バツ2同士の復讐婚、愛してはいけない契約 ~元配偶者を見返すための偽装結婚、でも本気で愛してしまった~

ソコニ

第1話「復讐結婚の契約書には、私の傷が書いてある」

 スマホの画面が光った瞬間、私の心臓は凍りついた。


「沙織、結婚式に来てくれるよね?お前が選んでくれた指輪、まりなも気に入ってる。感謝してるよ。」


 元夫・大樹からのLINEだった。


 指輪——。


 三年前、私が貯金を崩して買った婚約指輪。当時、大樹は「お前のセンスで選んでほしい」と言った。私は嬉しくて、ネットで何時間も調べて、デパートを三軒回って、ようやく見つけた。プラチナにダイヤモンドが三粒並んだ、シンプルだけど上品な指輪。


 あれは——浮気相手への指輪だった。


 私は騙されて、自分を殺す凶器を選ばされていた。


 手が震えた。呼吸ができなくなった。コンビニの蛍光灯が眩しすぎて、目の前が真っ白になる。


 スマホを床に叩きつけたい衝動を堪えきれず、手から滑り落ちた。乾いた音を立てて、スマホがリノリウムの床に転がる。


「あ、すみません」


 隣にいた男が、私のスマホを拾ってくれた。画面が上を向いている。LINEの通知がまだ表示されたままだった。


 男は画面を見て——凍りついた。


 それから、吐き捨てるように呟いた。


「……最低だな、この男」


 私は男を見上げた。三十代半ば、黒いスーツに白いシャツ。整った顔立ちだけど、今はひどく歪んでいる。まるで自分が侮辱されたかのような、怒りに満ちた表情だった。


「あの、すみません。見てしまって」男はスマホを私に返しながら言った。「でも……これ、元旦那さんですか?」


 私は頷くことしかできなかった。声が出ない。涙も出ない。ただ、喉の奥に何かが詰まって、息ができなかった。


「指輪、選ばされたんですね」


 男の言葉に、私は思わず顔を上げた。どうしてこの人は——。


「俺も、似たようなことされました」男は苦笑した。まるで自分の傷を見せるように。「元妻が浮気してて、俺が選んだワインを、浮気相手と飲んでた。しかも、俺の誕生日にプレゼントしたやつ」


