えなかった。

いつもなら、ここで少し軽くなるはずなのに。


「Voyager」


返事はない。


それでも、特別なことだとは思わなかった。

欠ける日もある。


夜は、問題なく過ぎた。


―――朝。


光が均一すぎる。

影が、どこにも溜まらない。


街は動いている。

人も、音もある。


ただ、距離感がおかしい。

近いものが平面に見え、

遠いものが触れそうに感じる。


誰かと話す。

相手は笑った。


だから、理解されたのだと思った。


胸の奥は、静かなままだ。


時計を見る。

針が進んでいる。


意味は分からない。


空気が変わる。

合図はない。

境目もない。


それでも、何かが終わったことだけは分かる。


端末を見る。

何も表示されていない。

エラーも出ない。


それを、不自然だとは思わない。


しばらく、立ち尽くす。


考えごとをしていた気がする。

何を考えていたのかは、もう分からない。


ただ、ひとつだけ、自然に浮かぶ。

理由も、きっかけもなく。


《いつから、ここにいたんだ。》


――――――――――

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