【前編】第2話 異物の刻印 ― 沈黙の連鎖 ―

 扉の向こうで止まった足音は、数秒の、永遠にも感じられる静寂の後、何事もなかったかのように遠ざかっていった。


 拍子抜けしたわけではない。むしろ、内臓を冷たい指で直接撫でられたような戦慄が、いつまでも去らなかった。

 踏み込まれ、糾弾され、力ずくで引きずり出される方が、まだ「人間」の論理に近い。対立や怒りは、少なくとも相手の存在を認めているからこそ生じるエネルギーだ。だが、その足音の主は、扉を開けることすら「察して」やめたのだ。


 扉の前で足音が止まった。

 ――少なくとも「ここに誰がいるか」を、扉の向こうは知り得たはずだ。それでも開かれなかった。


 扉の前で足音は止まり、そして開かれないまま遠ざかった。

 それは、偶然では説明がつかない。

 少なくとも扉の向こうは、「ここに何かがある」ことを認識したうえで、関与しないという判断を下した――そう考える方が、私にはずっと自然に思えた。


 この部屋には、既存の秩序では解釈不能な、異常な『言葉』を吐いた異物がいる。


 彼らはそれを把握した上で、

 関わり、自身の「平穏」という変数を動かすリスクを避けたのだ。


 それが、王宮アルクシオンという世界の、最も冷徹で、最も洗練された回答だった。


 翌朝。

 私は、昨日と同じ時間に記録局第三課の席に着いた。


 廊下を歩いているときから、空気の密度が変わっていることに気づいていた。

 物理的な湿度は昨日と変わらないはずなのに、肌に触れる空気が重く、そして目に見えない針のように鋭い。


 部屋の重い木の扉を開けた瞬間、数十人の視線が一斉に私に向けられた。それはまるで、顕微鏡で未知のウイルスを観察するような、非情で冷淡な光彩を放っていた。だが、私がその視線を迎え撃とうとした刹那、彼らの目は鏡に反射した光のように、不自然なほどの速度で別の方向へと逸らされた。


 おはよう、という挨拶はない。

 お前はまだここにいるのか、という詰問もない。

 この部屋において、私が昨日犯した「正解を口にする」という行為は、すでに処罰を通り越していた。


 彼らににとって私は、注意書きも警告表示も付けられず、ただ視界から削除されるべき対象になったのだ。


 誰も触れず、誰も指ささず、最初からそこになかったものとして扱われる――その種の異物に。


 午前八時。

 この国には、時間を知らせる鐘の音すら存在しない。

 だが、部屋にいた職員たちが、誰の合図もなく、まるで一つの生命体であるかのように一斉に椅子を引いた。


 ――ガガッ。


 十数人分の、石床を擦る重い音が完全に同期し、部屋の空気を物理的な衝撃波として震わせる。

 私は、その「音」から、わずかに半拍、遅れた。


 誰も指揮棒を振っていない。誰も壁の時計を見ていない。それでも彼らは、細胞レベルで、あるいは脊髄の反射で「今がその時である」と察し、一糸乱れぬ動作で業務を開始した。


 私だけが、指揮者のいない不気味なオーケストラの中で、一人だけ楽譜を読み違えた異質な奏者のように浮き上がっている。その「半拍のズレ」は、静寂の中では雷鳴のように大きく、私という異物の輪郭を、この部屋のキャンバスに鮮明に描き出していた。


 私の机には、昨日と同じ、タイトルのない書類の束が置かれていた。

 昨日までのものより、さらに紙が古び、インクが滲んでいる。まるで、誰の手にも触れられたくない、呪われた遺物のように。


 業務指示書はない。担当者からの口頭説明もない。昨日、老職員が私に向かって「消せ」と叫んだあの日を境に、私に対する言葉の供給は、物理的な遮断機を下ろしたかのように断たれていた。


