【前編】第3話 理由なき正しさ
翌日も、世界は何事もなかったかのように始まった。
同じ石造りの廊下。
同じ、開閉のたびに鈍い音を立てる煤けた木の扉。
同じ、肺の奥に澱のように溜まる、停滞した空気の重さ。
記録局第三課の扉を開けた瞬間、私はほとんど既視感に近い感覚を覚えた。
机の配置も、散らばる書類の積み方も、窓から差し込む冬の朝特有の頼りない日差しも。そして、職員たちがそれぞれの椅子に座る位置までもが、昨日までと寸分違わない。
まるで、時間は平等に進むことをやめ、この部屋だけを選んで凍結させ、無限に同じ一日をリピートさせているかのような、不気味なほどの整合性だった。
だが、決定的に違う点が一つだけあった。
――誰も、何も気にしていない、ということだ。
昨日、確かにこの場所で異変は起きた。
魔導ランプが物理的に破裂し、沈黙は断絶した。彼らが血肉のように守り抜いてきた「察する秩序」は、新参者である私の言葉によって致命的な亀裂を入れられたはずだった。責任という名の毒を、私はこの部屋の全員に浴びせたはずだったのだ。
しかし、どうだ。
職員たちは今日も変わらず定刻に席に着き、誰に命じられるでもなく紙を手に取り、無感情にペンを走らせている。
昨日の混乱に対する謝罪はない。
己の判断ミスに対する反省もない。
再発防止策の共有や、割れたランプの因果関係を問う議論など、それこそこの国では存在しない言語で語るようなものだ。
世界は、厚顔無恥なまでに平然と続いていた。
昨日起きた出来事は、彼らにとっては「なかったこと」として処理されたのか。あるいは、それすらも「察して」忘れるべきノイズとして、集団の免疫機能によって排斥されたのか。
午前八時。
この国には、労働の開始を告げる鐘の音すら存在しない。
それでも、誰からともなく作業が始まる。
パラリ、パラリと、紙がめくられる乾いた音が、あちこちでばらばらに立ち上がる。
決して揃うことはない。だが、不思議と耳障りでもない。
ある者は膨大な計算を始め、別の誰かは、古びた図面の模写に取りかかる。
手順は人によって違う。順番も違う。ペンを置く位置や、書き出しの筆致さえ揃っていない。
それなのに、全体としての流れは一切滞ることなく、静かに、確実に、澱のように業務が積み上がっていく。
私は、その光景を静かに、かつ執拗に観察していた。
脳内の
正直に言えば――理解はできた。
ここには「一意の正解」が存在しない。
だが同時に、「システムそのものを停止させるような致命的な間違い」も、また生まれにくい構造なのだ。
個々人が行う判断は、数学的には極めて不正確だ。
一人の判断が多少ズレても、次の工程に回された時、別の誰かが独自の解釈で「別の方向へズレた修正」を行う。
誤差は、誤差のまま薄まり、平均化され、やがて巨大な情報の海の中で「無視しても社会が壊れないレベル」にまで溶けていくのだ。
これは、モンテカルロ法による近似値計算に近い。
一つひとつの判断は雑でも、膨大な工程に放り込まれれば、全体としては「それらしく」世界が回ってしまう。
合理的だ、と私は皮肉な感銘すら覚えた。
誰も立ち止まらない。
誰も、なぜこれが必要なのかと考え込まない。
誰も「正しいかどうか」を隣に確認しない。
止まらないこと――。
それだけが、王宮アルクシオンという巨大な歯車の一部として機能するための、唯一にして絶対のルールなのだ。
私はふと、昨日の光景を思い出しかけて、意識を現実に戻した。
視線の先には、あの女職員がいる。
昨日の今日だ。精神的に摩耗しているか、あるいは私を憎悪の目で見つめるかと思いきや、彼女は何事もなかったかのように、虚ろな目で淡々と作業をしている。
老職員も同様だ。
震える手で何度も眼鏡を拭き直し、昨日私にかけた言葉すら忘却の彼方に追いやったかのように、手元の書類に埋没している。
互いに目を合わせないのも、言葉を交わさないのも、昨日と同じだ。
だが、今日は空気が違う。
昨日のような、張り詰めた拒絶の糸は見当たらない。
そこにあるのは、ただ、淡々と流れる無機質な「日常」という名の怪物だ。
――この社会は、失敗を問題にしない。
それは、彼らが聖人のように寛容だからではない。
失敗という概念そのものを、自らの評価軸に置いていないからだ。
失敗を定義するには、まず「正解」を定義しなければならない。だが、正解を定義すれば、それを選んだ者に「個としての責任」が発生してしまう。
責任を避けるために正解を捨てた彼らにとって、失敗もまた、存在しない幻に等しい。
「不適切な結果」は、誰のせいでもなく、ただ「天災のように起きたこと」として処理される。
ここでは、うまくやったかどうかは記録されない。
間違えたかどうかも、裁かれない。
重要なのは、ただ一つ。
流れを止めなかったかどうか。
その巨大な「慣性」の中に、自分という存在を溶かし込めたかどうかだ。
私は、無意識に右手の指先を揃えかけて――ふと踏み止まり、それをやめた。
昨日のように、空中に論理の線を引くこともしない。
まだ、その時ではないのだ。
この世界は、確かに危うい。数学教師としての私の目には、いつ破綻してもおかしくない矛盾の塊に見える。
だが同時に、今この瞬間までは、間違いなく「成立している」という厳然たる事実がある。
誰も正解を知らないまま。
誰も理由を語らないまま。
それでも今日も、何千、何万という人間がその沈黙のシステムに依存し、問題なく世界は回っている。
その、祈りにも似た盲目的な「静けさ」を、一人で疑っているのは――。
この広い王宮の中で、私だけだった。
私は配布された書類に目を落とす。
そこには、昨日の「0.045」という致命的なエラーを無理やり上書きするように、新たな、そしてやはり根拠のない数字が並んでいた。
昨日私が指摘した矛盾は、論理的に解決されたのではない。
ただ、別の「もっともらしい数字」によって隠蔽され、次の工程へ押し流されたのだ。
数学において、一つの誤りを別の誤りで隠す行為は、破滅を先送りにするだけの自殺行為に等しい。
だが、このアルクシオンという場所では、その先送りこそが「秩序」と呼ばれ、称賛される。
私はペンを握った。
周囲の職員たちと同期するように、私もまた、意味のない数字を書き写す作業を開始する。
今はまだ、異物として即座に弾かれるわけにはいかない。
この「理由なき正しさ」が、どこまで深くこの国の根を腐らせているのか。
そして、その腐敗の先にある「真の計算式」は何なのか。
それを完全に見極めるまで、私はこの沈黙の海に、深く深く潜り続けることに決めた。
……だが、計算だけは嘘をつかない。
私の脳内にある時計は、静かに、しかし確実に、次の「不連続点」へのカウントダウンを刻み続けている。
この静寂が、次に悲鳴を上げる時。
それは、もはや一局のランプが割れる程度では済まないはずだ。
この国全体を揺るがすほどの、巨大な「割り切れない余り」が、もうすぐそこまで来ていることを、私だけが知っていた。
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