夜の底でも、隣にいる人
いすず さら
夜の底に咲く
第一章 静かに壊れていく音
春の風は、あまりに優しくて残酷だった。
桜並木のトンネルをくぐるたびに、藤井悠は取り残されたような気分になった。
同じ大学の学生たちが笑い合って通り過ぎていく。新歓のチラシを配る声、カフェで楽しそうに話すグループ。すべてが、別の世界の出来事のように思えた。
──私は、ここにいていいのかな。
そんな問いが、朝起きた瞬間から喉元までせり上がってくる。
「行かなきゃ」と思ってベッドを出るのに、何度も時間を確認してしまう。顔を洗っても心が曇ったままで、鏡に映る自分が他人に見える。
大学2年の春。
1年間通ったはずのこの場所が、なぜか去年より遠く感じた。
教室の端の席に腰を下ろして、悠はノートを開く。
教授の声がマイク越しに響くけれど、言葉がすり抜けていく。周囲では何人かが小さな声で会話をしていた。
――昨日、LINEした子から既読無視されてさ。
――あー、それってさあ……。
他愛もない話題。けれど、そういう会話ができる相手すらいない自分がみじめに思えた。
高校のころの友達は地元を離れてしまった。新しい友人を作るのが苦手な自分は、1年経っても「グループ」の外側にいる。
講義の最後、教授が課題を提示すると、ざわめきが広がった。
誰かがノートをめくる音。話しかける声。
悠は自分のタイミングで席を立とうとしたが、隣の女子学生が軽く笑って話しかけていた。
「この課題、去年もあったやつじゃん。ちょろいね」
彼女はそのまま友達と連れ立って教室を出ていった。
その軽さが、悠にはまぶしすぎた。
大学の中庭にあるベンチで、コンビニのおにぎりを広げる。
スマホを開いても、通知はゼロ。SNSは見るだけ。
人の幸せそうな投稿がつらくて、アプリをそっと閉じる。
そのとき、ふいに視界の端に立つ人影に気づいた。
「……ここ、空いてる?」
顔を上げると、見覚えのある先輩が立っていた。
柔らかい表情で微笑むその人は、たしか、去年のゼミで一度だけ話したことがある――橘遼だった。
「いいですよ」
そう答えたけれど、心の中ではざわめきが止まらなかった。
人に話しかけられることに慣れていない自分が、うまく言葉を返せる気がしなかった。
だが、橘はそれ以上何も言わず、悠と同じようにパンを袋から取り出し、静かに食べ始めた。
沈黙。でも、不思議と苦しくなかった。
まるで、そこにいても否定されないような、柔らかな空気。
――その日、悠は久しぶりに「泣かずに夜を越えられるかもしれない」と思った。
第二章 誰にも言えないこと
人は、どこまで黙っていられるのだろう。
どこまで、笑っているふりができるのだろう。
それとも、ふりをしているうちに、本当に「大丈夫」になっていくのだろうか。
藤井悠には、誰にも言っていないことがいくつもあった。
それは秘密というより、「言えない」のだ。
重たすぎるのではない。ただ、言葉にしてしまえば、もっと苦しくなる気がしていた。
悠の実家は、郊外にある小さな団地の一角だ。
母は看護師で夜勤が多く、父も仕事が忙しくてほとんど家にいない。
だから「一人になる時間」は、子供のころから当たり前だった。
夕飯をひとりで食べるのも、テレビをつけっぱなしにして眠るのも、最初はさびしかったけど、いつの間にか慣れていった。
そして、慣れたと思っていたけれど――やっぱり、それはさびしかった。
「寂しい」って、誰かに言えるような関係を、悠は持ってこなかった。
本音を出した途端に、嫌われてしまう気がしたからだ。
大学の教室の隅でノートを取るふりをして、悠はぼんやりしていた。
隣のグループの子たちは相変わらずにぎやかで、悠が何かを言えば空気を壊すような気がして声をかけられなかった。
授業が終わるころ、LINEの通知がひとつだけ鳴った。
橘 遼:
さっきのゼミ資料、これ見ればわかりやすいかも。
(PDF添付)
思わず、息が止まりそうになった。
たった一行。けれど、誰かが「自分のためだけに送ってくれた」ことが、悠の胸を静かに揺らした。
指先が震える。すぐに返すべきか悩んで、何度も文章を打っては消した。