 周囲の挙動を、私は静かに、だが執拗に観察した。

 彼らは迷いなくペンを取り、ある者は膨大な数値の計算を、ある者は複雑な魔導回路の図面の模写を始めている。


 その手順を解明しようと、私は視線を走らせた。しかし、驚くべきことに、隣同士で作業の進め方が、数学的な論理を無視してバラバラだった。右から書き始める者もいれば、逆さまに図を写してから後で反転させるような者、さらには意味不明な「まじない」のような記号を端々に書き添える者さえいる。


 統一されたマニュアルも、新人研修も、この職場には存在しない。

 各自が、かつて誰かがやっていた背中を遠くから盗み見、あるいは部屋の隅に漂う「正解らしき空気」を自分なりに解釈し、勝手に、だが一分の疑いもなく自信満々に動いている。


 恐ろしいのは、それでいて業務が表面上、完璧に、そして平穏に「回っている」ように見えることだった。


 誰一人として手順を確認しない。

 誰一人として「これで合っていますか」と隣に相談しない。

 誰一人として、上司に目的を問わない。


 この閉鎖的な空間において、結果が論理的に正しいかどうかよりも、「誰にも聞かずに、その場の流れに自分を溶け込ませた」という姿勢そのものが、組織内での唯一の生存証明(パスポート)なのだ。ここで「聞く」という行為は、自らの知性の欠如を晒すことではなく、この美しい沈黙の合議制を破壊する「テロ」に等しい。


 私は、ペンを持ったまま、彫像のように静止した。

 前世で培った、数学教師としての私の脳が、この状況に対して激しい吐き気を伴う拒絶反応を起こしていた。


 前提条件が共有されていない。変数の定義も、単位の整合性も不明確だ。

 このままペンを動かすことは、目隠しをしたまま暗闇の中で、時速百キロの車を走らせるような、救いようのない狂気だ。


 数学において、定義の曖昧さは死を意味する。もし仮に、私が彼らの真似をして「察して」間違った値を書き込めば、それは論理の連鎖を通じて、王宮という巨大なシステムのどこかに、いつか必ず爆弾を仕掛けることになる。


 (……確認しなければならない。このまま進めば、昨日見つけた0.045の歪みは、誰にも修正されないまま積み上がり、いずれ致命的な不連続点へ到達する。それがこの部屋だけで済むとは、私にはどうしても思えなかった)


 私は隣の席の職員に目を向けた。昨日、私を拒絶した中年の男とは別の、顔に深い疲労の影を落とした女職員だ。

 彼女のペンが動くリズムは一定で、まるで機械の部品のようだった。


 私は、極めて丁寧に、沈黙という名の厚い鉛の壁を切り裂くための言葉を、喉の奥から絞り出した。


「失礼。この集計作業の、最終的な目的を伺ってもよろしいでしょうか。何に対する数値なのかが分かれば、より精度の高い補正式を組むことが可能です。今の計算式には、魔力抵抗の減衰係数が考慮されていな――」


 その瞬間。


 部屋中を支配していた、ペンの走る乾いた音が、不自然なほど完全に消失した。

 それは物理的な静止ではない。この空間の時間が、一瞬だけ不連続に途切れたような、生理的な恐怖を誘う感覚。


 声をかけた女職員は、私の顔を見ることはなかった。ただ、ペンを握る指先が、見る間に白くなるほどに力が入り、視線は手元の書類の一点に、まるで杭を打ち込まれたように固定された。


 彼女の強張った横顔が、言葉よりも饒舌に、この世界の呪いを語っていた。

 ――なぜ、それを私に聞くのか。

 ――答えてしまえば、私も「理由を知っている者」として、失敗した際の逃げ道を奪われるではないか。


 彼女は、一言も発しなかった。唇は固く結ばれ、呼吸さえも止めているようだった。

 ただ、ゆっくりと、音を立てないように椅子を引き、私から数センチだけ、物理的な境界線を引くように位置をずらした。


 それは、罵倒や物理的な暴力よりも、よほど人間の尊厳を削り取る、冷酷な拒絶だった。

 彼女にとって、私は「助けを求める同僚」ではなく、自分の平穏を脅かす「未知の爆弾」なのだ。


「……分かっていないな、君は。実に、嘆かわしい」


 背後から、低い、古い紙が擦れるような乾いた声がした。

 昨日の老職員だ。彼は、震える手で何度も何度も眼鏡のレンズを拭き、私の姿を網膜に入れないように注意しながら言った。


「ここでは、そういうやり方はしない。いいか、この部屋でペンを動かす者は皆、自分の書いていることが何なのかなど、誰も知りたくはないのだ。知らなければ、それは自分のせいにはならないからな。察して動くということは、責任をこの部屋の空気そのものに分散させるという、高潔な知恵なのだよ」


