居丈高ですが何か?
@Kyoka_Ichijo
社会人編 序章
朝の電車は、いつも同じ顔ぶれと同じ無関心に満ちている。薄暗い車内の蛍光灯が、通勤者たちの輪郭を淡く分け隔てる。
居鴨高嗣(いがも・たかし)は、その中に溶け込むようでいながら、どこか溶けきれない塊のように立っていた。36歳。商社勤め。肩に食い込んだ革の鞄と、少し緩めに巻いたネクタイが彼の一日の定位置を告げる。
彼の目は常に半分閉じている。眠気なのか、ただの気だるさなのか、判断がつかない。だがその目は決して何かを見上げることをせず、視線はいつも下か斜め上だ。
人や風景を眺めるのではなく、採点するかのように眺める。電車の中で腕を組むサラリーマン、スマートフォンに夢中な若者、化粧直しに余念のない女性――すべてが彼の採点表に淡々と記録される。どこかで鼻で笑うような間が入り、彼の世界は自分を中心に回っているつもりでいる。
居鴨の歩き方は速くはないが、急ぐふりも見せない。鞄を片手に、わずかに前かがみになる姿勢が常だ。それは「面倒だがやらねばならない」という仕事観の反映であり、また人付き合いを最小限に留めたいという意思でもある。
会話は短く、礼節は形だけ。上司にはお世辞、部下には冷静な距離。彼は自分が他人よりも少し冷静で賢いと信じている。簡単に言えば、斜に構えるのが居鴨流だった。
過去の失敗や挫折を大仰に振り返ることはない。代わりに日常の小さな不満を拾っては、それを胸の小さな自尊心の燃料にしている。朝のコーヒーは苦く、満員電車の匂いは煩わしく、エレベーターのボタンを押して待つ時間は無駄以外の何物でもない――そんな些細なことが彼を鋭く尖らせる理由になるのだ。
だが、彼の強がりには薄い節目がある。独身という事実には慣れているが、時折、ふとした瞬間に誰かの会話の端や街角のカップルに目を持っていかれる。その目はすぐに曇り、元の無関心に戻る。居鴨は、それを「余計な感情」と呼び、さっと払ってしまうのだ。
電車のドアが開き、朝の光が一瞬だけ車内の角を照らす。居鴨は視線を窓外に移す。流れるビル群と広告の文字を、彼は短く斜めに眺めた。今日もまた、他人の期待や社内の雑音に飲み込まれる一日が始まる――そう自分に言い聞かせるように。でもどこか、いつもと違う些細な気配を鼻先で嗅ぎ取るような気がして、彼は無意識に肩をすくめた。今日もまた、彼は居丈高に振る舞う準備をしている。
会社のエントランスは、朝九時前だというのに無駄に整っていた。磨かれすぎた床に、出勤者の革靴が乾いた音を残していく。居鴨はその音の一つになりながら、受付脇の観葉植物を横目に通り過ぎる。葉の艶が妙に鼻についた。どうせ誰も気にしちゃいないくせに、と心の中で毒づく。
エレベーターを降り、フロアに足を踏み入れた瞬間、聞き慣れた軽い声が背中に飛んできた。
「おはよー、居鴨。今日も相変わらず、世の中つまんなそうな顔してるな」
声の主は長澤康太だった。居鴨と同い年、同じ部署。スーツの着こなしは適度に崩れ、ネクタイも少し緩め。人当たりの良さが服の上からでも滲み出ている男だ。居鴨は立ち止まりもせず、鞄をデスクに置きながら短く返す。
「朝から元気で結構だな。無駄なエネルギーの使い方としては、模範的だ」
「ほら出た。そういうとこだよ、居鴨」
長澤は苦笑しつつ、隣の席の椅子を引いた。コーヒーを一口飲み、ちらりと居鴨を見やる。
「なんていうかさ、君って常に誰かを見下ろしてないと酸素足りなくなるタイプでしょ」
居鴨は鼻で笑った。
「見下してるわけじゃない。事実を整理してるだけだ」
「それを世間では“性格が悪い”って言うんだよ」
即答だった。長澤は悪意のない声色で言い切る。居鴨は一瞬だけキーボードに置いた指を止め、ゆっくりと長澤を見た。
「率直だな。君はもう少し社会的配慮というものを――」
「いやいや、君が社会的配慮を語るの、ギャグでしょ」
長澤は肩をすくめる。
「昨日もさ、後輩に“無駄な質問だな”って言ってたじゃん。あれ、本人かなり凹んでたぞ」
「時間は有限だ。要点をまとめてから話せと言っただけだ」
