第3話 義兄の仕事を手伝いなさい


 翌朝。  私は逃げ出したい気持ちを抑えて、玄関に立っていた。


 隣には、完璧なスーツ姿の義兄、リョウさんが立っている。


「じゃあリョウ、その子をよろしくね。ちゃんと働かせるのよ」


 義母は私を厄介払いできるのが嬉しいのか、上機嫌で手を振った。  私は小さく「行ってきます」と呟き、リョウさんの後に続いて家を出た。


     ◇


 目の前には、黒塗りの高級セダンが停まっている。


 リョウさんが黙って運転席に乗り込んだので、私は慌てて後部座席のドアに手をかけようとした。  タクシーや送迎車のような扱いをしては失礼だと思ったからだ。


「……おい」


「は、はいっ!」


「どこに乗るつもりだ。俺は運転手じゃない」


 低い声で咎められ、私はビクリと縮み上がる。  慌てて助手席のドアを開け、身体を滑り込ませた。


 車内は微かに、柑橘系のコロンの香りがする。  清潔で、余計なものが何一つない空間。


 それは、リョウさんそのもののように感じられた。


 車が走り出すと、重苦しい沈黙が降りてきた。


 何か話さなければ。  失礼がないようにしなければ。


 焦れば焦るほど、喉が張り付いて声が出ない。


「あ、あの……ご迷惑をおかけして申し訳ありません。  私、事務の経験もあまりなくて……足手まといにならないよう、掃除でもお茶汲みでも何でもしますので」


 膝の上で拳を握りしめ、精一杯の愛想笑いを浮かべて言った。  けれど、リョウさんの視線は前方に向いたままだ。


「……余計なことはするな」


「え……」


「言われたことだけやればいい。勝手な判断で動くな」


 冷たく突き放された言葉に、私は唇を噛んだ。


 やっぱり、迷惑なのだ。  「無能な人間が張り切るとろくなことがない」という意味に違いない。


 私は「すみません」と小さく謝り、窓の外へ視線を逃がした。


     ◇


 三十分ほどで、オフィス街にあるビルの一角に到着した。  リョウさんが経営する会社は、IT系のコンサルティングを行っているらしい。


 オフィスに入ると、数人の社員がパソコンに向かっていた。  静かで、どこか張り詰めた空気が漂っている。


「おはようございます、社長」


「ああ」


 リョウさんは短く答え、奥の社長室へと向かう。  私はどうしていいか分からず、おろおろとその後をついていった。


 社長室に入ると、リョウさんは自分のデスクではなく、部屋の隅にある空いたデスクを指差した。


「お前の席はそこだ」


「は、はい。ありがとうございます」


 とりあえず荷物を置く。  さて、まずは何をすればいいのだろう。


 義母は「雑用係」と言っていた。  それなら、まずは掃除とお茶の用意だ。


 私は給湯室を探そうと、入り口の方へ振り返った。


「どこへ行く」


 背後から鋭い声が飛んできた。


「えっと、皆さんにお茶を淹れようかと……あと、掃除用具があれば」


「座れ」


「え?」


「そんなことは清掃業者がやるし、飲み物は各自で飲む。お前がやる必要はない」


 リョウさんは不機嫌そうに眉を寄せ、私を睨んだ。


「お前を呼んだのは、家政婦代わりにするためじゃない」


「で、でも……お義母さんが、食い扶持分は働けと……」


 私がモゴモゴと言い訳をすると、リョウさんはチッ、と小さく舌打ちをした。


 怖い。怒らせてしまった。


 私が身を竦めると、彼は大きなため息をついた。  そして、一冊の分厚い本と、タブレット端末を私の机にドン、と置いた。


「いいか。今日からお前の仕事はこれだ」


「……これは?」


 恐る恐る、表紙を見る。


 そこには――**『簿記検定 合格テキスト』**という文字が書かれていた。


「え……?」


 予想外のものに、私は目を丸くしてリョウさんを見上げた。


 彼は腕を組み、冷たい瞳で私を見下ろして告げた。


「それを覚えろ。全部だ」


 これが、リョウさんの会社での私の「仕事」の始まりだった。


 掃除でも雑用でもなく、なぜか勉強。


 その意味を問う勇気も今の私にはなく、ただ目の前の分厚いテキストに圧倒されるばかりだった。

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