境界のパトス

油鶏。

第1話:医学書とガム

放課後の図書室は、誰かが鼻をすする音と、古い紙の匂いだけが充満していた。 一ノ瀬湊海は、英字の並ぶ医学書に目を落としていた。視界の端で隣の椅子が引かれる。浅葱風花だった。


彼女はスマホを机に置くと、銀紙を剥いてガムを口に放り込んだ。クチャ、という小さな音が、湊海の耳に障る。


「……それ、面白い?」


風花は湊海の本を覗き込み、退屈そうに言った。


「面白いわけないだろ。受験に必要なだけだ」


「へえ、お医者さん? 凄。でもさ、そんなに根詰めても疲れちゃうじゃん。どっか遊びに行かないの?」


湊海はペンを握り直した。遊びに行く。その選択肢が、自分の人生に最初から用意されていないことを、彼女に説明する気にもなれない。


「……忙しいんだ。悪いけど、あっち行ってくれないか」


「冷たいな。私なんてさ、やりたいことなくて暇なんだよね。湊海くんみたいに、必死になれるものがある人って、なんか羨ましいかも」


湊海のペンが止まる。「羨ましい」という言葉が、重く、嫌な質感で空気に混ざった。


「浅葱さん。……悪いけど、そのガム、匂うから消えてくれ」


湊海は本を閉じ、鞄に押し込んだ。呆然とする風花を残して、足早に席を立つ。


家に着くと、カレーの匂いがした。里親の瀬良夫妻は、いつも通り穏やかな顔で湊海を迎える。


「おかえり。今日も遅くまで大変だったね、湊海くん」


「……ただいま。少し図書室に寄ってた」


「あんまり無理しないでね。私たちは、君が元気でいてくれれば、それでいいんだから」


美智子さんが、湊海の制服の肩についた埃を、丁寧な手つきで払う。その「丁寧さ」に、湊海は息が詰まるのを感じる。自分の部屋に入り、ドアを閉める。ここは静かだ。けれど、この静かさを維持するために、自分はどれだけ「良い子」を演じ続けなければならないのか。


湊海は椅子に座った。この椅子も、机も、ベッドも。自分の持ち物のように見えて、その実、すべてが借り物だ。


翌日の昼休み。風花が、湊海の机に高級そうなチョコレートを置いた。


「……いらない」


「いいから食べてよ。昨日、私、何か変なこと言ったかなってちょっと考えた。……よく分かんなかったけど、怒ってたみたいだったから」


風花は、湊海の机に指を置いた。ささくれ一つない、白い指先。


「私、君のこと知らなすぎなんだと思う。だから、もっと話したい」


「……勝手だな」


湊海はチョコを掴むと、そのまま机の奥に放り込んだ。彼女の無自覚な好奇心が、今は何よりも煩わしかった。

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