藤井 悠:
ありがとうございます。助かります。
ようやく送信した文面は、当たり障りのない言葉だった。
それでも橘はすぐに「了解」とだけ返してくれて、それ以上は何も言わなかった。
その距離感が、ありがたかった。
夕方、大学の図書館に立ち寄ると、偶然、橘とまた会った。
悠が戸惑って立ち止まると、彼はほんの少しだけ笑った。
「藤井さんって、人の話をよく聞く顔してるよね」
唐突な言葉に、戸惑いがにじむ。
「……そう、ですか?」
「うん。人に疲れてる顔じゃなくて、人のことを考えすぎてる顔っていうか」
それは、図星だった。
だから余計に、何も返せなかった。
橘は続ける。
「俺、去年、全部ダメになりかけたんだ。ゼミもサークルも、友達付き合いも。……なんか、急に全部、無理になって」
言葉は静かで、重かった。
「今はどうにか復活したけどさ。あのとき、誰か一人でいいから、自分の話を否定せずに聞いてくれる人がいたらって思ってた」
悠は、心がじんわり熱くなるのを感じた。
あのとき、誰にも言えなかったことを、橘は言葉にしてくれた。
――私も、そう思ってた。
けれど、悠はそれを言葉にできなかった。まだ。
橘は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、目を細めて言った。
「話したくなったら、でいいよ」
そしてまた、何事もなかったように、図書館の本棚の奥へと歩いていった。
その背中を見ながら、悠は心の奥で静かに「ありがとう」とつぶやいた。
第三章 泣けない日々
涙が出ないことに、悠は気づいていた。
本当は、つらい。苦しい。孤独で、誰かに助けてほしい――はずなのに、
涙はいつも、喉の奥で止まったままだった。
夜の静けさに包まれる時間が、一番きつい。
自分の呼吸音すら大きく感じて、ベッドの中で眠れないままスマホを握る。
でも、誰かにメッセージを送ることはできなかった。
送れる相手がいないのではなく、
誰かに頼ってしまえば、もっと弱くなる気がした。
五月の風が少しぬるくなったある日、
ゼミの帰り道で橘とまた一緒になった。
彼は変わらずあたたかな距離で隣に立ち、無理に何かを話すこともなかった。
それが、ありがたかった。
「もうすぐ中間レポートだね」と悠が言うと、橘は笑いながら、
「うん、死ぬほど書くの面倒くさいやつ」
「……ですよね」
たわいのない会話。でも、悠はふと、自分が今、ちゃんと「話している」ことに気づいた。
表情を作るのではなく、言葉を選ばず、誰かと会話ができている。
それが、とても不思議だった。
その夜、ふと橘からメッセージが届いた。
橘 遼:
今日さ、いつもより少し顔色よかった。
無理してたらごめん。でも、ちょっと安心した。
その一文を読み終えた瞬間、
悠の胸の奥に、なにかがこみあげてきた。
目を閉じて、深呼吸をしても、なにも収まらなかった。
視界がにじんでいく。でも、それはただの疲れでも、風でもなく、涙だった。
何日ぶりだろう。
いや、何か月ぶりなのかさえ、思い出せない。
スマホの画面がにじむ。けれど、それでも返信を打つ。
藤井 悠:
泣きました。
でも、誰にも見られなくてよかったです。
メッセージ、ありがとうございます。
そのあと、布団の中で泣いた。
大きな声は出せなかったけど、嗚咽が止まらなかった。
理由は自分でもよくわからなかったけれど、
ただひとつ、たしかに思った。
泣けるって、まだ人間でいられるってことなんだ。
次の日、橘とは特に何も話さなかった。
けれど、図書館で目が合ったとき、彼は軽く会釈をして微笑んだ。
それだけで、十分だった。
今はまだ、十分すぎるほど。
第四章 メールの向こうにいる人
夜。部屋の明かりを消して、スマホの画面だけが唯一の灯りになる。
誰かの投稿やニュース記事を眺めていると、自分が世界から遠ざかっていくような感覚に陥る。
誰かとつながっているようで、どこにもつながっていない。
でも今の悠には、一人だけ。
本当に一人だけ、「返信が来るかもしれない」と思える相手がいた。
藤井 悠:
明日、図書館でレポートやる予定なんですけど、橘さんも来ますか?
