23:59、等圧線は嘘をつく
柴田 恭太朗
第1話 国境への稜線
バスが稜線に差しかかった瞬間、横風が車体を横殴りにして、窓ガラスが低くきしんだ。外は白い。白の濃淡しかない。ワイパーが雪を押しのけるたび、視界はまたすぐに塞がれる。
車内のラジオに、隣国の言語が割り込んでくる。内容は分かる、数年前まで使っていた言語だ。等圧線といった単語が、強い演説口調とともに流れ込んでくる。
運転手が舌打ちしてツマミをひねる。異国の声は千切れて消えた。誰も声を発しない。明日には、それを祖国の声と呼ぶのかも知れない。
冬休みなのに生徒が揃っているのは、この町では恒例行事だ。
十二月三十一日は授業ではなく点呼の日だ。教師は担任である前に、今夜だけは『指揮担当』となる。点呼、誘導、人数確認。毎年の訓練で身体に染みついた手順を、淡々となぞる。ひとつでも間違えれば、国際問題を引き起こすから慎重に行う。
「先生、ホントに観測所まで行くんスか」
後ろから男子生徒の声が飛ぶ。真鍋は振り返らずに言った。
「行くぞ。特別許可が下りたんだ、見学は短時間で切り上げるから、よく見とけ」
大晦日に特別許可を取ることになった原因が、バスの最後尾に座っていた。
クラス委員の
バスが減速すると、前方、吹雪の中に黒い塊が浮かび上がった。標高千二百メートルの山頂に建設された、ミズホ中央気象観測所。コンクリートの塊のような施設だ。
◇
ここミズホ盆地には流動国境と呼ばれる、毎年変動する境界が存在した。
年越しの瞬間、気象観測所で解析された気圧勾配から等圧線が引かれる。その線のどちら側に住まいがあるかで、翌年の国籍が決まる。
一瞬の天気の気まぐれがミズホ盆地の住民を分断し、国籍も通貨も教科書も変えてしまう。
◇
真鍋がドアを開けると、冷気が耳に噛みついた。生徒が降りるたび、白一色の世界に紺のシルエットが現れ、雪風に滲んでゆく。真鍋が手にする革カバンには生徒名簿、それに教育委員会支給の非常ビーコン――“指揮役キット”が一式入っていた。
葵が先に立って人数を揃え、最後尾を確かめる。クラス委員の癖だ。
「先生、全員います」
真鍋が大きく手を振り、観測所を示す。
「走るな。列を崩さず、俺に付いて来い」吹雪に負けじと、声を張り上げる。
真鍋は先頭に立ち、入口の庇をくぐると、生徒たちを玄関の風除室に押し込む。
最後に入った葵が、横へ寄って来た。ワインレッドのマフラーに口元を埋め、大きな眼だけが真鍋を見上げる。
「先生。今夜、等圧線が引かれますか?」
そもそも、この観測所見学のキッカケは、彼女の問いが始まりだった。
――回想が勝手に割り込む。
教室の棚、同じ単元の教科書が二冊並んでいた。
厚みも図版も似ているのに、記述言語が違う。戦争の章を開けば、片方は「解放」、もう片方は「侵略」と書く。違っているのは、『悪』と書かれた矢印が向く方向だけ。
葵は流動国境の授業中、真っすぐに手を挙げ、質問した。
「等圧線が出来なかったらどうなるのか」と。「線がなければ、どちらの国民でもない朝が来るのか」、と。
真鍋は、その問いを思い出しながら、事実だけを返した。
「ミズホ盆地の地形は、気圧の勾配を生じやすい。だから、盆地の中を必ず等圧線が通る」
気象現象を『必ず』と保証してしまった自分を恥じ、真鍋は風除室の奥へ視線を移した。
重厚な鉄扉。訪問予定時刻を過ぎているのに、職員が出てこない。一年で最も重要な年越しの夜だというのに、観測所が静かすぎる。
真鍋は取っ手に手を掛け――そこで動きを止めた。
施錠されていない。
今夜は厳戒態勢のはずだ。国境が決まる大晦日は、いつも以上に警備されているはずだ。なのに玄関扉は、抵抗なく開いた。
真鍋は息を詰め、生徒へ小さく手を上げた。
「静かに」
扉の中は薄暗く、受付は無人だった。代わりに床に、赤土の筋がいくつも引かれていた。雪道では付かない土だ。玄関マットの端には、破れたオーバーシューズの片方が丸まって落ちている。わざと脱ぎ捨てた、という雑さ。
生徒がざわめきかける。真鍋は人差し指を口元に当てた。
「待て。動くな」
ホールの奥から、人影が現れた。
仕立ての良いコートを着た女だ。年は30代半ば、足元は登山靴、フードは被っていない。雪に濡れた髪を払うでもなく、真鍋と生徒の列を一瞥した。
「ようこそ。お待ちしてたわ」
言葉と裏腹な女の異様な風体に、真鍋は生徒を背中に庇い、一歩前へ出た。
「職員はどうした」
女は顎で奥を示す。ガラス張りの管理室に、職員が数人、後ろ手に縛られ座らされていた。誰かが息を呑む音がした。
「邪魔しないで。観測を止めに来たの」女は淡々と言った。
「今日の二十三時五十九分。等圧線が『確定』するのを阻止する。それには、あなたの協力が不可欠なの」
一拍置いて、言葉を落とす。「代わりに、生徒には手を出さない。――協力するなら、全員を無傷で帰す」
真鍋が言い返そうとした瞬間、玄関側――風除室の扉が、吹雪に押されるように重く鳴った。
次いで、靴裏で雪を叩き落とす音。遅れて、男が入ってきた。大柄で、肩が分厚い。手には細い結束バンドの束と、無線のマイクらしきものが握られている。
「外のヤツは処理しておいた」男が短く言った。荒い息が白い。
女が軽く頷く。
真鍋が喉を鳴らした。
「外って、運転手のことか」
男が視線を寄越した。
「殺しちゃいねぇ、手足を縛って寝かせただけだ」リーダー格らしい女に視線を移す。「助けを呼ばないように、スマホと無線は預かった」
女が、真鍋に視線を戻した。
「先生。あなたたちを監禁します。余計なことはしないで」
一拍置く。「その代わり、生徒には触れない。日付が変われば、ここから出す」
今は生徒たちの保全が最重要任務であった。
真鍋は息を吸い、努めて声を落ち着かせた。
「全員、言われた通りに動け」
どこかで秒針が進む音がした。二十三時五十九分へ向かって。
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