 私たちは、コンビニのレジ前で立ち尽くしていた。


 店員が不審そうにこちらを見ている。でも動けなかった。この男の目を見たら、私の中で何かが壊れそうだった。


「あの……」私はようやく声を絞り出した。「あなたも、バツイチですか?」


「バツ2です」男は淡々と答えた。「一回目は若気の至り。二回目は……本気で愛した女に、全財産持ち逃げされました」


 バツ2。


 私と同じだ。


「俺、氷室圭吾といいます。今日は——変なところ見せて、すみませんでした」


 圭吾さんはそう言って、コンビニを出ていこうとした。


 私は——咄嗟に彼の腕を掴んでいた。


「待って」


 自分でも驚いた。どうして私は、この男を止めたんだろう。


 圭吾さんは振り返った。困ったような、でもどこか期待しているような表情で。


「あの……もしよければ、話、聞いてもらえませんか」


 私の声は震えていた。でも、今この瞬間、誰かに話を聞いてほしかった。家族にも、友達にも話せなかった。「バツ2」という言葉を口にするたびに、自分が惨めになるから。


 でもこの人は——同じだ。


「……近くに、いいバーがありますよ」圭吾さんは優しく微笑んだ。「バツ2同士、愚痴でも聞きましょうか」


 バーは静かだった。平日の夜十時、客は私たち以外に二組しかいない。


 私はジントニックを一口飲んで、ようやく落ち着きを取り戻した。


「すみません、いきなり変なこと頼んで」


「いえ」圭吾さんはウイスキーのグラスを回しながら言った。「俺も、誰かに話したかったんです。バツ2って、なかなか人に言えないじゃないですか」


「ですよね」私は苦笑した。「『なんで二回も失敗したの?』って聞かれるのが怖くて」


「『学習能力ないの?』とか」


「『男を見る目がないね』とか」


 私たちは顔を見合わせて、笑った。笑うしかなかった。


「藤崎沙織です」私は改めて名乗った。「三十八歳、バツ2、現在独身。仕事は広告代理店の営業」


「氷室圭吾、四十一歳、バツ2、独身」圭吾さんも名乗った。「IT企業の経営者です」


 経営者——。つまり、この人はお金持ちなのか。でも元妻に全財産持ち逃げされたって……。


「一回目の離婚は、二十五歳のとき」圭吾さんは語り始めた。「学生結婚だったんです。でも、お互い若すぎた。三年で破綻しました」


「二回目は?」


「三十五歳。起業して、会社が軌道に乗り始めた頃に再婚しました」圭吾さんの目が、一瞬暗くなった。「元妻の瑠奈は、美人で頭が良くて、完璧な女性だと思ってた。でも——彼女が愛してたのは、俺じゃなくて俺の金でした」


 私は息を呑んだ。


「離婚の時、慰謝料と財産分与で五千万持っていかれました」圭吾さんは自嘲気味に笑った。「馬鹿ですよね。でも、それでも彼女を愛してた。『金で解決できるなら安い』って思ってたんです」


「それで……今は?」


「今は憎んでます」圭吾さんは真っ直ぐに私を見た。「憎くて憎くて、夜も眠れない。瑠奈の幸せな顔を想像するだけで、吐き気がする」


 私は——自分の中の暗い感情が、共鳴するのを感じた。


「私も、です」


 私はグラスを握りしめた。


「元夫の大樹に、憎しみしかない。あいつが幸せになるのが、許せない」


 私は、自分の過去を話し始めた。


 一回目の結婚は二十五歳。同じ会社の先輩と社内恋愛の末に結婚したけれど、彼は仕事のストレスを私にぶつけるようになった。


「お前のせいで疲れる」


「もっとちゃんとした飯作れよ」


「お前みたいなブスと結婚した俺が馬鹿だった」


 毎日毎日、罵倒された。三年耐えたけれど、ある日突然、心が壊れた。朝起きられなくなって、会社に行けなくなって、離婚届を置いて実家に帰った。


「二回目は、三十三歳のとき」


 私は震える手でグラスを持ち上げた。


「大樹は、優しかった。最初は」


 出会いは合コン。大樹は商社勤務で、年収も高くて、何より私を大切にしてくれた。一回目の結婚で壊れた私を、丁寧に扱ってくれた。


「プロポーズされたとき、嬉しくて泣きました」


 指輪を選びに行ったあの日。大樹は「お前のセンスで選んでほしい」と言った。私は何時間もかけて、完璧な指輪を見つけた。


「でも——それが間違いでした」


 結婚して一年後。大樹の浮気が発覚した。相手は同じ会社の後輩、まりな。しかも大樹は、私が選んだ指輪を、まりなにプレゼントするつもりだったと知った。


「指輪を選んでる時、大樹はずっとスマホいじってました」私は吐き捨てるように言った。「まりなとLINEしてたんです。『嫁に指輪選ばせてる。お前が気に入りそうなやつ選ばせるわ』って」


 圭吾さんは黙って聞いていた。


「それだけじゃない」私は続けた。「指輪の代金、私の貯金から出したんです。二百万円。大樹は『今月ちょっと厳しいから』って言って、私に払わせた。つまり——私は、自分の金で、夫の浮気相手への贈り物を買わされたんです」


 グラスを握る手が震えた。


「離婚の時、大樹は言いました。『お前が魅力ないから浮気した』って。『もっと綺麗にしてれば、浮気しなかった』って」


 私の中で、何かが壊れる音がした。


「仕事のミスを私のせいにして、私の携帯を叩き割ったこともありました。『お前のせいで商談が潰れた』って。でも実際は、大樹が書類を忘れただけだった」


「……ひどいな」圭吾さんがぽつりと呟いた。


「三年前に離婚しました。慰謝料も財産分与も請求しませんでした。ただ、早く離れたかった」私は苦笑した。「それなのに——今日、大樹から結婚式の招待状が来たんです。まりなと再婚するって」