送ってから、後悔した。
急にこんなことを送って、迷惑じゃないだろうか。
重たいと思われないだろうか。既読がつかないスマホ画面に視線が張りつく。
だが数分後、通知が鳴った。
橘 遼:
たぶん行く。席、あいてたら隣いい?
その瞬間、心の中にあった不安がほんの少し、溶けた。
図書館の窓際の席に座り、悠はノートとPCを広げていた。
橘は10分後に到着し、何も言わずに隣に座った。
ただ、それだけで、静かな安心が広がる。
橘は作業を始める前にふと、ぽつりと口を開いた。
「……最近、ちゃんと寝れてる?」
突然の問いに、悠は指を止めた。
「……どうしてそう思ったんですか?」
「昨日のLINE。なんとなく、疲れてる人の文面だったから」
そう言って橘は、決して悠の目を見ようとはしなかった。
ただ、言葉をそっと置いてくれた。
「俺もさ、あんまり寝られなかった時期があって。
寝ると、明日が来るから嫌だったんだよね。
だから、意味もなく起きてた」
悠の胸が、きゅっと縮まった。
自分の中にあった感情を、誰かがそのまま言葉にしてくれたような気がして。
「……私も、です。なんか……寝るの、怖いです」
その一言がこぼれて、悠は気づく。
自分がいま、「ちゃんと人と話している」ということに。
言葉を選ばなくても、変に気を使わなくても、否定されないという感覚。
それは初めて味わうような、不思議な安心感だった。
レポート作業は夜までかかった。
帰り道、街灯が揺れる並木道を二人で歩く。
風が少し冷たかったけれど、悠は不思議と寒くなかった。
「こうやって誰かと一緒に歩くの、久しぶりかもしれません」
そう言った悠に、橘は少し黙ってから答えた。
「俺も。……ほんとに、久しぶり」
しばらく歩いて、駅前で別れたあと、悠のスマホが震えた。
橘 遼:
無理して強くならなくてもいいよ。
涙が出るときは、ちゃんと出してあげて。
藤井 悠:
……はい。
ちょっと泣きました。
でも、前より少しだけ、心が軽いです。
送信ボタンを押したあと、悠はスマホを胸元に抱えて、そっと目を閉じた。
ああ、自分は誰かとつながってるんだ。
そう思えた夜は、ほんのすこしだけ、暖かかった。
第五章 心にある、ひとつの空白
“あの日”の記憶は、はっきりとは思い出せない。
けれど、悠の中にはいつも「ぽっかりと空いた穴」のように、それが残っていた。
目を閉じると、音のない夕暮れが浮かぶ。
誰もいない教室。窓から差し込む斜陽。
机の上に置き去りにされた、自分の存在――。
大学の中間試験が近づき、周囲が慌ただしくなっていく。
図書館も混雑し、グループで固まる学生たちの声がうるさくて、
悠はイヤホンをつけて、無音の曲を流していた。
何も聴こえないほうが、楽だった。
音楽さえも、心を揺らしてしまうから。
でも、そんな時間の中にいても、橘の存在だけは静かに残っていた。
過干渉ではなく、過保護でもなく、ただそこに「いてくれる」だけの存在。
悠が図書館を出るとき、橘からメッセージが来た。
橘 遼:
明日、よかったら昼休みに少し話せる?
