02

 クウォーターの朝は、音で始まる。


 風が梁を舐め、鎖が擦れ、どこかで金属が鳴ってしまう。

 あれは生活音ではない。構造体が悲鳴を上げる前の、薄い予兆だ。


 ヨルは通路を進みながら、足場の癖を足裏で確かめた。水平を信じる者から死んでいく。ここでは、床は平らであるべきものではなく、落ちないために選ばれた角度であった。傾いた梁、歪んだ渡し板、斜めに組まれた支柱。誰かが真っ直ぐにしようとした痕跡は、だいたい折れて補修痕になる。


 補修は、仕事ではない。

 呼吸のようなものだ。


 捕獲棟〈竜の墓場〉へ向かう途中、ヨルは工具箱の蓋を指で弾いた。中身は揃っていない。欠けている分だけ、別の何かで代用する癖がつく。

 人間も同じだ。欠けた役割は、誰かが埋める。埋められなければ、工程が崩れる。崩れた瞬間、竜狩りは狩りではなく事故になる。


 今日の空気は、事故の匂いがしなかった。

 だからといって安心できるわけでもない。ただ、竜の気配が薄い。見張りの連中も、喉の奥で鉄を噛むような緊張はしていない。


 来ない日だ。

 だが、それはそれで問題があった。

 竜が来なければ生き残ってしまう。生き残ったぶんだけ腹が減る。装置が消耗し、人が擦り減る。死なないことは、延命の手間を増やすだけだ。


 ヨルは外套の襟を立て、竜の墓場の縁に立った。


 空間は、意図的に大きく開いている。

 竜を誘い込むための空洞。

 生活の中心に竜の死が置かれていること自体が、この場所の倫理だった。


 梁から垂れる鎖の張り具合を見て、ウインチの固定を指で触れ、落とし床の継ぎ目に目を走らせる。昨日の狩りで削れた箇所は、まだ熱を持っているように見えた。


「ヨル」


 背後から声がした。軽いが、軽薄ではない。

 ヒオだった。


 二十歳くらい。若いのに、目の奥が古い。クウォーターに来るのが早かった人間は、だいたいそうなる。薬に手を出して流された、と本人は笑うが、笑い方は上手くない。


「こっち、索の通し直し。昨日、擦れてる」


 ヒオが指さしたのは天鎖の一部だった。擦過痕が白く残っている。刃物で削られたような筋。竜の動きに引きずられ、梁の角に噛んだのだろう。


「替えは?」


「ある。……いや、あるって言っていいか分かんない。短い」


「短けりゃ継いどけ」


 ヨルが言うと、ヒオは少しだけ笑った。


「継げば、どっかが弱くなるよ?」


「お前が覚えておけばいいだろ」


「そんな、無茶だよ」


「でなきゃ死ぬだけだ」


 その会話に意味はない。慰めでも、警告でもない。

ただ、工程の確認だ。


 ヒオが索を引き、ヨルが固定具を締め直していると、足場の向こうから声が飛んできた。


「おーい、ヨルー! そこ、まだ生きてる?」


 ユーカだった。

 細い声のくせに、言葉は刃物みたいに刺さる時がある。彼女は二重人格だと自分で言う。臆病な自分と、攻撃的な自分。その区別をヨルは信じていない。ここでは、誰だって切り替わる。生きるために。


「生きてるぞ」


 ヨルが返すと、ユーカは渡し板を渡って近づいてきた。足取りは軽いが、軽率ではない。B担当として落とし床と楔を扱う以上、臆病だけでは務まらない。


「今日、落とし床の起動試験やる? さっき、噛みが鈍い気がした」


「見たのか」


「見た。……いや、気がしただけかも」


「やっておこう」


 ヨルは床板の継ぎ目を指で叩いた。空洞の音が返る。内部の滑車がどこかで引っかかっているのかもしれない。竜が来ない日こそ、こういう確認をやる。竜が来る日は、確認している暇がない。


 ユーカはヨルの指先を見ていた。

 何かを言いたそうで、言わない。

 言葉を出した瞬間に、別の自分が出てくるのを恐れているのかもしれないし、恐れていないのかもしれない。


「オルダは?」


 ヨルが聞くと、ユーカは肩をすくめた。


「上。指揮ごっこ。どうせ来ないでしょ」


「来ないって言うな」


「言うよ。言わないと落ち着かないから」


 そう言って、ユーカはふいに目を逸らした。

 目を逸らした先に、担架が置いてある。布がかけられたまま、端の暗がりに寄せられていた。昨日の死体のうちの一つ。解体室へ運ぶ順番待ち。竜の死体だけが解体されるわけじゃない。人も解体され、匂い槽に入れられる。