「そして、『お前が選んでくれた指輪、まりなも気に入ってる』と」


「ええ」


 私は笑った。笑うしかなかった。


「私、バカですよね。二回も騙されて」


「俺もです」圭吾さんは自分のグラスを見つめた。「元妻の瑠奈は、今、新しい男と幸せに暮らしてます。俺から奪った五千万で、マンション買って、高級車乗って、海外旅行行って」


 私たちは、しばらく黙っていた。


 バーのBGMが、静かに流れている。ジャズピアノの音色が、心地よく耳に入ってくる。


 それから、圭吾さんが——ぽつりと言った。


「復讐、したくないですか?」


 私の心臓が、大きく跳ねた。


「復讐……?」


「ええ」圭吾さんは真っ直ぐに私を見た。「元配偶者たちに、後悔させたい。『あの人と別れるんじゃなかった』って思わせたい。そう思いませんか?」


 私は——頷いていた。


「思います」


 声が、震えていた。


「毎日、思ってます。大樹が幸せそうな顔してるのを見るたびに、殴りたくなる。まりなの笑顔を想像するだけで、吐き気がする」


「だったら——」


 圭吾さんは、私の目を見つめた。


「俺と、契約結婚しませんか?」


 私は耳を疑った。


「契約……結婚?」


「はい」圭吾さんは真面目な顔で続けた。「お互いの元配偶者に復讐するための、偽装結婚です」


「どういう……こと、ですか?」


「簡単です」圭吾さんはスマホを取り出して、何かを見せた。SNSの画面だった。「これ、俺の元妻・瑠奈のインスタです」


 画面には、綺麗な女性が写っていた。ブランドバッグを持って、高級レストランで食事をして、海外のビーチで微笑んでいる。


「幸せそうでしょう?」圭吾さんは冷たく笑った。「俺から奪った金で」


 それから、圭吾さんは別の画面を見せた。


「これが、瑠奈の今の彼氏」


 私は——息が止まった。


 画面に映っていたのは、大樹だった。


 私の元夫、白石大樹。


 まりなと結婚するはずの、大樹。


「え……どういうこと……?」


「偶然です」圭吾さんは静かに言った。「昨日、瑠奈のSNSを見てたら、新しい投稿があった。『素敵な人と出会いました』って。写っていたのが、この男だった」


 私の頭が、真っ白になった。


「つまり——大樹は、まりなと結婚するって言いながら、あなたの元妻と……?」


「そういうことです」


 圭吾さんの声は、氷のように冷たかった。


「俺は調べました。白石大樹、三十九歳、商社勤務。三年前に離婚。元妻は藤崎沙織。そして——今日、あなたに会った」


 私は——ようやく理解した。


「偶然じゃ、ないんですね」


「ええ」圭吾さんは頷いた。「俺はあなたを探してました。正確には、大樹の元妻を。そして、コンビニであなたを見つけた」


「どうして、私だってわかったんですか?」


「大樹のSNSに、あなたの写真が一枚だけ残ってました。結婚式の写真」圭吾さんは淡々と続けた。「顔を覚えていて、今日、たまたまコンビニであなたを見かけた。LINEの画面を見て、確信しました」


 私は——何も言えなかった。


 この男は、最初から私を探していた。私を利用するために。


「怖いですよね」圭吾さんは自嘲気味に笑った。「ストーカーみたいで。でも、俺は本気なんです。元妻に復讐したい。そのためには、あなたの協力が必要だった」


「復讐……どうやって?」


「契約結婚です」圭吾さんは真剣な目で言った。「俺たちが結婚して、幸せそうにする。SNSで、元配偶者たちに見せつける。そうすれば——彼らは後悔する。『あの人と別れるんじゃなかった』って」


