カッサンドラの囁き

@Botamoti_1

第1話

​「ハロー、4092便――ジョン・ライド。相変わらずの遅刻ね。こっちはとっくに準備できてるわよ」


​コクピットのスピーカーから、聞き慣れた快活な声が響いた。大型商業ステーション『カッサンドラ』の管制官、エマの声だ。


少し鼻にかかったその声を聞くと、三日間の孤独な宇宙漂流で凝り固まったジョン・ライドの肩から、ふっと力が抜けた。


​「悪いな、エマ。エンジンの機嫌が悪くてね。入港したらとびきりのコーヒーを奢るよ」


ジョンは計器を操作しながらマイクに返した。


精神的な負荷の多い長距離航法の後は、こういったオペレーターとの軽口が宙駆ける船乗り達の心に染み渡る。


​「約束よ、ジョン。到着口近くのカフェで待ってるわ。今、ちょうど焼きたてのアップルパイの匂いがこっちまで漂ってきてるんだから。早くしなさいよ、食いしん坊たちが群がる前にね」


​エマの笑い声がノイズ混じりに消える。


視界の先に浮かぶ『カッサンドラ』は、相変わらずの威容を誇っていた。


何百もの船舶が発着し、数万人の居住者がひしめき合う、この宙域最大の不夜城。無数の航行灯が星々よりも眩しく瞬き、ジョンのオンボロ貨物船を優しく招き入れているように見えた。


​自動着艦シークエンスが走り、船体は静かにドッキングゲートへと吸い込まれていく。


金属が噛み合う重厚な振動。気圧調整の排気音。ジョンはシートベルトを外すと、作業服の襟を正し、エマへの手土産に取引先の社長から貰った特産品のブレスレットをポケットにねじこんだ。


ゆっくりとハッチが開く。


そこから漏れるように、入港直後の騒がしい熱気が押し寄せてくるはずだった。


​「……?」


​一歩、ゲートの外へ踏み出したジョンは、奇妙な感覚に足を止めた。


耳には、確かに届いている。すぐ近くのロビーで、大勢の人間が談笑している声。子供がはしゃいで走り回る足音。清掃ロボットが床を磨く規則的なハミング。遠くの広場からは、聞き慣れた軽快なジャズのBGMまで聞こえてくる。


​鼻を突くのは、香ばしいコーヒーの香りと、誰かが今しがた吐き出したばかりの、安っぽいメンソール煙草の匂いだ。


​それなのに


​目の前に広がるロビーには、影一つなかった。


​磨き上げられた人工大理石の床は、照明を反射して鏡のように光っている。その上には、誰もいない。


埃一つ無い人工観葉植物、整然と並ぶ待合用のベンチ、最新情報を映し出すホログラム広告。それらの無機物はそこに存在する。


だが、その空間のどこを見渡しても、血の通った人間どころか、動いている機械の一台すら見当たらなかった。


​「……冗談だろ」


​ジョンの呟きが、異様に静かな空間に溶けてゆく。


いや、静かではないのだ。右側のベンチのあたりからは、老夫婦が旅行の計画を立てている睦まじい会話が聞こえる。


左側の売店からは、レジ袋をガサゴソと弄る音と、「お釣り、ちょうどですね」という店員の愛想のいい声が聞こえる。


​聴覚や嗅覚は、ここが「数千人の人間で賑わうターミナル」だと叫んでいる。しかし視覚だけが、ここが空白であることを突きつけていた。


​ジョンは冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、数歩進んだ。


カフェテラスのテーブルセットが並んでいる。そこにある椅子は動いていないのに、突然、カチャリと引かれたかのように音を立てる。


​誰もいない。


だが、床には椅子の位置を正す耳障りな金属音が響き、見えない新聞がパサリと捲れる音がした。陶器が当たる音も聞こえる。


​「エマ……? おい、エマ。聞こえるか」


​ジョンはデバイスでエマに通信をする。


返ってきたのは、さっきまでと同じ、明るく快活な声だった。


​『どうしたの、ジョン? 今、到着口近くのカフェにいるわよ。あなた、今ゲートを出たところでしょ? あ、見えた! こっちよ、手を振ってるのがわからない?』


​ジョンは視線を彷徨わせた。


到着口のすぐ横のカフェが見える。


やはり、誰もいない。


​ただ、その何もない空間から、不自然に香水の匂いがする。まるで、そこに立っている女性が、激しく手を振っているかのように。


​「……見えない。何もいないんだ、エマ。どうなってる?」


​『何言ってるのよ、ジョン・ライド。冗談はやめて。こんなに大勢の人がいるじゃない。ほら、ぶつかるわよ、気を付けて――』


​その瞬間だった。


ジョンの耳元に、怒号が響いた。


「っどこ見てんだよ!?」


​「うおっ!?」


​思わずよろめく。まるで、向こうから走ってきた男と、肩がぶつけらり、難癖をつけられたみたいだ。


だが、ジョンの目の前を通り過ぎたのは、ただの「風」ですらなかった。


無人。


​『ちょっと! 大丈夫、ジョン? 今の人、危なかったわね。謝りもしないで。……ねえ、早くこっちに来てよ。みんな、あなたを待ってるんだから』


​今、エマの声がひどく怖くなった。


声色が変わったのではない。ただ何かが違う気がした。


​『待ってるんだから……じょじょじょ、じょん……待っ、待っ、待っ……』

​ 

まるでバグだ。ジョンは直感的にそう確信し、恐怖と共に船へ引き返そうと翻った。


​しかし


​背後で、重厚な金属音が鳴り響いた。


ジョンが今通ってきたばかりの、貨物船へと続く到着ゲート。その巨大な防壁シャッターが、何の説明もなく、凄まじい勢いで叩きつけられた。


​ ガシャァァァァァァァン!!


​火花を散らして閉ざされた扉。ジョンは狂ったように扉に拳を叩きつけるが、手応えはない。


完全にロックされていた。


​『……あら、残念。もう帰る時間?』


​耳元から、エマの声がした。


今度は、笑っていなかった。無機質で、平坦で、それでいて――。


​『でも、ダメよ、ジョン・ライド。出港手続きはまだ終わっていないわ。……さあ、中へ。みんな、新しい………が届くのを今か今かと楽しみにしているの』


​賑やかなジャズの音が、突然、ボリュームを上げた。狂ったようなトランペットの旋律が、無人のロビーに鳴り響く。

 

ジョン・ライドは震える手で、ポケットの煙草を握りしめた。


匂いはする。音は聞こえる。体温すら感じる。


だが、そこには、何もない。

この鋼鉄牢獄の中に、ジョンは独り、閉じ込められたのだ。

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