第30話:魂の輸血、紅と黒の契約

 深夜の東京拘置所・特別医療棟。

 無機質なスチール製の壁に囲まれた手術室は、生命維持装置の電子音だけが規則正しく響いていた。


 手術台には、瑛司(えいじ)が横たわっていた。

 彼の身体は、見ていられないほど透き通っていた。皮膚の下の血管が青白く発光し、その光が蛍火のように明滅している。

 肉体という器が限界を迎え、魂が外へ漏れ出し始めているのだ。


「……準備はいいですか」

 政府から派遣されたという謎の研究医が、ゴム手袋をはめながら私に尋ねた。

 彼の眼鏡の奥の瞳は、冷徹な観察者のそれだった。彼にとって、これは治療であると同時に、未知のエネルギー実験なのだ。


「ええ。始めてください」

 私は瑛司の隣のベッドに横たわり、袖をまくり上げた。

 私の腕と瑛司の腕は、複雑なチューブと濾過装置(フィルター)で繋がれている。

 その中央には、黒曜石の容器に入った「原初のインク」がセットされていた。


「手順を再確認します。まず、あなたの動脈から血液を採取し、この装置の中で『原初のインク』と混合させます。……通常なら、インクの強力な呪いに血液が負けて凝固しますが、適合者であるあなたの抗体がそれを中和し、馴染ませるはずです」


 医師がスイッチを入れると、ポンプが低い音を立てて動き出した。

「そして、その『インク化された血液』を、患者の静脈へと流し込む。……彼の枯渇したエネルギー源を、あなたの血とインクで強制的に満タンにするのです」


 理論は単純だ。

 だが、それはガソリンエンジンにニトロをぶち込むような暴挙だ。


 ブスリ。

 太い針が私の血管に刺し込まれた。

 熱い血が吸い上げられ、チューブの中を走る。

 それが黒いインクの槽(そう)を通過した瞬間、透明なチューブの中身が、毒々しい赤黒い色に変色した。


「……っ、ぐぅ……!」

 瑛司の体に、その液体が入り込んだ瞬間、彼は意識がないまま激しく痙攣した。

 同時に、私の体にも激痛が走った。

 血を抜かれている痛みではない。魂を削り取られるような、焼けるような痛み。

 背中の「救世観音」が、異常な熱を発して暴れだす。


「拒絶反応が出ています! 心拍数上昇! ……やはり、他人の血と呪いは混ざり合わないか!?」

 医師がモニターを見て叫ぶ。

「中止しますか!? このままだと、あなたまでショック死する!」


「……止めないで!」

 私は歯を食いしばり、脂汗を流しながら叫んだ。

「混ざらないなら、混ぜてみせる……! 私の血も、魂も、全部彼にあげるんだから……拒絶なんてさせない!」


 私は意識を集中した。

 チューブの中を流れる自分の血に、意志を込める。

 (行け。瑛司の元へ。……彼を生かせ!)


