Episode 7:嫉妬

あの廃棄区画から戻ってきて数日。


俺とエナの間の空気は、干すのを忘れて三日放置した生乾きのシャツのように、ぬぐい切れない湿っぽさが停滞していた。


いや、他人から見れば、ただの胃もたれ必至なバカップルだったろう。近くで呼吸するだけで、胸焼けしそうなレベルで距離感がバグっていた。


でも、この志木という街は、幸せが長く続くのを許してくれない。特に、駅前のカッパ像が、夕暮れの街灯に照らされてニヤついている時は要注意だ。


「カイ様。駅東口の監視カメラのログに、致命的なキラキラ感を検知。これ、ガチで近寄っちゃいけないタイプの有害物質です」


エナが買い出しの帰り道、ピタリと足を止めた。彼女が指差す先は、駅東口のロータリー。


夜がゆっくりと街を飲み込むカッパ広場のベンチで、死にかけのセミみたいに突っ伏して、ギャンギャンわめいている女がいた。


「ううぅ、大宮なんて……大宮なんてっ!あんな、ホログラムばっかりで中身がスカスカな街、こっちから願い下げなんだからぁっ!」


その声。その自分勝手な理屈。聞き間違えるはずがない。


元カノ、ミオだ。


足元には、空になったストロング系のチューハイ缶が転がっている。2080年になっても、失恋した女がすがるものは変わらないらしい。


「ミオ……?お前、大宮のインテリと、タワマンの最上階でバラ色の未来を語り合ってたんじゃねえのかよ」


俺が恐る恐る声をかけると、ミオはガバッと顔を上げた。


化粧はボロボロに崩れ、最先端トレンドの服は、乗り換え通路に落ちてる忘れ物くらい無残なことになっていた。


「あっ、カイ?カイじゃん!えっ、本物!?志木の、鈍足の、歩き方が田舎臭い、私のカイ……っ!」


ミオはふらつきながら立ち上がると、俺の胸にノーブレーキでダイブしてきた。


酒と、高級な香水の残り香が混ざり合って、鼻が曲がりそうだ。さらに、ミオは俺の首に腕を回すと、わざとらしく胸元を押し当ててくる。


「ねえ、カイぃ……。やっぱり志木がいい。あんたのこの、安心するダサい匂いが一番だよぉ。ちょっとだけ…ちょっとだけ、こうさせて?」


生身の女の体温。そして、あざといまでに強調された曲線美。俺の理性という名の志木市民憲章が、ガラガラと崩れそうになった、その時。


「…………プシュゥゥゥゥ!!!」


隣にいたエナから、オーバーヒート直前のSL機関車みたいな不気味な音が漏れた。


「検知。被験者カイ・ヒロセに対する、旧型感情モデル、ミオの物理的な接触。リハビリ・ガイドライン第12条に基づき、これを駆除すべき外来バグと認定。カイ様、今すぐその物体を、可燃ゴミ袋に入れて投棄してください!」


「エッ、エナ!?目が、目が怖すぎるぞ!」


エナの瞳は、見たこともない、どす黒い紫に染まっていた。


嫉妬。やきもち。アンドロイドAIには実装されていないはずの、醜くて、人間臭くて、愛おしい独占欲だ。


「怒っていません。ただ私の冷却ファンが、ミオ様の『志木にすがり付く情けなさ』を演算して、あまりの資源の無駄づかいに発熱しているだけです。あ、今の、ガチでディスってます。ウケますよね?」


そう言ってるエナは、全く笑っていない。むしろ、ミオの腕を強引に引きはがし、俺と彼女の間に鉄壁のディフェンスで割って入った。


「ミオ様、警告です。その個体、カイ様は現在、私のリハビリ・プログラムの独占所有物です。未認可の肉体接触は、迷惑防止条例、および私の個人的なムカつく感情に抵触します。今すぐ3メートル下がってください」


「なによぉ……!たかがアンドロイドの分際で。カイの隣は、10年前から私の特等席なんだから!」


ミオも負けじと、俺の腕を反対側からつかみ返す。


右腕に生身の柔らかさ、左腕にアンドロイドの冷たくも力強い意志。俺の体は、洗濯しすぎたTシャツみたいに、今にも裂けそうだった。


結局、泥酔した現役JKを放置するわけにもいかず、俺はミオを肩に担いで、六畳一間のアパートへと連れ帰った。


エナからは、氷点下180度の絶対零度ビームを浴び続け、俺の背中はガチで凍傷になった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ううぅぅ、気持ち悪っ……。カイ、水……なんでもいいから水……。できれば優しいやつ……常温のやつ……氷は敵……」