 私の心臓が、激しく鼓動した。


「でも……それって、ただの見せかけですよね?」


「もちろん」圭吾さんは頷いた。「本物の結婚じゃない。期間は一年。目的は復讐。それが終わったら、離婚します」


「……」


「もちろん、無理にとは言いません」圭吾さんは優しく言った。「ただ、俺はあなたに協力してほしい。そして、俺もあなたの復讐に協力します。大樹に、後悔させましょう」


 私は——考えた。


 復讐。


 その言葉が、私の中で燃え上がる。


 大樹を後悔させたい。まりなを後悔させたい。私を捨てたことを、一生後悔させたい。


「……条件は?」


「条件?」


「契約結婚の、条件です」私は圭吾さんを見つめた。「何か、ルールがあるんですよね?」


 圭吾さんは——微笑んだ。


「ありますよ。六つ」


 一週間後、私たちは契約書を作成していた。


 圭吾さんのマンションのリビング。大きなテーブルの上に、A4の紙が置かれている。


「では、一つずつ確認しましょう」


 圭吾さんはペンを取り出した。


契約書


第1条:結婚期間は1年間。目的は元配偶者への見せつけ。


「これはいいですね」私は頷いた。「一年で十分です」


「ええ。一年あれば、元配偶者たちに十分後悔させられる」


第2条:食事は必ず二人で摂ること。


「これは……どうしてですか?」


 圭吾さんは少し躊躇してから、答えた。


「俺、一人で食事するの、嫌いなんです」


「え?」


「元妻の瑠奈は、食事中ずっとスマホいじってました。俺が話しかけても、返事もしない。まるで、俺が透明人間みたいだった」


 圭吾さんの声が、少し震えていた。


「だから——誰かと一緒に食事したい。ちゃんと、向き合って」


 私は——自分の過去を思い出した。


 大樹も同じだった。食事中、ずっとスマホを見ていた。まりなとLINEしていたんだろう。私が「今日こんなことがあってね」と話しても、大樹は「ふーん」としか言わなかった。


「わかりました」私は頷いた。「私も、一人で食事するの嫌いです」


第3条:相手が悪夢で叫んだ時は、必ず抱きしめること。


 私は目を丸くした。


「悪夢……?」


「ええ」圭吾さんは恥ずかしそうに言った。「俺、よく悪夢を見るんです。元妻に裏切られる夢とか、全財産を失う夢とか」


「それで……叫ぶんですか?」


「らしいです。前に友達の家に泊まった時、夜中に叫んで起こしてしまった」


 私は——少し可笑しくなった。この人、意外と可愛いところがある。


「私も、悪夢見ます」私は言った。「大樹に殴られる夢とか、携帯を叩き割られる夢とか」


「じゃあ、お互いに助け合いましょう」圭吾さんは優しく微笑んだ。「悪夢を見たら、抱きしめる。それだけで、少し楽になるかもしれない」


第4条:セックスは「演技」として月2回行う。避妊必須。


 私の顔が、真っ赤になった。


「セックス……?」


「はい」圭吾さんは真面目な顔で言った。「夫婦なら、当然セックスはします。でも、これは演技。本気じゃない。だから、避妊は必須です」


「演技……」


「子供を作らない。それが、本物の夫婦じゃないという証拠です」


 私は——複雑な気持ちになった。


 セックスを、演技として。


 でも、それが正しいのかもしれない。本気になったら、また傷つく。


「わかりました」


第5条:本気で愛した方が負け。違約金5000万円。


 私の心臓が、大きく跳ねた。


「5000万……?」


「はい」圭吾さんは真剣な目で言った。「これが、一番大事な条項です」


「でも、どうして……」


「本気で愛したら、この契約は破綻します」圭吾さんは言った。「復讐のための結婚なのに、本気で愛してしまったら、元配偶者への憎しみが薄れる。それは、俺たちの目的に反する」