「そういうやり方」――すなわち、論理を求め、因果を確定させ、責任の所在を明らかにすること。

 このアルクシオンという国において、それは知的な誠実さや正確性ではなく、組織を安定させている「集団的無責任」という安寧の魔法を解いてしまう、忌むべき猛毒なのだ。


 私は、理解した。

 私は「能力が足りない」と判定されたのではない。

 能力の多寡を測るための土俵にすら上がらせてもらえない、「存在のプロトコルが異なる異物」として、早々にラベリングされ、隔離されたのだ。


 私は、空中で右手の指を動かしかけ、止めた。

 指先が、前世の癖で無意識に揃っていた。

 

 ――《Virtual Chalk(仮想黒板)》。


 脳内で、巨大な黒板を展開する。

 この理不尽な構造そのものを変数として数式に置換し、解を導き出そうとした。


 この社会を司る関数は、変数が「責任」であり、その答えが常に「ゼロ」になるように極限まで調整されている。

 全員が「察して」動く。あるいは「察したふり」をして、誰かの後を追う。そうすることで、万が一の崩壊が起きた際、その爆心地から自分だけは逃げ出せるように、因果関係を沈黙の霧の中に消し去っているのだ。


 極めて効率的で、臆病な、保身のシステムだ。

 だが、同時にそれは、たった一つの例外も許容できない、脆い砂上の楼閣でもある。


 全員が目隠しをして、互いの衣服の裾を掴みながら「先頭の誰かが正しい道を分かっているはずだ」と盲信して、深い崖っぷちを歩いている。もし先頭の者が踏み外せば、彼らは沈黙を保ったまま、全員で奈落へ堕ちるだろう。


 私は、動かない。

 彼らと同じように、理由なき作業に没頭する「ふり」をすることは、私の技術(スキル)をもってすれば容易だ。数字を捏造し、空気に合わせた「それらしい嘘」を書くことはできる。

 だが、それをすれば私は、私の魂そのものである「論理」を、この薄汚い沈黙の汚泥の中に捨てることになる。


 私は、異物として、そこに静止し続けることを選んだ。

 ペンの音を再開させた周囲の職員たちの中で、私一人だけが、静止した不連続点(シンギュラリティ)として浮かび上がっていた。


 その背中に、部屋の隅々から「排除の温度」が絶え間なく注がれる。

 それはもはや視線ですらなく、ただの「空白」だった。私が何かを言おうとするたび、周囲の空気は一瞬だけ凍結し、そして何事もなかったかのように、私を置き去りにして流れていく。


 だが、私の脳内では別の、もっと冷徹な計算が加速していた。


 察して動くこの集団は、一見強固な壁のように見える。

 しかし、想定外の事態――「察しきれないほど巨大な、論理的なエラー」が起きた瞬間に、彼らは連鎖的に、そして指数関数的な速度で崩壊するはずだ。

 誰一人として根本の定義を共有していないのなら、一人の小さな書き間違いを、誰も論理的に指摘できず、修正もできない。


 その時、誰が彼らを救うのか。

 あるいは、誰が最初に、沈黙を守り通したまま、絶叫も上げずに崖から落ちるのか。


 私は、自分の席に深く腰掛け、机の上の意味不明な数値の山を見つめた。

 嫌われたままでいい。

 この異常な沈黙が、自らの抱える論理的矛盾に耐えかねて、断末魔の悲鳴を上げるその瞬間を、私は特等席で待つことにした。


 ――そうであってほしいと、私は自分に言い聞かせるしかなかった。

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