その花嫁、代行します! 〜ヌシ様は元プログラマーで、異世界デバッグ生活が始まりました〜
凰 百花
第1話 お別れは突然に
行きつけの喫茶店で
「どうしたの、急に。仕事は大丈夫?」
「ああ、悪い。話があるんだ」
彼は、灯里と目を合わせようとしなかった。
「あ、そうだ先に頼んであった資料、もらえるかな」
思い出したように言われ、灯里は鞄の中から厚みのある封筒を取り出した。
「はい、これ」
拓馬はクラフト封筒内の書類を取り出し、パラパラと確認する。
「これで明後日の会議に間に合う」
と安堵の笑みを漏らす。その笑顔に灯里の胸が温かくなる。徹夜で資料をまとめた甲斐があったというものだ。だが、書類を鞄に仕舞った拓馬は、やおら表情を引き締めて向き直った。
「あのさ、きっと耳に入るから言っておく。俺、受付の橘さんと付き合う事になった。彼女に告白されたんだ」
「えっ」
橘さんといえば、社内一の美貌で有名な受付嬢だ。
「ごめん、別れよう。君には俺より、もっとふさわしい人が現れると思う」
灯里が絶句している間に言うだけ言うと、拓馬はそそくさと店を出ていってしまった。テーブルには、彼の注文した手付かずのコーヒーと伝票だけが残された。
「最後まで、これ」
冷めきった自分のコーヒーを飲み干し、灯里は二人分の料金を払って店を出た。
「なにが『君にも相応しい人』、よ! 」
銀行で金を下ろし、回らない寿司屋に入り、飲み屋を数軒はしごした。彼は会社のホープとして営業部から経営戦略部へと抜擢されたばかりだ。このところ「資料をまとめて欲しい」というメールばかりが届いていたが、忙しいのだと自分を納得させていた。それが、都合よく利用されていた挙げ句の別れ話。これが酔わずにいられようか、そんな気分だったのだ。
いささか酔いが回りすぎたのか、足元がふらついてなにかに
「なに、これ」
暗い円の黒が
気がつけば、あの黒円もまとわりつく紐も消失していた。酔って幻覚でもみたのだろうか。立ち上がって辺りを見回すが、公園かどこかに迷い込んだのか、周辺には木々が立ち並んでいるばかりだ。街灯はなく、月明かりだけが地面を照らしている。
「帰らなきゃ。でも、ここはどこだろう」
まだ酔いが回っているらしく少しぼうっとしながら、月明かりを頼りに林の中の一本道を歩く。
(こんなところ、近所にあったかしら。記憶が少し飛んでいる?)
しばらく歩くと集落に出た。家々は古めかしい日本民家のように見える。灯里は鞄の中を探ったが、スマートフォンがない。どうやらどこかで落としたようだ。
(困った。マップで現在地を調べようと思ったのに)
周囲を見回しても駅らしき建物も見当たらない。酔いで気が大きくなっていたのか、彼女は手近な一軒の門を叩いた。
「すみません、夜分遅くに。どこか近所に泊まれるところをご存知ありませんか? 」
いつもの彼女だったらしなかったであろう不躾な真似だったが、得体の知れない不安から逃れるために、誰かと話したかったのかも知れない。
「はい」
玄関先に現れたのは、綺麗な若い女性だった。少し目が赤いのは、泣いていたのだろうか。
「あの、道に迷ってしまいまして…… 」
女性は灯里をじっと見つめ、やがて口を開いた。
「うちに泊まっていただいても結構ですよ。なんのお構いもできませんが」
灯里が目を覚ました時、見知らぬ天井が目に入った。
「え、ここ、どこ」
昨日の記憶が蘇り頭を抱えたところへ、障子戸を開けて昨夜の娘が声をかけてくれた。
案内された座敷には、娘の両親が待っていた。
「
爽やかな笑顔の娘と、穏やかな夫婦。灯里はその場に平伏した。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました!」
一瞬、静まり返ったが、父親が柔らかな声で応じた。
「なに、困った時はお互い様です。そんなに鯱張らずに。気にせんでいいですよ」
「たいしたものはありませんが、どうぞ召し上がって下さい」
温かいご飯とお味噌汁、卵焼きとお新香。彼女にとって人と一緒に食べる朝食は久しぶりだった。膳を囲み、畳敷きの和室で座布団に座って食べる。目の前の三人の装いは着物とは少し違うが、洋装でもない。父親が着ているのは作務衣ように見えた。灯里は食後のお茶を飲み、落ち着いたところで切り出した。
「あの、ここはどのあたりなのでしょうか。近くに駅はありますか?」
父親は不思議そうに首を傾げる。
「えき、とは何でしょうか」
「電車の駅です。バス停でもいいのですが」
三人は顔を見合わせた。
「……そう考えると、貴方は迷い人だと思われますな」
「迷い人……」
神隠しか、あるいは異世界転移か。魔法陣に呼ばれた記憶はないけれど。唖然とする灯里に、父親は静かに告げた。
「村長の所に届け出なければなりますまい」
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