無理だったら、全然いいから。
どうしてだろう。
その「全然いいから」の一言が、悠には妙にうれしかった。
「いいよ」とだけ返し、翌日を待った。
昼休み、大学の裏庭。
ベンチに並んで座ると、橘がぽつりと切り出した。
「実は、来週……母親が大学に来るんだ」
「え?」
「って言っても、俺に用事があるわけじゃなくてさ。大学の研究協力の件で。
でも……なんか、ずっと会ってなくて」
悠はその言葉に、どこかで共鳴するものを感じた。
「うちも……母親、夜勤が多くて。家にほとんどいないんです。
いても……あんまり話すこと、ないです」
橘が静かに頷く。
「なんかさ、家族って“近いはずなのに、遠い”存在だよな。
話せばわかってくれるって、誰が決めたんだろう」
悠の喉が詰まった。
たぶん、それはずっと、自分が抱えていた空白だった。
「理解されない」ということが、何よりも怖かった。
その日の帰り道、悠はふと思い立って、数年ぶりに実家へ帰ってみた。
夕暮れの団地。静かな部屋。
母の置き手紙がダイニングテーブルの上にあった。
「晩ごはんは冷蔵庫にあるから、温めてね。お母さん、夜勤行ってきます」
そこには小さく、「体に気をつけて」とも書かれていた。
いつもと変わらない、何気ないメモ。
けれど、その文字がじわりとにじんでいく。
誰もいない部屋で、また涙が落ちた。
言葉がなくても、思いがあっても、
どこかですれ違って、それでも“愛”がなかったわけじゃない。
悠は初めて、「空白の正体」を理解したような気がした。
その夜、橘にメッセージを送った。
藤井 悠:
母の字、久しぶりにちゃんと見た気がしました。
優しくて、少しだけ泣きました。
橘 遼:
そっか。
俺もさ、何年かぶりに母親とちゃんと話せる気がしてる。
……たぶん、藤井さんのおかげ。
言葉が、胸にやさしくしみこんでいく。
自分が誰かの「存在の支え」になれるなんて、
ほんの少し前まで、思いもしなかった。
でも、今は――
その小さな関係が、自分を確かにしてくれている。
第六章 君が、ここにいる
「ありがとう」と、言いたいだけだった。
特別なことじゃない。ただ、それだけ。
でも、それがずっと言えなかったのは、
悠の心に、まだどこか「自分なんて」という声が残っていたからだ。
橘がそばにいると、少しだけ強くなれた。
でも、その存在に甘えすぎてはいけないと思う自分もいた。
だからこそ、ちゃんと“お返し”をしたかった。
六月の終わり。梅雨空の下、大学の掲示板に貼られた「学生展示会」のポスターが目にとまった。
それは美術系のサークルやゼミが共同で開く、小さな展示会だった。
――橘の名前があった。
彼は趣味で写真を撮っていると、以前どこかで言っていた。
「誰にも見せてないけど、空とか街角とか撮るの、好きなんだ」と。
あのときのさりげない言葉が、今になってつながった。
悠は決意して、その展示会へ足を運ぶことにした。
土曜の午後、展示室は人もまばらだった。
絵や写真が整然と並ぶ中、白とグレーを基調にした静かなコーナーに、
橘の作品があった。
タイトルは《空白と余白》。
どれも、人の気配がない風景ばかり。
でも、どこかあたたかくて、やさしい光に包まれていた。
その中の一枚、雨上がりのベンチを映した写真の下に、短い言葉が添えられていた。
「誰かがここにいたことを、写真だけが知っている」
悠は思わず、足を止めて見入った。
「……来てくれたんだ」
後ろから、橘の声。
振り向くと、彼は少し照れくさそうに笑っていた。
「偶然見かけて。橘さんの名前、ちゃんと書いてあったから」
「そっか……ありがとう。ほんとに、来てくれると思ってなかったから」
悠は迷った末に、ぽつりと言葉を置いた。
「私……橘さんに、ちゃんとお礼を言いたくて。
いつも、気にかけてくれて、話をしてくれて……。
あのままだったら、私、たぶん今ここにいなかった」
橘は何も言わなかった。
でも、その沈黙は、拒絶ではなかった。
しばらくして彼が言った。
「俺ね、誰かに必要とされるのが、ちょっと怖かったんだ。
裏切られたくなくて。
でも、藤井さんと話してると……
『必要とされる』ことって、ちゃんと人を救うんだなって思えた」