「ほら、そうやって正論の顔して人を刺す」
長澤は楽しそうに笑う。居鴨は視線をモニターに戻し、画面に映る数字を眺めた。反論しようと思えばいくらでも言葉は浮かぶ。だが、それを口にするほどの価値も感じなかった。
「まあ、でもさ」
長澤は少し声のトーンを落とした。
「その居丈高な感じ、嫌いじゃないよ。分かりやすいし。裏表ないって言えば、聞こえはいい」
「褒めてるのか?」
「半分くらいはね」
居鴨は小さく息を吐いた。長澤のこういう距離感だけは、どうにも否定しきれない。深入りはしないが、逃げもしない。自分とは正反対の立ち位置にいる男だ。
「……無駄話はそこまでだ。始業だぞ」
「はいはい。今日も上から目線、絶好調」
そう言い残して長澤は自席へ戻っていった。居鴨は背もたれに体を預け、天井を一瞬だけ見上げる。
自分がどう見られているかなど、分かっているつもりだった。だが、それを軽口で突きつけられると、胸の奥にわずかな違和感が残る。居鴨はそれを無視するように背筋を伸ばし、キーボードを叩き始めた。
今日もまた、いつも通りの一日になる――はずだった。
昼休みの社内は、午前中の張り詰めた空気が嘘のように緩んでいた。電子レンジの低い唸り、弁当の蓋を開ける乾いた音、誰かの笑い声。居鴨は自席でコンビニの弁当を広げ、箸を手にしたところだった。
その背後から、わざとらしく咳払いが落ちてきた。
「居鴨くん」
低く、少し鼻にかかった声。振り返らずとも分かる。越谷千成。48歳。居鴨の直属の上司で、管理職という肩書きを何よりも大切に扱う男だ。居鴨は箸を置き、ゆっくり椅子を回した。
「何か?」
「“何か?”じゃないだろう」
越谷は腕を組み、居鴨を見下ろす形で立っていた。昼休みだというのに、ネクタイはきっちり締まり、シャツの皺一つない。無駄な緊張感を自分の周囲にだけ残すタイプの人間だ。
「さっきの午前会議の件だ」
居鴨は小さく息を吐いた。
「ああ、資料の話ですか」
「そうだ。君の指摘は、まあ……間違ってはいない」
その“まあ”に、居鴨は内心で眉をひそめる。
「だがな」
越谷は一拍置き、声を低くする。
「言い方というものがあるだろう。あれじゃ、相手の顔を潰している」
「事実を述べただけですが」
即座に返すと、越谷の眉がわずかに動いた。
「君はいつもそうだ。正しいか正しくないか、それだけで物を言う。だが会社は正論だけで回っているわけじゃない」
「正論を言えない環境の方が、問題では?」
居鴨は視線を逸らさずに言った。越谷の口元が一瞬、引きつる。
「……居鴨くん」
越谷は語気を抑えた。周囲に人がいることを意識しているのが分かる。
「君が優秀なのは認めている。だが、もう36だ。そろそろ“協調性”というものを覚えてもいい頃じゃないか」
協調性。その言葉に、居鴨は小さく鼻で笑いそうになるのをこらえた。
「協調性とは、非効率を飲み込むことですか?」
「そういう言い方をするから――」
越谷は言葉を切り、軽くため息をついた。
「君は損をするんだ」
その一言だけが、妙に重く落ちた。居鴨は一瞬、返す言葉を探したが見つからなかった。代わりに、弁当の冷えた白米が視界に入る。
「君がどれだけ正しくても、周囲が敵に回れば意味がない。覚えておきなさい」
そう言い残し、越谷はフロアの奥へ去っていった。残されたのは、昼休みの緩い雑音と食べかけの弁当だけだった。
居鴨は箸を持ち直し、無言で一口運ぶ。味はよく分からなかった。
正しいことを言って、何が悪い。
そう思う一方で、胸のどこかに引っかかるものがある。
――自分は、本当に損をしているのだろうか。
その答えはまだ、見えないままだった。
昼休みが終わると、フロアは再び仕事の色を取り戻した。キーボードの音が規則正しく重なり、誰かの電話越しの声が遠くで途切れる。居鴨は一時間ほど資料を整理した後、越谷に頼まれた書類を取引先へ届けるため、社外へ出ることになった。
ビルを出た瞬間、外の空気が思ったよりも冷たく頬を撫でた。都会の昼下がりは、時間の感覚が曖昧だ。ランチを終えた人々と、これから昼食に向かう人々が混ざり合い、歩道は妙な流れを作っている。
