第7話 『虚無の王座 ― 伝道の書 第八章 ―』
深夜の執務室。アラン・クロウの瞳には、もはや星条旗の赤も白も映っていない。ただ、モニターから放たれる漆黒の光が、彼の顔を「王」としての冷徹な仮面へと変えていた。
手元には一冊の古びた聖書が開かれている。アランは震える指先で、伝道の書の八章をなぞった。
「『王の言葉は絶対である。誰が王に向かって、何をしているのだと言えるだろう』……か」
アランは低く笑った。その笑い声は、喉に詰まった重油が泡立つような、湿った音を立てる。
「……そうだ。私は神に誓いを立てた。この資源で人々を救うと。ならば、私が行うすべての『選別』は、神の代行に過ぎない」
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「……本当に、そう思っているの?」
背後から、冷ややかな、だが悲しみに満ちた声がした。ルシア・マルケスだ。彼女は闇の中から、糾弾者のように現れた。
「アラン、あなたの顔を見て。知恵によって輝いているのではない。黒い欲望が内側から透けて、険しい表情が石のように固まっているわ。あなたは『王の命令を守れ』という言葉を、自分の都合のいいように解釈しているだけ」
「ルシア、また君か」
アランは椅子を回し、彼女を睨みつけた。彼の瞳の奥では、黒い液体が渦を巻き、激しい水流の音を立てている。
「読み進めてみろ。『おきてを守る人は災いを経験しない』。私はルールを作っているんだ。誰が富を得て、誰が飢えるか。この適切な『時』と『扱い方』を知っているのは、世界で私一人だけだ」
「いいえ、あなたは次の節を読み飛ばしているわ!」
ルシアはデスクに歩み寄り、開かれたページを強く指差した。
「『未来に何が起きるかを誰も知らない』! アラン、あなたは資源を意のままに操っているつもりでしょうけど、生命力も、死ぬ日も、誰一人としてコントロールはできないのよ。このブラック・ゴールドがいつあなたを食い破るか、あなた自身にも分からないはず」
「黙れ! 私がこの力を維持している限り、死さえも『管理』の対象だ!」
アランが叫ぶと同時に、部屋の壁に掛けられた歴代大統領の肖像画の額縁から、真っ黒な油が涙のように流れ出した。
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アランは立ち上がり、ルシアに歩み寄った。一歩ごとに、床の絨毯がジュッと音を立てて焦げ、黒いシミが広がる。
「『人は人を支配し、人に害を及ぼしてきた』……。聖書にはそうあるな。だが、私の支配は違う。私は悪人を葬り、正しい者に報いている」
「いいえ。あなたは正しい人を悪人のように扱い、自分に跪く悪人を正しい人として扱っているわ。地上で起きている『むなしいこと』の根源に、あなた自身がなっているのよ」
ルシアの声は、次第に予言者のような重みを帯び始めた。
「悪い行いに対する刑罰が下されないから、人は平気で悪を行う。……アラン、世界を見て。あなたの恩恵に預かろうと、人々は魂を売り、隣人を告発し、嘘をつき続けている。彼らは長生きするかもしれない。でも、その日々は影のようで、長くは続かない。神を畏れていないからよ」
「畏れる? 誰をだ。この力を握っている私をか?」
アランはルシアの顎を、黒く汚れた指先で強引に持ち上げた。 彼の指からは、鼻を突くような硫黄の臭いと、人を陶酔させるような甘い香りが混ざり合って漂っている。
「私は昼も夜も寝ずに、この地上の活動を観察している。知恵を得ようとしている。君の言う通りだ、ルシア。人間には神の行いを理解することはできない。……ならば、誰も私を理解できなくて当然だ。私は、神の仕事を引き受けたのだから」
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ルシアはアランの手を振り払った。その瞬間、彼女の手のひらから清浄な光が放たれ、アランの指の黒ずみが一瞬だけ弾け飛んだ。
「神の仕事? 傲慢も極まったわね。伝道の書にはこうも書いてある。『食べ、飲み、喜ぶこと、これ以上の幸せはない』と。……一生懸命働いて、日常のささやかな喜びに感謝する。それが人間よ。でも、あなたの与える富には『喜び』がない。あるのは『依存』と『恐怖』だけ」
「喜びだと? 飢えが消えたことが喜びでなくて何だ!」
「それは、喉を焼くような酒を飲ませて、一時の渇きを忘れさせているだけよ。アラン、最後の一節を読みなさい。人間がどれだけ理解しようとしても、決して理解できない。……あなたが管理していると思っているその『黒き資源』の真意を、あなたは一生理解できない」
アランは、ルシアの言葉に一瞬だけ怯んだ。 心臓の鼓動が、不規則に、激しくのたうつ。 血管の中を流れる原油が、彼の脳に直接、数百万人の「呪詛」を送り込んできた。
『……裏切り者……』 『……私にだけ……もっと……』 『……管理者は……誰だ……』
「……う、ぐ……!」
アランはデスクにしがみついた。 彼の目から、透明な涙ではなく、粘り気のある黒い液体が零れ落ちる。
「……私は、正しい。私は、賢い。私が……解決策を知っている……」
「いいえ。あなたはただ、悪にはまり、その結果を免れることができない、哀れな一人の人間に過ぎないわ」
ルシアは静かに告げ、執務室の重い扉へと向かった。
「アラン、戦いの間、持ち場から離れることは誰にもできない。あなたは自分でこの戦場を選んだ。……でも、神を畏れない者の末路は、いつも影のように消えていくだけよ」
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扉が閉まる。 沈黙が戻った執務室で、アランは再び聖書に目を落とした。
文字が、黒い油に浸食されて読めなくなっていく。 「……賢い心は……適切な時を……知る……」
アランは震える手で、デスクの上の「支援停止リスト」に署名をしようとした。 だが、ペンの先から溢れたのは、もはや文字ではなく、彼の指先から直接流れ出す漆黒の濁流だった。
窓の外では、雷鳴とともに黒い雨が降り続いている。 地上で行われているすべての活動を、アランは監視し、管理しているつもりだった。 だが今、彼は気づき始めていた。 自分を動かしているのは自分の意志ではなく、全身を巡る、この理解不能な「黒い神」の拍動であることを。
「……これもまた、むなしい」
アランが呟いた言葉は、誰に届くこともなく、黒く染まった部屋の闇に吸い込まれていった。 管理という名の支配。その檻の中で、王は自らが招いた「呪い」のページを、震えながらめくり続けるしかなかった。
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