第一章「影祓い」
「ねー旭くん、これ美味しくなーい」
しとしとと雨の降る日だった。
出窓に座って濡れる地面を眺めながら呟いたゆりに、いかにも面倒そうに目を向ける旭。
「……まぁたお前は勝手に食ったのか」
腹が減るのはわかる、と旭は理解している。しかしゆりの手にあった齧りかけのあんぱんを見て、「そりゃまずいだろうよ」と小さく呟いた。
旭の呟きを聞いて、ゆりはさも平気そうに大人ぶった顔をして見せるが、やたらとチグハグな様子に旭は肩を竦める。
ゆりに初めてシゴトを見せてから二日ほど。
ゆりにも「影祓い」の才能があると気付き、同行させてはみたものの、やはり初手から上手く出来るはずも無くゆりが見つけた影は結局旭が始末をつけた。
それもそのはず、ゆりが見つけた影はなかなかに大きなもので、初めてのゆりにはかなり荷が重いシゴトであった。
「ゆり、いいか」
「あ、ねぇ旭くん。わたし気付いたんだけど!もしかしてここ『異世界』?」
旭の言葉に被せるように付けっぱなしのテレビから見たアニメ映像を指差すゆり。
「………違ェよ」
やや少し考えてから先程「美味しくない」と宣ったあんぱんをちびりと齧った。
相も変わらず突拍子もないことを言い放ったゆりに旭は絶句した。そんな旭をよそに、さも不味そうにちびちびとあんぱんを齧っては「うぇ」と小さくえづく。
少なくとも、ゆりの言うような場所ではない。
ただ旭としては現状「今以上の状況」を教えてやるつもりは皆無だった。
彼女がこの現状を異世界と感じているのであればそれはそれとして、さして大きな問題ではない。
些細な、それこそ「どうでもいい」ことであった。
──── 影祓い。
旭にとっては、別に祓っている訳ではなく、ただのシゴトでしかなかった。
しかしゆりが「そう」称したいのであれば、彼にとってそれもまた「どうでもいい」のでそう呼ぶことにしたらしい。
「ゆり、いい加減にしろ。シゴトに行くぞ」
正直、そんなシゴトなどしなくとも生活には支障がない。ただし旭には目的があった。その目的こそ誰にも明かしていない内に秘めたものではあるものの、ゆりとの今後の為には旭にとって必要なものであった。
そして旭の目的の為にこそ、ゆりにもシゴトをさせる必要があった。
旭は未だ膨れっ面を晒すゆりをシゴトに促し、その華奢で小さな手から齧りかけの「美味しくない」あんぱんを奪い取る。
「あーん、まだ食べてるのに」
「こんなもん食ってんな。もっといいもの食え。おら行くぞ」
雑に出窓から立たせてシゴトに連れ出そうと促すと、そのまま奪い取ったあんぱんを投げ捨ててその場を後にした。
腐敗臭のする異物の横に、カビの生えたあんぱんが転がった。
******
「───んと、つまり……こっちにおいで!ってすればあの黒いモヤモヤはわたしの所に来るの?」
「まぁざっくばらんに言やそういう事だな。要はお前が見えてる黒いモヤに「こちら側」に来るようなイメージの共有をさせる……と言えば聞こえがいいかな」
旭とゆりの前には、例えるならば10代の少女のような繊細さを帯びた影があった。影はゆらゆらと躊躇うように全体を揺らし、時折前屈みになったり小さくなったりと落ち着きが無い。こちらの声は聞こえているのかいないのか、理解をしているのか。ちらりとこちらを向くような様子も伺える。
「いいか、こっちに来たくなるようなとにかく耳触りの良い言葉を掛けてやれ」
普段の醜悪な様子とは打って変わって、旭まるで仏か何かのような慈愛のこもった言葉をゆりに囁いた。並べられた単語こそ高尚なものではない事はゆりも理解しつつ、しかしながらそれでいてどうしてか旭に対して縋りたくなるような、そんな不思議な気持ちにゆりは首を傾げた。
「──── …おいで」
からん、と空のグラスの中で溶けかけの氷が転がるような軽やかで涼やかな声。
ゆりがその影に向かって語り掛けると、一瞬にして影はふわりと膨張したように見えた。そして数秒の後。
「ドーン」と何かが破裂するような爆発音が直接鼓膜に響く。突然の事に小さく悲鳴を上げたゆりは思わず目を瞑り耳を塞ぐが、肩に旭のものと思われる手の感触を感じ、恐る恐る双眸を開いた。
目の前には黒も闇も影も無く、先程と同じような褪せた景色が広がっている。隣にいた旭の顔を見上げたゆりは、例の気持ち悪い笑みを携えた旭と至近距離で目が合ってしまう。不思議と嫌悪感は無いが、胸の悪くなる感覚は残る。ゆりは一瞬眉根を寄せた後、ふっとその眉尻を下げて溜息にも似た息をほぅ、と漏らす。
「初めてにしちゃ上出来」
褒めるように旭はその大きな手の平でゆりの小さく形のいい頭をぽんぽんと撫でる。実際は初めてでは無く二度目ではあるも、手出しはせず口出しのみでシゴトを一人でさせたのは初めてである。
どうやら無事に事は済んだらしかった。
「帰るぞ」
旭に促され、ゆりはそっと立ち上がる。
胸の奥の、もっと奥底の方で黒い何かを抱えている違和感を感じながら、旭の少し遠くなった背中を追い縋るように、ゆりは小走りで追いかけた。
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