居鴨はその流れに逆らわず、しかし合わせもしない速度で歩いた。人混みを縫うのは得意だ。視線を上げず、他人の動きを予測して最短距離を選ぶ。無駄な接触を避ける。それは長年の通勤で身についた、彼なりの処世術だった。
だが、交差点手前でその流れが一瞬だけ乱れた。
前方で誰かが立ち止まり、後ろから軽く押される。居鴨は反射的に足を止め、舌打ちを飲み込んだ。原因を探ると、歩道脇で配られているチラシと、それを断りきれずに足を止めている数人の姿があった。
「……非効率だな」
思わず小さく呟く。だが、その瞬間、肩に何かが触れた。
「すみません」
女性の声だった。柔らかいが、はっきりとした響き。居鴨は一歩横にずれ、視線だけを向ける。スーツ姿の女性が、手に書類を抱え、軽く頭を下げていた。彼女はすぐに歩き出し、人混みに紛れていく。
それだけのことだった。居鴨はすぐに視線を戻し、歩き出そうとする。
――が、足元に白い紙が落ちているのが目に入った。
名刺だ。
拾い上げると、端正な文字が印刷されている。
「越野……惹子(こしの ひきこ)」
居鴨は一瞬、その名前を口の中で転がした。証券会社のロゴ。役職名はシンプルで、余計な装飾はない。
「落とし物か」
そう呟きながら彼は周囲を見回した。しかし、先ほどの女性の姿はもう見えない。人の流れは元に戻り、誰も気に留めていない様子だった。
居鴨は名刺を一度、ポケットにしまいかけて――止めた。
なぜか少しだけ引っかかる。理由は分からない。見ず知らずの他人の名刺など、普段なら気にも留めないはずだ。それなのに、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
「……後で、捨てておくか」
そう自分に言い聞かせ、居鴨は再び歩き出した。空は変わらず高く、街はいつも通りに動いている。
ただ一枚の名刺だけが、彼のポケットの中で静かに存在感を主張していた。
取引先の入るビルは会社から歩いて十分ほどの場所にあった。ガラス張りの外観は新しく、無駄に開放的だ。居鴨はエントランスで受付を済ませ、首から下げた来訪者用のカードを軽く指で弾いた。こういう形式的な手続きには、いつまで経っても慣れない。
案内された会議室は静かで、空調の音だけが微かに響いている。居鴨は椅子に腰掛け、持参した書類を机の上に整然と並べた。無駄な動きはしない。待つ時間も、仕事の一部だと割り切っている。
数分後、ドアが開いた。
「お待たせしました」
入ってきたのは想像より若い男性だった。30代前半だろうか。少し緊張した面持ちで名刺を差し出してくる。
「株式会社東和システム、佐伯です」
居鴨は立ち上がり、名刺を受け取る。
「居鴨です。本日は書類のお届けのみになります」
必要最低限の言葉だけを交わし、早々に本題へ入る。居鴨は書類を差し出し、内容の要点を簡潔に説明した。佐伯は何度も頷きながら聞いているが、途中で視線が泳ぐ。
「こちらの条項ですが……」
佐伯が恐る恐る口を開く。
「前回の打ち合わせでは、少し違う認識だったように思うのですが」
居鴨は即座に答えた。
「その認識が誤りです。議事録をご確認ください。三ページ目に明記しています」
佐伯は言葉に詰まり、慌てて書類をめくる。しばらくして、小さく息を吐いた。
「……確かに、こちらの確認不足でした」
「よくあることです」
居鴨は淡々と言った。責めるでもなく、慰めるでもない。ただ事実を置いただけだ。そのつもりだった。
だが、佐伯の表情は硬いままだ。
「今後は、こちらでも共有を徹底します」
「お願いします。双方の時間のためにも」
その言葉が、わずかに空気を冷やした。佐伯は小さく頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました」
居鴨も形式的に頭を下げ、会議室を後にした。
廊下を歩きながら、居鴨は特に問題はなかった、と自分に言い聞かせる。事実を指摘し、効率的に話を終えた。それ以上でも以下でもない。