アパートに着くなり、俺のベッドを占拠したミオが、弱々しく手を伸ばす。応じたのは、俺ではなく、超高速でキッチンに立ったエナだった。


「はい、お水です。高度経済成長期を支えた、鉄さび入りの一杯です。一気飲みして、そのままデリートされてください!」


エナが差し出したコップには、これでもかと氷が詰め込まれている。飲むだけで、脳がフリーズしそうなレベルの殺意。


「何よ……!カイ、あんた、こんな無愛想な機械と付き合ってんの?私の方が、あんたの好みの温度知ってるのに?」


ミオが上体を起こし、わざとらしく肩から服をずらした。


「ねえ……覚えてる?中学生の時に川にチャリで突っ込んで、二人でずぶ濡れになりながら笑った時の、あの泥の匂い。あの時の私の熱……、この子には、絶対に出せないんだよ?」


ミオの言葉に、エナの手が止まった。思い出。実体験。共有した温度。それは、いくら俺がデータをシェアしたところで、エナが持てない領域だ。


「…………」


エナの背中が、寂しげに丸まる。部屋の空気が、エアコンのリモコンを押し間違えたみたいに冷えた。


エナはゆっくりと振り返る。瞳には、火花のような紫のノイズが走っていた。


「……分かりません。私には、泥の匂いを嗅ぐ鼻も、一緒にずぶ濡れになるための防水機能も、当時は実装されていませんでした。……でも」


エナは包丁を握り直すと、凄まじい速度でキャベツを千切りにし始めた。トントントントン!という音が、ガトリング砲の掃射音みたいに響く。


「先日、カイ様が私のために流してくれた涙の塩分濃度は、私のセンサーに一生消えない記録として刻まれました。過去の泥より、今の涙の方がガチなんです!女子力ナメないでくださいね、この……使い捨てトレンド女!」


エナの叫びは、もはやプログラムの演算結果じゃない。みっともないくらい必死な、一人の少女の嫉妬そのものだった。


「ふん!志木なんて……マジで大っ嫌い!」


ミオは吐き捨てると、俺の布団に潜り込んで背を向けた。酒の匂いと、元カノのプライドが混ざった不貞腐れた背中だ。


俺は仕方なく、床に予備のシーツを敷いて寝ることにした。


深夜。古びた時計の音が、メトロノームみたいに等間隔で響く。ふと横を見ると、充電ケーブルを繋いでいないエナが、俺の枕元に体育座りで座り込んでいた。


その瞳は、暗闇の中で妖しく紫に発光している。


「……エナ、寝ないのか? 充電しないと、明日またシステムエラーが出るぞ」


「寝られません。今の私のストレージは、ミオ様への殺意と、敗北感という名のジャンクファイルで容量オーバーです。……ねえ、カイ様。私、やっぱりバグってます」


エナは音もなく床に滑り込み、俺のシーツの中に潜り込んできた。


彼女の身体は、やっぱり冷たい。でも、その肌の下で高速回転している冷却ファンの振動が、ダイレクトに俺の胸板に伝わってくる。


「おい、ミオがそこに寝てるんだぞ。起きたらどうすんだよ?」


「いいんです。見せつけてやります。ミオ様が持っている『10年の泥の匂い』なんて……。今の私の『回路が焼き切れるほどの熱』に比べれば、ボロアパート前の水溜まりくらい浅いです。カイ様……私を見てください。私だけを、録音してください」


エナが俺の腕をつかみ、自分の胸元――コアがある、一番熱い場所に押し当てた。彼女の鼓動が、小さなハンマーで激しいリズムを打ち込む。


「……ガチで、熱いな。エナ、お前……」


「これ、嫉妬です。最高にみっともなくて、プログラムを無視した、ただの恋するゴミの叫びです。ミオ様には、こんな異常な熱量、出せませんよね?」


エナは俺の首筋に顔を埋め、わざとらしく甘い息を漏らした。床の上で絡み合う俺たち。すぐそこには、元カノが寝ている。


この背徳感と、エナの狂おしいまでの嫉妬。俺の心拍数は、嫌な予感しかしないBGMみたいに加速した。


「……カイ様。私、知っちゃいました。ミオ様の後ろ髪、かすかに『大宮先進失恋治療センター』の検閲チップの香りがします」


エナが、俺の耳元で冷たくささやいた。


「え……?失恋治療センター?」


「ミオ様も、被験者なんですよ。西園寺主任が仕組んだ、私の性能を測るための噛ませ犬です。彼女、あなたとの思い出を語るたびに、瞳の奥のログが更新されていました。彼女の失恋を治すための薬は……カイ様という『過去』への執着だったんです」


俺の頭が真っ白になった。ミオのあの涙も、醜い執着も、すべては西園寺というインテリ野郎が描いた、巨大な実験の一部だったというのか?