「人の解体って必要?」


「まぁ……解体したほうが、食・い・つ・き・がいいらしい」


「最悪ね」


 ユーカは吐き捨てる。

 おそらく、この地獄に対しての言葉だったのだろう。


 二人は運び込まれる担架を見ていた。

 誰もが、いつかは至る最期の姿。

 ヨルは何も言わなかった。

 言うべき言葉は、ここにはない。







 昼に近い時間、風の匂いが少し変わった。


 油と錆と血の匂いに混じって、遠い金属の匂いがした。

 新しい鉄。濡れたロープ。木材の匂い。


 ヨルは手を止めた。ヒオも、ユーカも、同じように止まった。

 クウォーターでは、止まる理由が二つしかない。


 竜か、物資だ。


 そして今日は、竜の気配が薄い。

 なら、もう一つだ。


 上の見張りから、短い合図が飛んだ。声じゃない。金属を叩く音。決められた回数。決められた間隔。誰が聞いても分かる。


 定期便。


 誰も歓声を上げない。誰も走らない。

 ただ、自然に人が集まり、ロープウェイの受け口へ向かっていく。


 ヨルは階段を上がりながら、ふと考えた。


 定期便。

 定期なのに、久しぶりだ。


 その矛盾は、ここでは矛盾ですらない。

 外の世界は、クウォーターを「運用している」ことになっている。帳簿上は、規定の頻度で補給が行われ、規定の人数が入れ替わり、規定の成果が上がる。竜は狩られ、資源が回収され、前線は維持される。


 だが、現実は異なる。

 風が強ければ箱は来ない。

 部品が欠ければ装置は止まる。

 人が死ねば工程は歪む。

 竜が来れば全て崩れる。


 それでも「定期」なのだ。

 言葉が制度を保ち、制度が人間を縛る。

 人間は縛られたまま、ここで刑に処されるのだ。


 受け口には、すでにオルダがいた。

 名目上のリーダー。

 右目を眼帯で覆っており、妙な威圧感がある。昔竜狩りで失ったとされている。だがヨルには、大した傷ではないと揶揄されているようだ。


「ラーシアを呼んでおけ。帳簿に数を記録させろ」


  目つきだけは偉そうだが、足元は落ち着かない。

 竜を前にすると固まるくせに、竜がいない時だけ指揮を取る。そういう男は、クウォーターでは嫌厭される。


「やっと来たな」


 箱が来なければ設備が消耗する一方だ。そうなれば死者が増える。死者が増えれば、いずれここも終わってしまう。


 ロープウェイの音が、断崖を切って近づいた。

 遠い滑車が唸り、ロープが空を裂く。霧の向こうから、黒い箱が一つ、また一つと現れる。


 箱は貨物だった。

 水、食材、木材、金属部品、薬品。


 そして――人。


 最後の箱は、揺れ方が違う。


 人間が入っている箱は、微妙に重心が動く。

 無意識の揺れ、呼吸、体温。

 死体とは少し違う。


「……まじか……久しぶりだな」


 誰かが呟いた。

 オルダではない別の誰か。

 その一言だけで、空気が締まる。


 クウォーターにいる人間は補充される。

 死ぬための人間だけが送られてくる。

 そういう世界だと、改めて確認する言葉だった。


 ヨルは柵越しに、その箱を見下ろした。

 木箱には簡素な刻印がある。番号、規格、内容物。

 水や食材の箱と、ほとんど同じ書式。

 違うのは、最後の欄に書かれている文字だけだ。


「竜刑者」


 ここでは、人と物の違いはない。


 オルダが顎で示した。

 内包数は2、そう数字が書かれている。


「二人か……少ないな」


 外の世界は、クウォーターを維持する気があるのかないのか分からない。

 維持する気があるなら、もっと送るはずである。維持する気がないならそもそも送らない。


「開けるぞ」


 誰かが釘抜きを持ってきた。

 木材の軋み、釘が抜け、蓋が外れる。


 最初に出てきたのは、物資の匂いだった。水と、乾いた穀物と、油紙に包まれた部品。外の世界の匂いは、ここより少しだけ清潔だった。清潔な匂いほど、ここでは気持ち悪い。


 そして、最後の箱が開いた。


 中には少女がいた。

 小柄で、痩せている。だが、骨だけではない。筋がある。手首に擦り傷。足首には縄の跡。運搬の間、動かないように縛られていたのだろう。


 目が開いていた。

 涙も悲鳴も動揺もなかった。


 またか、と言いたげな瞳。

 地獄に慣れているかのような、荒んだ瞳だった。

 ただ、その目は箱の外の構造をなぞっていた。梁、鎖、斜めの支柱、歪んだ床。まるで、世界に順応しようとしているみたいに。


「名前は」


 オルダが訊いた。

 それは歓迎の言葉ではなく、登録のためである。


 少女は一瞬だけ口を開き、閉じた。

 唾を飲み込み、短く答えた。


「コト」


 声は掠れていたが媚びはなかった。

 恐怖も見えない。

 表に出していないだけで、ないわけじゃない。ヨルにはそれが分かった。


 二人目の箱には男が入っていた。二十代半ば。目が合ってすぐに逸らした。生き残るための目だった。


 ヨルは二人を見たあと、すぐに視線を外した。

 見つめることに意味はない。

 ここでは、人が増えるのは祝福ではなく、工程の追加だ。


「編成は明日決める」


 オルダが言った。

「今日は来ない」と同じ種類の言葉。言って落ち着くための言葉。


 ヨルは工具を持ち直し、鎖の張りを確かめた。


 断崖の風が、箱の中の匂いをさらっていった。

 コトはその風を吸い込み、ほんの少しだけ目を細めた。


 泣くでもなく、笑うでもなく。

 まるで、これから先の未来を――「使う」準備をするみたいに。


 ヨルは思った。


 明日まで生きていれば歯車になる。

 生きていなければ、ただの荷物だ。


 クウォーターでは、その境界があまりに曖昧だ。


 そして今日も竜は来ない。

 来ないまま、すべてが竜のために整えられていく。

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