沈黙が、今度は言葉以上に優しかった。
展示会の帰り道、雨が降り出した。
ふたりで屋根の下に入り、濡れた道を眺める。
悠がふと口を開いた。
「“誰かがここにいたことを、写真だけが知っている”って……
あれ、すごくよかったです」
橘は一瞬目をそらして、照れたように笑った。
「ありがとう。でも、実は……俺、自分に言ってたのかもしれない。
『俺がここにいたこと、誰かが覚えててくれたらいいな』って」
悠は、そっと言った。
「私は……覚えてます。
橘さんが、ここにいたってこと。これからも、たぶんずっと」
一瞬の沈黙ののち、橘が言った。
「そっか。じゃあ……俺も。
藤井さんがいたこと、ちゃんと覚えてる」
雨音の中で、確かに交わされた言葉。
言葉が人を救うとしたら、きっとそれは、こういう瞬間だった。
第七章 もう一人の“わたし”へ
七月の風が、夏の匂いを運んできた。
大学のキャンパスにも蝉の声が混じり始め、悠はその喧騒の中に溶け込めずにいた。
橘と少しずつ距離が縮まり、穏やかな時間が増えていく一方で、
悠の心にはひとつ、ふれられずにいた影があった。
「あの頃の自分」――見ないふりをしてきた、もう一人の“わたし”。
高校時代。
人間関係に疲れ、いつも誰かに気を使っていた日々。
自分が空気のように扱われるのが当たり前で、
心がすり減っていくのに、それを誰にも言えなかった。
“消えてしまいたい”と、心のどこかで何度も思った。
クラスで無視されたあの日。
保健室に逃げ込んだあの日。
親に「気にしすぎじゃない?」と笑われたあの日。
あのとき、自分が自分を見捨てた気がした。
大学の図書館の隅で、ふと高校の卒業アルバムをスマホで開いた。
そこに写る自分は、無理に笑っていた。
「ねえ、これ、全部嘘だったんだよ」
心の中の“あの子”が、そう言った気がした。
涙が出そうになるのを堪えて、スマホを閉じる。
「……私、ちゃんとあの子に謝ってない」
自分自身を否定しながら生きてきた。
でも、それでは前に進めない。
その日の夜、橘からのLINEが届いた。
橘 遼:
元気? なんとなく、最近少し顔が沈んでる気がして。
悠は、少し迷ってから、正直に返した。
藤井 悠:
高校の頃のこと、思い出してました。
あの頃の私、ずっと苦しくて……いまだに許せなくて。
するとすぐ、橘から返信が来た。
橘 遼:
そういう自分も、自分だよ。
苦しんだ“あの頃の藤井さん”がいたから、今の藤井さんがいる。
俺は、今の君も、過去の君も、どっちも大切だと思う。
その言葉に、胸の奥で何かが崩れて、涙が止まらなかった。
そしてその夜、悠は初めて自分自身に向かって、小さくつぶやいた。
「ごめんね。あのときの私、ずっとひとりにしてて。
でも、もう逃げないから。……ありがとう、生きててくれて」
声にならない想いが、胸の中に静かに降り積もっていく。
誰にも聞こえない、たった一人との対話。
翌日。大学の帰り道、橘と並んで歩いていた。
ふと、悠が言った。
「私ね、やっと“過去の自分”と少しだけ向き合えた気がします」
橘は、驚かずにうなずいた。
「それって、すごいことだよ。時間がかかっても、自分とちゃんと話せたなら……それは“前に進んだ”ってことだから」
その言葉を聞いて、悠は思う。
過去を消すことはできないけれど、それを抱えて生きることなら、きっとできる。
少しずつ、心の中に光が差し始めていた。
第八章 夜明けを待つ花
蝉の声が、耳にまとわりつくように響いていた。
七月も中旬。夏は確かにすぐそばにいる。
けれど、悠の心にはまだ、ひとつ冷たい影が残っていた。
それは、“未来”という不確かなものに対する不安だった。
過去は少しだけ乗り越えられた気がする。
橘との関係も穏やかで、心強く思える時間が増えた。
でも、未来を考えようとすると、胸の奥でブレーキがかかる。
このまま進んでもいいのか。
また何かを失ったら、どうすればいいのか。
自分に価値があると、心から信じられないまま、季節は移ろっていく。
大学のキャリアガイダンスで、将来の進路を考えるようにと促される。
周りの学生たちは、企業名や志望業種の話に花を咲かせていた。
