料理の腕を奪われたΩの俺が、運命の番であるスパダリαな次期当主様に見初められ、国の運命を懸けた神聖な恵方巻を作って奇跡を起こす。

藤宮かすみ

第1話「雪解けの匂いと出会い」

 吐く息が白く染まる。

 年の瀬も押し迫った都は、数日前に降った雪がまだ屋根の端や路地の隅に白く残っていた。空気を切り裂くような冷たさの中、人々は襟を立てて忙しなく行き交っている。


 そんな賑わいから一本外れた裏路地。その奥に、俺の営む小さな食事処「木漏れ日」はひっそりとあった。客はほとんどが顔なじみで、新しい客が迷い込んでくることは滅多にない。それでいいと、俺は思っていた。


『目立たず、静かに。誰にも迷惑をかけずに生きていく』


 それが、この都で暮らす俺、伊吹にとっての絶対のルールだった。

 なぜなら俺は、この国では蔑まれ、時に搾取の対象にさえなるΩ(オメガ)だからだ。抑制剤を毎日欠かさずのむことで、俺はかろうじてβ(ベータ)のふりをして生活している。この秘密だけは、誰にも知られてはならない。


 からん、と入口の戸につけた鈴が鳴った。なじみの行商人のおじさんかと思って「いらっしゃいませ」と顔を上げ、俺は息をのんだ。


 そこに立っていたのは、見たこともない男だった。

 その男が纏う上質な黒い着流しは、この薄暗い店の中では闇そのもののように見える。高く結われた濡れ羽色の髪。通った鼻筋に、切れ長の涼しい目元。全てが、まるで一寸の隙もなく磨き上げられた芸術品のようだった。


 だが、何より俺を竦ませたのは、その男から放たれる圧倒的な存在感だ。それは、生まれながらに他者を支配し、導く者だけが持つα(アルファ)の匂い。空気が張り詰め、肌がピリピリと痺れるようだ。


『αだ……それも、とんでもなく強い』


 抑制剤をのんでいるおかげでフェロモンに直接当てられることはないが、本能的な恐怖が背筋を駆け上る。俺は無意識に肩を縮め、男から視線を逸らした。


「一人だ」


 低く、よく通る声が店内に響く。俺はびくりと体を震わせ、慌ててカウンター席を指さした。


「あ、どうぞ。そちらへ」


 男は静かに頷くと、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。その流れるような所作ひとつにも、育ちの良さが滲み出ている。こんな裏路地の店に、どうしてこんな人が。疑問が頭をよぎるが、口に出す勇気はなかった。


「今日の定食を」


「はい。すぐにお持ちします」


 今日の定食は、カレイの煮付けに、出汁をたっぷり含ませた里芋の煮物、ほうれん草のおひたし、そして炊き立ての白飯と豆腐とワカメの味噌汁。特別なものは何もない。いつも通りの、うちの定食だ。


 緊張で強張る指先を叱咤し、俺は調理を始めた。男の視線が、背中に突き刺さるように感じられる。品定めをされているような、あるいは、もっと別の何かを探られているような。落ち着かない気持ちのまま、俺は丁寧に料理を膳に並べていく。


「お待たせしました」


 男の前に膳を置く。男は料理に視線を落とし、それからふと、俺の顔を見上げた。射抜くような黒い瞳と視線がかち合い、心臓が大きく跳ねる。


「……いい匂いだ」


「え?」


「料理の、匂いだ。腹が鳴る」


 そう言って、男は少しだけ口元を緩めた。そのわずかな変化に、俺はなぜかひどく安堵していた。男は静かに箸を取ると、まず味噌汁を一口すすった。そして目を閉じ、深く息を吸い込む。


『よかった、口に合ったかな』


 祈るような気持ちで見つめていると、男は次にカレイの煮付けに箸を伸ばした。ふっくらと煮えた白い身を丁寧に取り分け、口に運ぶ。咀嚼する音だけが、静かな店内に響いていた。


 それから男は、一言も発することなく黙々と食事を進めた。その食べ方はとても綺麗で、見ているだけで気持ちがいい。俺はそんな男の様子を、気づかれないようにそっと盗み見ていた。


 やがて、膳の上の皿は全て空になった。ご飯粒ひとつ残されていない。男は静かに箸を置くと、再び俺を見た。


「美味かった。今まで食べたどの料理よりも」


 それは、社交辞令などではない、心の底からの言葉だとわかった。その真っ直ぐな称賛に、じわりと胸の奥が熱くなる。Ωだとバレて、師事していた親方から「お前のような者が神聖な厨房に立つな」と追い出されて以来、俺は自分の料理を誰かに褒められることからずっと逃げてきた。


「……ありがとうございます。ありふれた家庭料理ですけど」


「いや。お前の作るものには、人の心を温める力がある」


 男の言葉が、凍りついていた心の表面を少しだけ溶かしていく。そんな感覚に戸惑っていると、男は懐から財布を取り出し、勘定を済ませて立ち上がった。


「また来る」


 短くそう告げて、男は店を出て行った。

 からん、と鈴の音が鳴り、元の静寂が戻ってくる。俺は男が座っていた席を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 残されたのは、料理の匂いと、そして、この店には不釣り合いな、気高く、どこか冬の森の奥深くを思わせるようなαの残り香。


 雪解けの季節を予感させる、不思議な出会いだった。

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