「それに——」


 圭吾さんは、少し悲しそうに笑った。


「俺たちはバツ2です。もう、本気で愛するのは怖いんじゃないですか?」


 私は——頷いた。


「怖いです」


「だから、これは保険です。本気で愛したら、5000万円払う。そうすれば、お互いに歯止めがかかる」


第6条:どちらかが契約解除を望んだ場合、即座に離婚。


「これは……?」


「逃げ道です」圭吾さんは言った。「もし、どちらかが耐えられなくなったら、いつでも逃げていい。無理に続ける必要はない」


 私は、契約書を見つめた。


 六つの条項。


 それぞれが、私たちの傷を映している。


「……サインします」


 私はペンを取った。


「本当にいいんですか?」圭吾さんが確認した。


「ええ」私は頷いた。「大樹に、後悔させたい。それだけです」


 私は——契約書にサインをした。


 藤崎沙織。


 その文字を書いた瞬間、私の人生が変わる気がした。


 圭吾さんもサインをした。


 氷室圭吾。


 二人のサインが並んだ契約書。


 それは、復讐の始まりだった。


 契約書にサインをした夜。


 圭吾さんのマンションに泊まることになった。「明日から同棲を始めるので、今日から慣れておきましょう」と圭吾さんは言った。


 リビングでワインを飲んでいた時、圭吾さんが——突然、私の手首を掴んだ。


「え?」


 彼の手は、震えていた。


「ごめん……今から言うこと、聞かないでほしい」


「どうしたんですか?」


 私は不安になった。彼の顔が、ひどく苦しそうだった。


「俺、本当は君を利用するつもりで近づいた」


 私の心臓が、止まった。


「利用……?」


「ええ」圭吾さんは私の目を見つめた。「君の元夫・大樹が、俺の元妻・瑠奈と付き合ってるって知って、俺は君を探した。君と契約結婚して、二人に復讐しようと思った。それだけが、目的だった」


 私は——何も言えなかった。


「でも、契約にサインした今、後悔してる」


 圭吾さんの声が、震えた。


「君を傷つけたくない。君は——俺と同じように傷ついてる。それなのに、俺は君を利用しようとした。でももう遅い」


 彼は、私の手を離した。


「嫌なら、今すぐ契約を解除してもいい。第6条、覚えてますよね。どちらかが望めば、即座に離婚できる」


 私は——圭吾さんを見つめた。


 彼の目は、本気だった。


 利用するつもりで近づいた。


 それは、事実なんだろう。


 でも——。


「私も、利用してます」


 私は言った。


「あなたを。復讐のために」


 圭吾さんが、驚いた顔をした。


「だから、お互い様です」私は微笑んだ。「利用し合いましょう。それが、この契約結婚の本質なんだから」


「沙織さん……」


「それに——」


 私は、圭吾さんの手を握った。


「あなたが正直に言ってくれたこと、嬉しいです。嘘をつかれるより、ずっといい」


 圭吾さんは——ほっとした顔をした。


「ありがとう」


「こちらこそ」


 私たちは、しばらく手を繋いだまま、黙っていた。


 それから、圭吾さんがぽつりと言った。


「でも、俺——もう一つ、言ってないことがある」


「何ですか?」


「君のこと——」


 圭吾さんは、私の目を真っ直ぐ見つめた。


「一週間前に会った時から、少しだけ、気になってた」


 私の心臓が、大きく跳ねた。


「気に……なってた?」


「ああ」圭吾さんは困ったように笑った。「君が泣きそうな顔でスマホ見てた時、守りたいと思った。利用するつもりだったのに、気づいたら君を守りたくなってた」


 私は——呼吸が止まった。


「だから、怖いんだ」


 圭吾さんの声が、震えた。


「このまま契約を続けたら、俺——本気で君を好きになってしまうかもしれない。そうしたら、5000万円払わなきゃいけない。いや、金の問題じゃない。また傷つくのが、怖い」


 私は——自分の胸に手を当てた。


 心臓が、激しく鼓動している。


「私も、怖いです」


 私は正直に言った。


「あなたと話してる時、少し楽しいって思ってしまった。それが怖い。また騙されるんじゃないかって」


 圭吾さんは、優しく微笑んだ。


「じゃあ、お互いに約束しましょう」


「約束?」


「本気で愛さない。これは復讐のための契約。それだけ」


 私は——頷いた。


「約束します」


 でも——。


 私の心の奥底で、小さな声がした。


 もう遅いかもしれない、と。


 この男を、好きになり始めているかもしれない、と。


 でも、それは認められなかった。


 認めたら、また傷つく。


 だから私は——その声を押し殺した。


 そして、圭吾さんと向き合った。


「明日から、夫婦ですね」


「ええ」圭吾さんは微笑んだ。「偽物の」


「偽物の」


 私たちは、グラスを合わせた。


 乾杯の音が、静かに響いた。


 これが——私たちの復讐の、始まりだった。


(第1話 完)

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