けれど、悠はノートの最初のページに、何も書けなかった。
「私、何がしたいんだろう……」
言葉にすると、空しさだけが増していく。
就職のことも、将来の暮らしも、考えようとするたびに心が拒否した。
その夜、橘と駅まで帰る途中、悠がぽつりと呟いた。
「橘さんは……将来、どうしたいって思ってますか?」
橘は少し考えてから答えた。
「うーん、正直、まだはっきり決まってない。
でも、たぶん……“誰かの心に何かを残せること”がしたい。
写真でも、言葉でも、そういう何か。
自己満足かもしれないけど、でも――それが俺の“存在の意味”だと思うから」
その言葉が、悠の心にすっと染み込んだ。
自分が存在する意味。
それを探してきたのは、きっと自分も同じだった。
数日後、悠は大学の小さな相談室を訪れた。
誰にも言えなかった将来への不安を、専門のカウンセラーにぽつりぽつりと話した。
最初は涙が出てきて、うまく言葉にならなかった。
でも、不思議とその場所では、否定されることがなかった。
「未来に不安を感じるのは、当然です。
でも、“今不安を感じている自分”を、そのまま認めることが、第一歩なんですよ」
帰り道、その言葉を何度も心の中で繰り返した。
「今のままでいい」なんて思えないけれど、
「今のままでもいい」って、少しでも信じられたら――
それは、未来のための小さな希望なのかもしれない。
週末、橘とふたりで静かな公園を歩いた。
夏の夕暮れが空をオレンジに染め、蝉の声が遠ざかっていく。
「私……将来のこと、まだ全然わからないです。
でも、今は、誰かのそばで“ちゃんと生きたい”って思ってます」
橘は優しく微笑んだ。
「それって、すごく大事なことだと思う。
未来って、誰かと一緒に歩いてくから、少しずつ“見えてくるもの”かもしれないね」
そう言って、橘はカバンから一枚の写真を差し出した。
それは、薄明かりの中で咲く一輪の花を写したものだった。
「夜明け前に咲く花なんだって。
この花、暗い中でも咲いて、ちゃんと朝を迎えるんだよ」
悠は静かに頷いた。
“夜の底”にいた自分にも、きっと朝は来る。
そしてそのとき、自分もまた、咲くことができる――。
そう思えたのは、きっと橘が隣にいてくれたからだった。
第九章 ほんとうの声
橘の隣にいると、呼吸がしやすくなった。
それは確かで、ありがたくて、何より怖かった。
人の優しさに触れるほど、失う怖さが増えていく――
その感情に、悠はうすうす気づいていた。
「この関係に、いつか終わりが来たら?」
それが、頭のどこかにこびりついていた。
七月の終わり。梅雨が明け、空はまぶしすぎるほど晴れていた。
夏休みを前に、橘が言った。
「今度、写真の合宿があるんだ。
大学のゼミの一環で、一週間くらい地方の村に行くんだけど……」
悠は軽くうなずいた。
「そうなんですね。いいですね、自然とか、撮れそうで」
橘は少し黙ったあと、声を落とした。
「……本当は、行くか迷ってた。
悠と、こんなふうにちゃんと向き合えるようになったばっかで、
離れるのが、正直怖いなって思ってたから」
その言葉に、心が揺れた。
「私も……怖いって思ってました。
離れたら、元に戻れないんじゃないかって」
橘が驚いたように目を見開いた。
「そう思ってたの、俺だけじゃなかったんだな」
「……うん。でも、」
悠は一呼吸置いてから、視線を上げた。
「でも、それでも橘さんには行ってほしい。
橘さんが“やりたい”って思ったこと、
私、ちゃんと応援したいです」
それは、誰かの背中を押すことの苦しさと優しさが混じった言葉だった。
橘はゆっくりと、ほんの少しだけ、彼女の手を握った。
「ありがとう。……行ってくる。
ちゃんと、自分の目で見て、撮って、持って帰ってくる。
――君に見せたいから」
橘が出発してから、悠はぽっかり空いた時間を持て余していた。
キャンパスには蝉の声が響き、街は夏の喧騒に包まれていたが、心だけはどこか空虚だった。
そしてある夜、橘から長文のメッセージが届いた。
橘 遼:
村の空は、ほんとにびっくりするくらい星が多くて、
カメラ向けながら、ふと気づいたんだ。
俺、やっぱり“人”が撮りたいんだって。
風景や空の奥にいる、その人の「気持ち」を、