エレベーターを待つ間、ふと背後から声がした。
「……あの」
振り返ると、先ほどの佐伯が立っていた。少し躊躇った様子で、しかし意を決したように口を開く。
「率直に言って、居鴨さんは……仕事ができる方だと思います」
居鴨は何も言わずに続きを待つ。
「ただ……少し、近寄りがたいですね」
その言葉は、予想以上にまっすぐだった。
「悪い意味ではなくて。ただ、こちらが間違えた時に、相談しにくいと感じました」
居鴨は一瞬、返す言葉を失った。だがすぐに、いつもの無表情に戻る。
「それは、御社の問題です」
自分でも驚くほど、即座に言葉が出た。
佐伯は苦笑し、深く追及はしなかった。
「そうですね。失礼しました」
エレベーターの扉が開き、二人は無言で乗り込む。下降する箱の中で、居鴨は数字の表示を見つめていた。
自分は間違っていない。
それでも――。
ビルを出た瞬間、昼下がりの光が少しだけ眩しく感じられた。居鴨は無意識に胸ポケットに手をやる。そこには先ほど拾った名刺がある。
「近寄りがたい、か」
小さく呟き、彼は再び歩き出した。正しさだけでは測れない何かが、少しずつ輪郭を帯び始めていた。
夜の部屋は静かだった。
帰宅してからシャワーを浴び、コンビニで買った簡単な夕食を済ませる。テレビはつけない。ニュースの声や、誰かの感情が混じった音は、今夜はいらなかった。
居鴨はソファに腰を下ろし、ネクタイを外したまま天井を見上げる。照明はつけていない。カーテンの隙間から、街灯の光が薄く部屋を切り取っている。
今日一日を振り返るつもりはなかった。
だが、頭は勝手に記憶を引き戻す。
越谷の声。
「君は損をするんだ」
佐伯の言葉。
「近寄りがたいですね」
そして昼下がりの歩道で肩が触れた、あの一瞬。
居鴨は小さく舌打ちをした。
「……くだらない」
自分は正しいことをしている。
間違ったことは言っていない。
効率を重視し、感情に流されない。それが社会人として最適解だ。
そう、ずっと信じてきた。
テーブルの上に置いた鞄から、無意識に名刺を取り出していた。
白地に黒文字。余白の多い、落ち着いたデザイン。
「越野惹子」
名前を目で追う。
昼間は何とも思わなかったはずなのに、今は妙に目に残る。
証券会社。
超エリートという言葉が頭をよぎり、すぐに消す。
「だから何だ」
独り言が部屋に溶けた。
彼女が誰であろうと、自分の人生には関係がない。
そう言い切れるほど居鴨は自分の世界に満足している――はずだった。
だが満足している人間は、他人を見下す必要があるだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、居鴨は眉をひそめた。
「違う」
即座に否定する。
見下しているのではない。距離を保っているだけだ。
期待しなければ、失望もしない。深入りしなければ、傷つくこともない。
それだけの話だ。
それなのに。
誰かに「近寄りがたい」と言われたとき、なぜあんなにも胸の奥がざらついたのか。
なぜ佐伯の言葉が頭から離れないのか。
居鴨はソファから立ち上がり窓辺に立った。
ビルの隙間に見える夜空は驚くほど無関心だ。
36歳。
独身。
仕事は順調。評価も悪くない。
足りないものは、ないはずだった。
「……はず、か」
小さく笑う。
自分の声が思ったよりも乾いていることに気づく。
名刺を指で挟み、しばらく眺めた後、引き出しにしまおうとして――やめた。
代わりに机の上にそっと置く。
理由は分からない。
ただ、今はしまいたくなかった。
電気を消し、ベッドに横になる。
天井の暗闇の中で、居鴨は目を閉じた。
正しさだけでは、埋まらない何かがある。
それを認めてしまったら、これまでの自分が崩れてしまいそうで、怖かった。
だから今夜は、考えない。
そう決めて、彼は浅い眠りに落ちていった。
名刺は机の上で静かに朝を待っていた。
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