自然とテラー:ヒグマの重さ ―接近―

富澤宏

本編

知床の五月は、あまりに美しすぎた。

「ほら、見てよ。あの斜面、雪解け水に沿って水芭蕉が真っ白に埋めてる」

カナが指差す先、残雪の純白と、泥を割って咲く水芭蕉の苞(ほう)が鮮やかなコントラストを描いていた。本州の湿原とは違う、斜面を埋め尽くす圧倒的な群生だ。


タクは一九〇センチの巨体を揺らし、黙ってその景色を眺めていた。


足元は、シャーベット状の雪と泥の感触。

三人は不安定な足取りを楽しみながら進んでいく。


「ヒグマに注意してね」

カナが何気なく言う。


「え? どうやって?」

レンが笑いながら聞き返す。


「まあ、タクがいれば、熊のほうが避けて通るだろうけどさ」


冗談めかしたその一言に、三人とも軽く笑った。

その笑いは、この山が「美しい場所」であるという前提に、疑いを挟まない。


三人のザックには、それぞれ熊撃退スプレーが入っている。

北海道の山に入る者としての最低限のマナー。

だがそれは、レインウェアの奥や、テーピングなどのレスキューセットと一緒に、「邪魔にならない場所」に、きちんと収まっていた。

それを使う瞬間など、誰もリアルに想像していなかった。

そして足元のあちこちで、水芭蕉の根が何者かによって掘り返され、泥にまみれていることにも、誰一人として気づいていなかった。



標高を上げ、視界がハイマツ帯に差しかかった時だった。


道の真ん中に、それはいた。


黒ではない。

焦げ茶色のひどく汚れた泥の塊を、無理やり巨大な獣の形に固めたような存在感。

そこから漂うのは、温もりのある生命感ではなく、研ぎ澄まされた捕食者の圧だった。


「……っ」


空気が一瞬で凍りつく。

ヒグマがゆっくりと顔を上げる。

小さな目、濡れた鼻先。

動物園で見た、あの鈍重な愛嬌はどこにもない。


それは、山そのものが意志を持ち、こちらを測っているような感覚だった。


「……来るなよ」


タクが低く呟く。

三人は教科書通り一列になり、視線を外さないまま後ずさる。

背中は見せない。

走らない。

完璧な判断のはずだった。


「グルル……」


地鳴りのような唸り声。

ヒグマは逃げない。

むしろ距離を詰めるように、ゆっくりと歩を進めてくる。


「スプレー……出せ!」


カナの声が震える。

だが、誰も動けない。


重いザックを下ろし、チャックを開け、荷物をかき分ける。

その十数秒が、今の距離では永遠に思えた。


三人が持っていたはずの「最強の武器」は、

今この瞬間、月よりも遠い場所にあった。



ヒグマが動いた。


走ったのではない。

泥を跳ね上げ、空間そのものを押し潰すような、爆発的な前進。


「伏せろっ!」


タクの叫びと同時に、咆哮が鼓膜を叩く。

三人は地面に伏せ、首の後ろを両手で覆った。


次の瞬間、タクの視界が上下反転した。


「がっ……!」


巨漢のタクが、まるで見せしめのように、ヒグマの一振りで仰向けにひっくり返された。

仰向けに倒れた胸元に、圧倒的な質量がのしかかる。


近い。

近すぎる。


鼻先から吐き出される、湿った獣臭。

一九〇センチの大男の体が、ただの物体として押さえ込まれる感覚。


(……死ぬ)


準備を甘く見た、その結果。

判断を一つ遅らせた、その距離。


その時、数メートル横でレンが叫んだ。


「こっちだ、この野郎!」


投げつけられたアルミ製のクッカーが、岩に当たって甲高い音を立てる。

ヒグマの耳がわずかに動き、視線が揺れた。


その一瞬を、カナは逃さなかった。

ザックのサイドポケットに差していた高出力ホイッスルを引き抜き、肺の限界まで吹き鳴らす。


「ピーーーーーッ!!」


森を切り裂く、不快な高音。

タクの手から外れかけたストックが、無意識に地面を叩いた。


未知の音。

制御できない存在。


ヒグマは一度だけ低く鼻を鳴らし、圧を残したまま後退した。

数歩。

さらに数歩。


やがて、その巨大な輪郭はハイマツの向こうに溶けていった。



10分。いや、1時間にも感じられる静寂。


「……生きてるか?」


カナの声に、タクはゆっくりと頷いた。

身体に怪我はない。


それでも、三人とも理解していた。

今のは、勝ったのではない。

ただ、見逃されたのだ。


「……全員持ってたのに、誰も使えなかったな」


レンが乾いた笑いを漏らす。


「お守りじゃダメなんだ」

カナが呟く。

「武器は、手に持ってなきゃ意味がない」


下山する三人の腰ベルトには、

戒めなのか、剥き出しのスプレーが、外れないよう固く留められていた。


五月の陽光は、相変わらず美しかった。

斜面には、水芭蕉が何事もなかったかのように咲いている。


山は、彼らが立ち止まったことも、恐怖に震えたことも、何一つ、記憶していない。

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