二週間前の食堂

走り出せない駄馬

二週間前の食堂

十年ぶりに、かつて工場があった東京の下町を訪れた。

独身だった頃、昼休みになるたびに通っていた食堂がある。

もう、とっくに無くなっているはずだと思いながら、

なぜか足は遠回りの路地へ向かっていた。

そして――そこに、さかえ食堂はあった。


色あせた看板。擦り切れた暖簾のれん

記憶の中の景色が、そのまま置き去りにされているようだった。


「こんにちは」


戸を開けると、油と出汁の匂いが鼻をくすぐる。

カウンター、丸椅子、壁に貼られた短冊メニュー。

何ひとつ変わっていない。


そして。

「……え?」

カウンターの奥に立つ店主を見て、思わず声が漏れた。

白い割烹着かっぽうぎに、少し猫背の背中。

十年前、最後に見たときのままの姿だった。

「お久しぶりです。以前お世話になった、武田です」

そう言うと、店主は目を細めた。

「武田さん。久しぶりだねえ。

また来てくれると思って、ずっと待っていたよ」


懐かしい定食が、音もなく置かれた。

箸を運ぶたび、記憶が一つずつほどけていく。

味も、あの頃のままだった。


満腹になり、勘定を払おうとすると、

店主が引き出しを開けて、硬貨を一枚差し出した。

「そうそう。

昔、お釣りを返せなくてね。

ずっと預かっていた五十円だよ」


「……確かに、返してもらいました」


そう答えると、店主は満足そうに頷いた。


「それなら、よかった」


少し間を置いて、私は言った。

「結婚したんです。

今度、家族を連れてきますね」


「そうかい。楽しみにしてるよ」

その声は、やけに穏やかで、やさしかった。

________________________________________

二週間後、妻と五歳の息子の手を引いて、同じ道を歩いた。

だが、さかえ食堂は閉まっていた。

シャッターの前に貼られた一枚の紙。

「長い間ありがとうございました

本日をもちまして閉店いたします」

その周囲には、手書きの文字がいくつも重なっている。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

「必ず元気になって再開してください」

日付は、五年前だった。


「……そんなはずはない」


立ち尽くしていると、背後から声がした。


「その店、もう五年前に閉めましたよ。

おやじさん、膵臓すいぞうがんで亡くなってね。

いい店でしたよね……」


言葉は、それ以上続かなかった。

私は財布を開いた。

あの日、受け取った五十円玉は、もうそこにはなかった。

使ってしまったのか。

それとも、最初から――。


息子が、小さな声で言った。

「パパ、おじさん、やさしかったね」


息子の手を握りながら、私はシャッターの前で、静かに頭を下げた。


あの日の定食は、今もどこかで、湯気を立てている気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二週間前の食堂 走り出せない駄馬 @tobikurage13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