          *


 不意に、視界が白く染まった。

 手術室の天井が消え、気づけば私は、一面の雪原に立っていた。

 音のない世界。

 空からは、灰のような雪がしんしんと降り積もっている。


「……ここは?」

 私は自分の体を見た。

 拘置所の服ではなく、あの懐かしい純白のイブニングドレスを着ていた。

 そして、前方を見る。

 吹雪の向こうに、人影があった。


 瑛司だ。

 彼は白銀のタキシードを着て、裸足で雪の上を歩いていた。

 その体は、雪景色に溶けそうなほど薄く、透明になりかけている。

 彼は振り返ることなく、遠くに見える「黒い太陽」のような穴に向かって歩き続けていた。

 死の世界への入り口。


「瑛司! 待って!」

 私は叫び、雪を蹴って走った。

 だが、足が重い。雪が足首を掴むように絡みつく。


「瑛司! 行かないで!」

 私の声に、彼が足を止めた。

 ゆっくりと振り返る。その顔には、穏やかだが、どこか諦めたような微笑みが浮かんでいた。


『……お嬢。どうしてここへ?』

 声は耳ではなく、心に直接響いてきた。

『ここは、終わった者たちが還る場所です。お嬢はまだ、あっちにいなきゃいけない』


「違う! あなたも戻るのよ!」

 私は必死に彼に手を伸ばした。

「約束したじゃない! 勝って、二人で日昇の海を見るって! 小説を書くのを、隣で見張ってくれるって!」


『……燃料が切れちまいました。俺という車は、もう廃車です』

 瑛司は悲しげに自分の胸元を触った。そこには大きな空洞が空いていた。

『お嬢の血をもらっても、穴の開いたバケツには水は溜まりません。……無駄にして、すみません』


 彼は再び背を向け、黒い太陽へと歩き出した。

 彼の姿が、雪の中に消えそうになる。


「穴が開いてるなら……私が塞ぐ!」


 私はドレスの裾を破り捨て、全力で駆けた。

 背中の観音の力が、この精神世界で具現化する。

 私の背中から黄金の翼が生え、一気に彼との距離を詰めた。


「捕まえたッ!」

 私は背後から彼に抱きついた。

 冷たい。氷のように冷たい魂。

 私は自分の胸を彼の方へ押し付けた。


「私の命を使って! 半分こよ! 心臓も、血も、熱も、全部半分こ!」


 私の心臓の鼓動が、彼の背中を通して伝わっていく。

 ドクン、ドクン。

 私の「赤」が、彼の「白」に侵食していく。


『お嬢……熱い……』

「熱くていいの! それが生きるってことよ!」


 私は彼を強引に振り向かせ、その冷たい唇に自分の唇を重ねた。

 口移しで、命の炎を分け与える。

 契約の口づけ。

 二つの魂が溶け合い、螺旋を描いて混ざり合っていく。


 雪原が、紅蓮の炎に包まれていく。

 氷が溶け、大地から赤い花――曼珠沙華(彼岸花)が一斉に咲き乱れた。

 死の世界が、生の色に塗り替えられていく。


『……あぁ、戻ってくる……』

 瑛司の体に色が戻る。

 透明だった肌に血の気が差し、胸の空洞が、赤黒い光で満たされていく。


『お嬢の血が、俺の中で燃えている……』

 瑛司が私を抱きしめ返した。その腕には、力強い熱が戻っていた。


『帰りましょう、お嬢。……俺たちの世界へ』


          *


「……心拍、安定! 血圧上昇!」

「信じられん……同化(アジャスト)したぞ!」


 医師の叫び声で、私は現実へと引き戻された。

 目を開けると、そこは再び無機質な手術室だった。

 全身汗びっしょりで、息が切れている。まるでフルマラソンを走った後のようだ。

 

 隣を見る。

 瑛司の痙攣は止まっていた。

 モニターの波形は、力強く脈打っている。

 そして何より――彼の身体の変化に、私は息を呑んだ。


 透明になりかけていた彼の体は実体を取り戻していたが、その左腕と左胸の一部が、黒曜石のように黒く変色し、その表面に赤い紋様が血管のように走っていた。

 原初のインクと私の血液が、彼の肉体の一部を変質させ、新たな「動力源」として定着したのだ。

 半人半獣ならぬ、半人半魔のような姿。


「……ん、ぐ……」

 瑛司が呻き声を上げ、ゆっくりと瞼を開けた。

 その瞳。

 かつては黒く、獣神化してからは白銀だった瞳が、今は左右で色が違っていた。

 右目は白銀。左目は、鮮血のような深紅。

 オッドアイ。


「……瑛司?」

 私が恐る恐る呼びかけると、彼は焦点を合わせ、そしてニカッと笑った。


「……おはようございます、お嬢。……なんだか、とんでもなく熱い夢を見ていた気がします」

 彼は自分の左手――黒く変色した腕を見上げ、軽く握りしめた。

 ミシミシと音がするほどのパワーが漲っている。


「これが、お嬢の血の味ですか。……極上のガソリンだ」


「成功です……」

 医師が、震える手で眼鏡の位置を直した。

「医学的常識では説明がつかない。……愛の力とでも記録しておきましょうか」


 チューブが外される。

 私はベッドから起き上がろうとして、ふらついた。

 貧血と疲労。

 それを、起き上がった瑛司が素早く支えてくれた。

 彼の体温は、以前よりも高いくらいだった。


「今度は、俺が支える番です」

 瑛司の左腕――黒い腕が、優しく、しかし力強く私の腰を抱いた。

「ありがとう、お嬢。……この借りは、一生かけて返します」


「一生じゃ足りないわよ」

 私は彼の胸に頭を預けた。

「来世も、その次も、ずっと私の隣にいなさい」

「御意」


 私たちは生還した。

 だが、代償として、私たちはさらに人間から遠ざかってしまったかもしれない。

 瑛司の体には、古代の呪いと私の血が混ざり合った、未知の力が宿っている。

 それは、これから始まる逃亡生活において、最強の武器になるだろう。


 夜明けが近い。

 拘置所の窓から、微かに青い光が差し込んでいた。

 死の縁から戻った私たちは、新たな契約で結ばれ、再び歩き出す。


(第30話 完)

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