写真で残したい。
……そして、たぶんそれは、
藤井さんのことを撮りたいって意味だと思う。
もし迷惑じゃなければ、
俺、これからも“君”をちゃんと見ていきたい。
ひとりの人間として、好きだから。
スマホの画面を見つめたまま、しばらく涙が止まらなかった。
「好き」という言葉を、こんなにやさしく差し出されたのは、初めてだった。
怖かった。「誰かに見られること」も、「期待されること」も。
でも今、悠の心には確かに、応えたいと思う気持ちがあった。
翌朝、悠はスマホに短く返信を送った。
藤井 悠:
ありがとう。
私も、橘さんを見ていきたい。
私自身も、ちゃんと見てあげたいって思えるようになったから。
戻ってきたら、写真、見せてください。
心の中に、少しずつ「ほんとうの声」が芽生え始めていた。
それはまだ頼りなくて、小さなつぼみのようだけれど――
確かに、夜の底で咲こうとしていた。
第十章 君に、見えている世界
八月の風が少しだけやわらいだころ、橘が村から帰ってきた。
悠はその日、大学のカフェテリアのテラス席で彼を待っていた。
いつもと変わらないようで、どこか違う橘の顔。
日焼けして、少し目の奥が強くなったように見えた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
それだけの言葉が、ふたりの間に積もった時間を埋めていく。
橘は、カバンからノートPCとSDカードを取り出した。
「写真、見せてもいい?」
「……うん」
画面に映ったのは、朝露に濡れる草原、夕陽に染まる古い木の橋、
夜空に吸い込まれるような星の群れ――
けれど、悠の目を釘付けにしたのは、ふと現れた一枚だった。
それは、駅のホームで振り返る自分。
目は伏せ気味で、風に髪が揺れている。
「……これ、私?」
「うん。出発する前の日、たまたま撮った。
なんか……“何かを言えずにいる人”って感じがして。
でも、ちゃんと立ってる姿が、すごく綺麗だった」
悠はしばらく黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「自分のこと、綺麗だって思ったことなんて……なかったな」
「俺は、すごく綺麗だと思った。
見た目だけじゃなくて、“生きようとしてる”姿が」
その言葉に、胸の奥がゆっくりと溶けていった。
橘の目に映っていたのは、
自分がずっと目を背けていた“自分自身”だった。
その夜、悠はひとりでベッドの上に座り、
スマホに撮った橘の写真を見返していた。
そこに写っている“自分”は、不安げな目をしていた。
けれど同時に、どこか“希望”も宿していた。
「私、こんなふうに見えてたんだ……」
橘が言ってくれた“生きようとしてる姿”。
それは、自分では気づけなかったものだった。
それを知った瞬間、悠は初めて、
「今の自分」に、ほんの少し微笑んでもいいと思えた。
数日後、悠は橘に小さなメモ帳を渡した。
そこには、手書きの言葉が並んでいた。
「私は、私のままで、少しずつ進んでいきたい」
「誰かの隣にいて、誰かと笑えることを、大切にしたい」
「まだ怖さは残ってるけど、それでも――私は“生きたい”と思う」
橘は、静かに目を伏せ、深くうなずいた。
「そのままの君でいてほしい。
もし君が立ち止まっても、歩けなくなっても、
俺は、隣にいるから」
その言葉を受け止めた瞬間、
悠は胸の奥で、確かな“光”が芽生える音を感じた。
最終章 夜の底に咲く
八月の終わり。
蝉の声が止んだ夜、静けさがやけに胸に染みた。
大学の校舎の片隅、誰もいない講義棟のベンチに、悠はひとりで座っていた。
――もう、逃げ場所にはならないと思っていたこの場所に。
でも今は、ただここに“いられる”ことが嬉しかった。
ふと、背後から足音が聞こえた。
「藤井さん?」
振り返ると、橘がそこにいた。
汗をかいたシャツ、肩にかけたカメラバッグ。
どこか走ってきたようだった。
「ここ、いる気がしたんだ」
「……すごいですね。正解です」
ふたりは隣に座り、しばらく無言のまま、夜の空気に耳を澄ませていた。
「ねえ、橘さん」
「うん?」
「私ね――」