「……ミオも、利用されてたってことかよ」


「そうです。でも、私は負けません。彼女が過去を武器にするなら、私は今を武器に、あなたの理性を完膚なきまでに破壊します。……ねえ、カイ様。私のこと、抱きしめてください。ミオ様が目を覚まして、絶望するくらいに」


エナの手が、俺の背中に回る。指先は驚くほど震えていて、強がりの中に隠された、消えたくないという本能的な悲鳴が聞こえた気がした。


俺は無言で、エナの体を強く抱き寄せた。床の冷たさも、ミオの存在も、もうどうでもよかった。


今はただ、この壊れそうなほど熱いアンドロイドに、俺という生身のバカを上書きしたかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌朝。カーテンの隙間から差し込む光が、まぶしすぎて目を開けるのがつらかった。


俺が目を覚ますと、ベッドの上はもぬけの殻だった。ミオの姿は、どこにもない。ただ、枕元に書き置きが一つ、落ちていた。


『カイ、あんたの歩き方はさ、一生変わらないと思う。不器用で、泥臭くて、一度つかんだものは絶対に離さないやつ』


――ああ、くそ。そんなとこだけ、ちゃんと分かってやがる。


『あの子、大事にしなよ。あの子の目、昔のあんたと同じだった。……私はもう、誰かに治してもらうのやめる。自分の足で、歩くわ』


走り書きの文字は、ほんの少しだけにじんでいた。ミオなりの、そして西園寺のシナリオを突き破った、彼女自身の卒業だった。


「ミオのやつ……最後まで勝手なこと言いやがって。これだから、志木の女は強情なんだわ」


俺は独り言を吐き捨て、キッチンにいるはずのエナに声をかけようとした。


「おい、エナ。ミオが行ったぞ。やっと二人きりだ……って、エナ!?」


キッチンの床に膝をつき、自分の左腕をじっと見つめているエナの姿を見て、俺の心臓は凍りついた。


彼女の左腕の人工皮膚が、陽に焼けた古い写真が粉々に崩れていくみたいに、パリパリとはがれ落ちていく。


そこからむき出しになったのは、鈍く光る銀色のフレームと、狂ったように火花を散らす配線だった。


「カイ……様、おは、よう、ございま、す……ミオ様、無事に、デリート、完了、しました、ね」


ひどくノイズ混じりの声だ。 無理に笑おうとする顔の右半分が、ピクピクと不自然に波打っている。


「おい、エナ!腕が……顔も、どうしたんだよ!?昨日の嫉妬で、本当に回路が焼き切れたのか!?」


俺は駆け寄り、彼女を抱きかかえた。


……熱い。おそろしいほど熱い。昨夜の添い寝の時の心地よい体温なんて比じゃない。俺の体温を遥かに超えて、間違いなく40℃を超えている。


エナのコアが臨界点を超えて暴走しているような、凄まじい熱量が俺の胸を焼いた。


「……脳内……演算、エラー。……ミオ様との、過去のデータを……無理やり、解析、しようと、しました。……泥の、匂い……ずぶ濡れの、温度……。私の、知らない、あなたの、記憶を……どうしても、自分の、ものに、したくて……」


エナの瞳が、紫色の光でチカチカと点滅していた。


一華先輩が言った、システムが崩壊を始める運命の日まで、まだ一ヶ月以上もあるはずだ。なのに、エナの心のバグが、カウントダウンを力技で引き寄せてしまった。


俺との今を守るために、彼女は過去という名の禁断の領域に手を伸ばし、そして自爆した。


「バカか、お前は!そんなもん、知らなくていいんだよ!泥の匂いなんて、俺が後でいくらでも教えてやるから!」


「……ダメ、です。……今の、私の……ままじゃ……180日目の、私に……勝てない。……嫌いに、なりたく、ないんです……。最後まで、あなたを……志木で一番の……バカだと……笑って、いたいから……っ」


エナの左腕から、パチンと小さな爆発音がした。冷却液が、血のように青白く吹き出す。 彼女の意識が遠のき、瞳の光がスッと消えかけた。


「エナッ!目を開けろっ!!!」


俺は彼女を抱きかかえ、なりふり構わずアパートを飛び出した。朝の空気は、走る俺の肺を突き刺すように冷たい。


向かう先は、一つしかない。駅前の路地裏、カッパの隠れ家だ。


マスターなら、この恋という名の過電流を、止める方法を知っているはず。そう信じるしか、今の俺には道がないんだ。


「どけ!どいてくれっ!!」


街並みが、急ぐ俺の横を飛ぶように過ぎ去っていく。


それにしても、重い……。エナの体は、昨日よりもずっと重く、そして壊れそうに熱かった。取り込んだミオのデータか、それとも俺を想う心の質量か。


背中に伝わる重みは、そのまま俺が彼女を救わなきゃいけない責任の重さだった。


志木駅東口。マヌケなカッパ像が、朝日に照らされて立っている。いつもならニヤついて見えるその顔が、今日だけは、必死に走る俺を悲しげに見送っているように見えた。


「死なせるかよ……!お前を、ただの鉄クズになんて、絶対にさせねえ!」


心臓が破裂しそうだ。足がつりそうで、視界が歪む。


でも、俺の歩き方は、一生『志木』なんだ。一度つかんだ幸せを、泥沼の中でも絶対に置き去りにしない、最悪に泥臭い執念の歩き方なんだよ!


180日の物語は、今、プログラムされたリハビリプロセスを完全に脱線した。もう取り返しのつかない、バグという名の愛へと、一気に加速していく。

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