言葉がつかえた。けれど、それでも今は、言える気がした。
「ずっと、“意味がない”って思ってたの。
私がここにいることにも、生きてることにも、誰かと関わることにも。
でも、橘さんと出会ってから、ほんの少しずつ、変わっていった」
視線は前を向いたまま。
橘の目は見れなかったけれど、静かに続けた。
「全部が楽しかったわけじゃないし、
まだ朝が怖くなるときもあるけど――
それでも今は、“この人生でよかった”って、ちょっとだけ思えるんです」
そしてようやく、悠は橘の目を見た。
「ありがとう。橘さんが、“ちゃんと見てくれた”から」
橘は、ゆっくりとカメラを取り出した。
そして、やわらかく笑った。
「今、撮ってもいい?」
「……うん」
シャッター音が、夜の静けさに溶けた。
「今の君が、いちばんきれいだった。
自分の足で立ってる、その姿が」
悠はその言葉を、胸の奥でしっかりと受け止めた。
もう誰かになろうとしなくていい。
誰かの期待に応えられなくてもいい。
この不完全で頼りない“私”のままで、
誰かとつながって生きていける――。
それこそが、夜の底で見つけた唯一の希望だった。
数日後、橘から一枚のプリント写真が届いた。
あの夜、ベンチに座る自分の姿。
そして、裏には手書きの言葉。
「夜の底でも、花は咲く。
それを見つけられる誰かが、必ずそばにいる」
悠はそっと微笑んだ。
まだ不安は消えない。
未来もぼんやりしたまま。
けれど――それでも、ちゃんと明日を迎えよう。
自分の足で歩いていこう。
夜の底に咲く花として。
誰かの目に映る、確かな“私”として。
エピローグ 光のほうへ
三年後。春。
大学を卒業し、社会人になった悠は、今、都内の静かな町にある小さな編集プロダクションで働いている。
カフェや書店を特集する記事の企画・編集――
最初は人と関わることに戸惑ってばかりだったが、今では後輩に取材の段取りを説明できるようになった。
けれど、たまにふと、ひとりになると「私で大丈夫かな」と不安になる夜もある。
そういう日は、いつもこの写真を見る。
木製の額に入った一枚のモノクロ写真。
大学三年の夏、夜のベンチで撮られたものだ。
そこには、少しうつむきながらも前を見ている自分がいた。
そして、写真の下には、あの言葉が今も残されている。
「夜の底でも、花は咲く。
それを見つけられる誰かが、必ずそばにいる」
休日の午後、彼女はカメラバッグを肩にかけた男性と待ち合わせた。
待ち合わせ場所は、大学近くの桜並木。
橘 遼。いまはフリーの写真家として、少しずつ活動を広げている。
「待った?」
「ううん、ちょうど」
悠は、彼の横に自然と立った。
隣にいることが、当たり前になっていた。
彼は、変わらないやさしいまなざしで悠を見つめ、ふっと笑った。
「桜、今年は早いね」
「うん、でも……ちゃんと咲いてくれて、よかった」
桜の花びらが、風に舞う。
それは、ふたりが乗り越えてきた冬の長さを祝福するようだった。
帰り道、橘がポケットから小さな手帳を取り出した。
その中には、悠の言葉がいくつも書き留められていた。
「何度も読み返してるんだ。
君がくれた言葉たち。
あれがあったから、俺は写真を続けてこれた気がする」
悠は恥ずかしそうに笑って、言った。
「私も、橘さんがくれた写真に、何度も助けられました。
あの夜から、全部が少しずつ変わったんです。
――自分を、ちゃんと生きたいって思えるようになった」
橘は何も言わず、そっと手を伸ばし、悠の指先を握った。
春の風が、ふたりを包んだ。
ほんの少し震えるその手のひらのぬくもりが、
今も確かに“ここに生きている”ことを教えてくれていた。
遠くで子どもたちの笑い声が響く。
誰かのカメラのシャッター音が切られる。
誰かが、誰かを見つけて、残そうとしている。
そして悠は、橘のカメラに向かって、ゆっくりと微笑んだ。
夜は終わった。
けれど、それは“終わり”ではない。
あの夜の底で咲いた小さな花は、
今も、静かに、強く、生き続けている。
夜の底でも、隣にいる人 いすず さら @aeonx
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます