余命一日の通貨

深渡 ケイ

余命一日の通貨


灰色の空は、いつも同じ匂いがした。雨ではなく、紙だ。濡れた契約書の匂い。擦り切れたインク。息をするたび、胸の奥に薄い金属の味が残る。

この街では、寿命が通貨になる。

人は財布に銀貨を入れる代わりに、手首の内側に刻まれた数字を差し出す。指先で触れれば、肌の下で冷たい脈みたいに震えるそれが、残りの時間を示している。ひと月。三年。四十年。長いほど、売れるほど、価値がある。

そして短いほど、安い。

リオの数字は、夜明けの時点で「0日 23:58:12」だった。

二十四時間を切ったら、誰も彼に話しかけなくなる。縁起が悪いからではない。取引にならないからだ。寿命がゼロに近い者は、街の仕組みにとって“もう商品ではない”。

「おはよう、リオ」

声をかけたのは、露店の隅でパンの端を並べている老女だった。彼女だけが、リオを人として扱う。パンは硬く、甘みがない。だが、噛むという行為が「まだ生きている」を証明してくれる。

「今日は……いくら残ってる」

老女が問う。リオは手首を見せず、笑ってみせた。

「たっぷりだよ。昼までには、王城の塔が見えるくらい」

冗談が通じる相手だから言える冗談だった。老女は笑わない。ただ、パンの端を一つ、袋に入れて押しつけた。

「返さなくていい。あんたはもう、返す時間がない」

その言葉が、刃物みたいに刺さる。リオは受け取って、礼を言い、歩き出した。

街の中央には、寿命市場がある。石畳の広場の真ん中に、銀色の柱が立っている。柱には無数の管が絡みつき、そこに人々が手首を当てると、数字が吸い上げられていく。吸い上げられた寿命は、目に見えない霧となって柱の上へ集まり、空へ散っていく。

寿命市場は、街を維持する心臓だと言われていた。集められた寿命は、城の結界に回され、街を包む“安寧”を作る。

その代わりに、街の外はどうなるのか。

誰も知らない。知ろうともしない。

リオは市場の外縁を通り過ぎる。柱に手を当てる人々の顔は、どこか平静だ。痛みがないからだ。寿命を削られる痛みは、最初だけ。慣れれば、ただの数字になる。

数字になった命は、痛まない。

だから、この街では“戦争”も“災厄”も、数字で語られる。今日の結界維持に必要な寿命。明日の予備。月末の余剰。死者は行数になって、署名欄の余白に押し込まれる。

リオは、その余白の側にずっといた。

彼はかつて、城の寿命管理局で働いていた。帳簿を整え、日々の差し引きを計算する係。人々が差し出した寿命が、どこへ流れていくかを知る位置にいた。

だから知ってしまった。

結界は、寿命を食べるだけでは維持できない。

結界が安定するのは、寿命を“燃やす”からだ。燃えた寿命の熱が、街を包む。暖房と光と、安心の感覚を生む。それは甘い。麻薬に似ている。人は結界の中にいると、未来がある気がする。努力すれば報われる気がする。今日が無駄じゃない気がする。

だが、その燃料が切れかけている。

数字を扱う者は、嘘を見抜ける。帳簿の端にある、ほころび。誤差。改ざん。足りない。

結界は、今日の夜で崩壊する。

崩壊したら、街は外の世界にむき出しになる。外の世界には、“寿命狩り”がいる。寿命を匂いで嗅ぎ分け、残った時間を剥ぎ取る獣。結界の外で生きる者などほとんどいない。

街の住人は、気づいていない。いや、気づかされていない。

管理局は、市場の掲示板に「結界は安定」とだけ貼り出し、人々に寿命を売らせ続ける。安心のために。混乱を避けるために。そういう言葉で、真実を包む。

リオはそれに反発して追い出された。内部告発の真似事をした。結果、彼の寿命口座は凍結され、働き口を奪われ、数字は減り続けた。

残ったのは、今日という一日だけだった。

街の裏路地で、リオは黒い外套の男に呼び止められた。顔は半分、仮面で隠れている。寿命仲買人の印だ。

「リオ。君の数字、もうほとんどないらしいな」

「見たなら分かるだろ。売れるものなんて」

「売れる。情報だ。君は管理局にいた。結界の秘密を知っている」

男は、薄い指先で銀貨を弾いた。鈍い音。寿命のない金属は、やけに軽い。

「言え。どこに寿命が流れている」

リオは笑ってみせた。喉が乾いて、笑いが咳に変わる。

「……教えて、どうする」

「売るに決まってる。混乱が起きれば儲かる。逃げる貴族に“外の道案内”を売る。寿命を隠す護符もある。君も買えるぞ。少しだけ延命できる」

男の声は甘い。救いの形をしている。だが、それはリオがいちばん嫌悪する甘さだった。“無駄に死にたくない”という恐怖に付け込む甘さ。

「俺は、延びたところでどうせ——」

「一日あれば、何だってできる」

男はそう言って、リオの手首に視線を落とした。数字が透けて見えているかのように。

「君は後戻りできない。結界は今夜落ちる。君の数字も今夜落ちる。なら、せめて自分のために使え」

自分のために。

その言葉が、リオの胸を奇妙に締めつけた。自分のために生きるという考え方を、彼は長いこと捨てていた。捨てたくて捨てたのではない。捨てざるを得なかった。

だが、今は違う。選べる。今日だけは。

リオは男の銀貨を受け取らなかった。代わりに、歩き出した。足が勝手に、市場の中心へ向かう。柱の方へではない。柱の裏側にある、管理局への裏口へ。

彼の胸の奥で、何かが決まり始めていた。

結界の崩壊を止める方法は、ある。

寿命の“予備”を解放すればいい。管理局は、非常時のために寿命を溜め込んでいる。表の帳簿には載らない、裏の貯蔵。そこを開けば、結界は今夜を越える。少なくとも数日は持つ。

その間に、住人を避難させる計画を立てられる。外の道を整えられる。寿命狩りへの対策も——。

だが、その裏の貯蔵は、錠で閉じられている。鍵は、局長と、寿命炉の管理者の二人しか持っていない。

そして、もっと根本の問題がある。

寿命貯蔵は、すでに空に近い。足りないからこそ、帳簿が歪んだ。足りないからこそ、嘘が必要だった。

残った寿命を全部燃やしても、結界は今日の夜を越えるか怪しい。

それでも唯一、確実な方法がある。

結界の核に、直接寿命を注ぎ込む。

寿命炉に手首を突っ込み、自分の残り時間を“燃料として”差し出す。注ぎ込む寿命が濃いほど、結界は安定する。寿命を注いだ者は、当然そこで終わる。数字はゼロになり、肉体は燃え尽きる。

自分の寿命を燃やして街を救う。

言葉にすれば簡単で、あまりにも俗っぽい“英雄譚”だ。だがリオには英雄の顔がない。残っている寿命は一日もない。注ぎ込んだところで、足しになるのかすら怪しい。管理局の連中にとっては、ただの厄介者が自滅するだけの話だ。

それでも、もう一つだけ。

もし裏の貯蔵を開けられたら、その寿命を注ぎ込める。燃料が足りなければ、足りるだけ集めて入れればいい。つまり、貯蔵を開け、寿命を炉へ流す。

しかしそれをすれば、管理局の嘘が露見する。

パニックが起きる。暴動が起きる。寿命市場の柱に群がり、人々は自分の寿命を取り戻そうとする。取り戻せないと知った瞬間、怒りは刃になる。刃は弱者に向く。秩序は崩れる。

結界が落ちる前に、街が内側から壊れる。

結界を保つために嘘をついた者たちは、きっと言うだろう。

「知らなかった方が幸せだった」

リオは、その言葉を何度も聞いた。聞くたび、胃がねじれた。幸せのために真実を殺す。その優しさは、誰のための優しさなのか。

裏口の警備は、薄い。管理局は外敵より内敵を恐れる。だが、リオを追い出したのも内側だ。彼の顔は知られている。

扉の前で、リオは呼吸を整えた。胸の奥が痛い。寿命が減る時の痛みに似ていた。身体が、自分の終わりを理解している。

扉を開けると、薄暗い廊下が続いていた。壁に貼られた標語が目に入る。

——寿命は預かりもの。街のために。

その綺麗な言葉の裏で、どれだけの人が自分の未来を切り売りしたのか。リオは、唾を飲み込んだ。

廊下を曲がったところで、彼は立ち止まった。

一人の少女が、床に座り込んでいた。背中を壁に預け、膝を抱えている。髪はぼさぼさで、目の下に隈がある。手首に刻まれた数字は、暗闇でも見えた。

「0日 05:——」

五時間。

リオより短い。

少女はリオを見上げて、怯えたように身を縮めた。けれど、逃げなかった。逃げる力がないのか、逃げる理由がないのか。

「ここ、職員しか入れない」

少女の声は、細い。だが芯がある。

「……私、戻れないの。外に出たら、寿命狩りがいるって……」

「どうしてここに」

少女は唇を噛んだ。言うかどうか迷って、それでも吐き出した。

「……母が、寿命を売ったの。私の治療のために。十年ぶん。結界の中なら、薬があるって言われて。ここに来れば助かるって」

リオは、胸の奥が冷えるのを感じた。あまりにも見覚えのある話。管理局が“助ける”と言って人を呼び込み、寿命市場に流す。救いの顔をした狩り。

「でも、薬は高いの。寿命で払うの。私、もう——」

少女は手首を見せた。五時間。あと五時間で、彼女は“支払い不能”になる。

「職員に頼んだ。泣いた。怒鳴った。……でも、誰も見てくれない。数字しか見ない」

彼女は笑った。自嘲の笑いだ。涙は出ない。泣く寿命も惜しいとでも言うように。

リオは、その少女の名前を聞かなかった。聞いたら、重くなる。重くなることを避けたい自分が、まだいる。自分の欠点が、喉元で蠢く。

「君は……ここで、何をしようとしてるの」

少女が問い返す。鋭い。五時間しかない目だ。生きることが、嘘を許さない目。

リオは答えなかった。答えた瞬間、道が決まる。決まれば、引き返せない。

だが、もう引き返せないところまで来ている。

「結界が、今夜落ちる」

少女の顔が固まった。

「嘘……」

「嘘じゃない。足りないんだ。寿命が。管理局は隠してる」

少女は息を呑んで、唇を震わせた。恐怖より先に、怒りが浮かんだ。正確な怒りだ。数字の裏側を知った者の怒り。

「じゃあ、母が売った十年は……」

「結界の燃料になった」

言ってしまった。リオは自分の舌を呪った。だが、嘘は言えなかった。嘘を言った瞬間、自分が管理局と同じになる。

少女は、膝を抱える腕に力を込めた。骨が浮く。彼女の細さが、現実だった。

「助かるって……言われたのに」

声が掠れる。泣き声ではない。喉が裂ける音だ。

リオは、胸の奥が焼けるように痛くなった。寿命炉の熱を先に感じたみたいに。ここで彼は、選択肢を突きつけられる。

街を救うために動く。それが第一だ。少女を置いて進めばいい。五時間しかない命を抱えて走る余裕はない。

だが、彼が救おうとしている“街”とは、この少女のような誰かの集まりではないのか。

少女を置いて、街を救う。

街を救っても、少女は救われない。

それでも街を救うべきなのか。

リオは、結界の中で何度も“合理”を計算してきた。合理とは、少数を切り捨て多数を救うことだ。帳簿はそう書いてある。帳簿は正しい。正しいから残酷だ。

「……一緒に来るか」

言ってしまった。リオ自身が驚くほど、自然に出た言葉だった。

少女は目を見開いた。

「私、足手まといだよ」

「足手まといでもいい。……俺も、そうだから」

負け犬の告白だ。リオは、胸の中で何かがほどけるのを感じた。自分のために生きろ、と仲買人は言った。だがリオが恐れていたのは、自分の死ではない。自分の死が“無駄”になることだ。

無駄に死ぬくらいなら、誰かの目に残って死にたい。

それは利己か、利他か。分からない。だが、分からないままでも、進むしかない。

二人は立ち上がり、廊下を走った。管理局の奥へ。寿命炉へ。途中、職員に見つかった。怒鳴られた。止められた。

「お前、まだ生きてたのか!」

「出て行け! 何をする気だ!」

リオは答えず、走った。答えたら、引き返せない言葉が増えるからだ。

扉の向こうに、寿命炉がある。そこは熱い。空気が乾いて、喉が焼ける。扉の前に、二人の警備が立っていた。腕には長い槍。結界より先に、ここが街の心臓だと知っている者の目。

リオは、足を止めた。頭が回る。寿命が減ると、思考も削れる。時間がない。選択肢がない。

少女が、リオの袖を引いた。

「……私が、囮になる」

「だめだ」

「だめじゃない。私、五時間しかない。あなたは、二十四時間ある。あなたが動けば、街は……」

少女は、言い切れなかった。街が救われる、と言えば、自分が救われないことを認めるからだ。

リオは、少女の手を握った。小さく、冷たい。五時間の手。

「俺の二十四時間は、もう使い道がない。……君の五時間は、まだある。君は今日、何がしたい」

少女は目を揺らした。問いが、あまりにも残酷だった。何がしたい、と聞かれて答えられるほど、彼女は未来を持っていない。

だが、少女は口を開いた。

「……母に、会いたい」

その一言で、リオの中の何かが決まった。テーマは言葉にならないまま、胸の奥で響いた。寿命を売った者の願い。買われた者の願い。奪われた者の願い。

管理局の外にいる母親を、ここへ呼ぶ時間はない。だが、会う方法が一つある。

寿命炉を開ければ、街中に警報が鳴る。結界の核の危機。管理局は住人を集める。恐怖と混乱で人が流れる。そこに母親も来る可能性がある。

その混乱は、街を壊すかもしれない。

でも、今夜結界が落ちれば、もっと壊れる。

リオは、息を吸った。扉の脇の壁に、非常用の赤いレバーがある。寿命炉を強制解放するレバー。乱用を防ぐため、封印がかかっている。封印を破ると、即座に罪になる。だが罪などどうでもいい。

リオはレバーに手をかけた。警備が槍を構える。

「やめろ! それを引けば——!」

引けば、世界が変わる。

それは、正しいのか。

リオは少女を見た。少女は泣いていない。泣く代わりに、目で訴えていた。会いたい。今しかない。五時間しかない。

リオはレバーを引いた。

——街全体に、低い鐘の音が鳴り響いた。

結界の光が一瞬、揺らいだ。空気がざわつく。人々の安心が、薄皮みたいに剥がれていく感覚。市場の柱が、うなり声を上げる。寿命を吸い上げていた管が逆流し、霧が乱れる。

警備がリオに飛びかかった。槍の柄が腹に入る。息が止まる。だがリオは倒れなかった。倒れれば、すべてが終わる。

少女が、叫んだ。

「やめて! お願い! もう、奪わないで!」

その声は、警備の腕を一瞬止めた。ほんの一瞬。だが、その一瞬が、リオには十分だった。

扉が解放され、熱が噴き出した。寿命炉の中は、光の渦だった。燃える時間の匂いがする。甘く、苦い。人の生涯が焦げる匂い。

リオは立ち上がり、炉へ向かう。警備が追う。背中に槍の先が掠る。皮膚が裂ける。だが痛みは遠い。数字が減る音が、頭の中で鳴る。

炉の縁に手をかけた瞬間、リオは理解した。

ここで寿命を注げば、結界は延命する。だが、今の街は混乱の入り口に立っている。延命したところで、住人は互いの寿命を奪い合うかもしれない。結界が守るのは外敵だけではない。人間の中の獣も、結界が抑えていたのかもしれない。

結界は、安心の麻薬だった。

麻薬が切れる前に、正気に戻す必要がある。

その正気とは何だ。真実か。痛みか。後悔か。

リオは炉の向こうに、管理局長の顔を見た。局長は扉の外から叫んでいる。必死だ。街を守るためか、自分の地位を守るためか。分からない。たぶん両方だ。

「やめろ! お前が死んでも足りない! 街が壊れる! 秩序が——!」

秩序。

リオは笑いそうになった。秩序は誰のための秩序だった? 少女の母の十年を燃やす秩序? 少女の五時間を見捨てる秩序?

リオは振り返り、少女を見た。少女は炉の熱に顔を歪めながら、それでも目を逸らさない。五時間の目で、リオを見ている。

「……母に、会えるかな」

少女が呟いた。小さな声。だが、世界を動かすほどの重さ。

リオは答えなかった。答えたら、それは約束になる。約束は守れないかもしれない。守れない約束は、嘘だ。

リオは、代わりに言った。

「君の名前を教えて」

少女は一瞬、戸惑って、口を開いた。

「……ミナ」

ミナ。短い名前。呼べば、すぐに届く名前。

リオはその名前を胸に刻んだ。自分が消えるなら、せめて何かを持って消えたい。無駄に死にたくない。無駄な死を、誰かの目に残したい。

その欲は、恥ずかしいほど人間的だった。

外から、ざわめきが押し寄せてきた。管理局の鐘を聞きつけた住人たちが、集まり始めている。怒号。泣き声。叫び。寿命市場の柱に群がる音。

世界が壊れる音がする。

リオは炉の縁に、手首を押し当てた。

熱が皮膚を舐めた瞬間、数字が跳ねた。二十三時間が、砂のように崩れていく感覚。痛みは、最初は鋭く、すぐに麻痺に変わった。寿命を失う痛みは、慣れる。人は何にでも慣れる。慣れることが、街を作った。

リオは、慣れないまま燃やしたかった。

「リオ! やめろ!」

局長の声が遠い。警備の槍がリオの肩を引く。だが炉が吸い込む。寿命炉は、リオの残り時間を貪欲に食べる。食べて、光に変える。

空の結界が、わずかに明るくなった。揺らぎが収まる。街を包む安心が、再び薄く戻ってくる。

だが同時に、街の外から冷たい風が吹き込んだ。結界が完全に安定したわけではない。延命だ。時間稼ぎだ。

稼げる時間は、せいぜい数時間。

それでも、ミナの五時間のために、街の数時間のために。

リオの胸の中で、何かが静かに沈んでいった。自分の命が燃える音。自分の存在が薄くなる音。

意識が遠のく直前、リオは聞いた。

「ミナ!」

誰かが少女の名を叫ぶ声。

女の声。掠れて、必死で、壊れそうな声。

ミナが振り向いた。目が見開かれる。口が震える。

「……お母、さん」

母親が廊下の向こうから駆けてくる。警備が止める。母親は突き飛ばして進む。手首の数字が見えた。短い。十年を売った者の手首は、軽い。軽すぎる。

母親はミナを抱きしめた。抱きしめる腕が震えている。言葉が出ない。言葉より先に、抱きしめることだけが必要だった。

ミナは、泣いた。やっと泣いた。五時間の涙が、今、溢れる。

リオは、その光景を見ながら、笑った。口角が上がったのか、ただ痙攣したのか分からない。

“無駄に死にたくない”という欲が、少しだけ満たされた気がした。

だが、すぐに別の痛みが来た。

母親が、炉の方を見たのだ。

燃える光の中で、リオが手首を押し当てている。自分が売った十年が、ここへ流れたと知った顔。怒りと悲しみと、理解の入り混じった顔。

母親は叫んだ。

「やめて! お願い、やめて! それは私の——!」

私の十年。私の未来。私の罪。私の選択。

彼女の叫びは、リオの胸を裂いた。救いのはずの光景が、別の地獄を連れてくる。これがジレンマだ。誰かを救うと、誰かが傷つく。誰かを守ると、誰かの選択が暴かれる。

リオは言いたかった。あなたの十年は無駄じゃなかった、と。ミナが今ここにいるのは、その十年のおかげだ、と。

でも、それは残酷な慰めになる。十年を売った者に向かって「良かった」と言うのは、刃だ。本人が決めることだ。

リオは何も言えなかった。ただ、炉に吸い込まれていく。

結界がまた一段、明るくなった。街のざわめきが、少しだけ沈む。混乱が、完全には止まらない。止まらないまま、時間だけが稼がれる。数時間。せいぜい数時間。

数時間あれば、人は何だってできる。

仲買人の言葉が、今になって理解できた。自分のために、ではない。誰かが“無駄に死なない”ために。

リオの視界の端で、寿命市場の柱が揺れた。管が悲鳴を上げ、霧が渦を巻く。街はまだ危うい。だが、誰かが今夜を越えられるかもしれない。越えた先で、真実を知って、生き方を変えられるかもしれない。

それは保証のない希望だ。だが保証のない希望こそ、人が掴むものだ。

リオの手首の数字は、ゼロに近づいた。最後の秒が、砂粒のように落ちる。

その瞬間、リオは思った。

自分は生きたかったのか。

それとも、無駄に死にたくなかっただけなのか。

答えは出ない。出ないまま、熱が全てを包む。

——光が、街の隅々まで満ちた。

そして、リオは消えた。

翌朝、灰色の空は変わらず、湿った紙の匂いも変わらなかった。だが、寿命市場の掲示板には、新しい紙が貼られていた。

「本日、結界は不安定。各自、避難の準備を」

初めて、真実に近い言葉が書かれていた。

誰が貼ったのか、誰も知らない。ただ、管理局の廊下には、ひとつの小さな落書きが残っていた。

煤けた壁に、細い字で。

——リオ。

その名前を、ミナが指でなぞった。母の手が、その上に重なる。二人の指が、同じ名前をなぞる。

寿命は燃えても、名前は残ることがある。

無駄に死なないために、人は、誰かの心に居場所を作る。

外の世界は、まだ冷たい。寿命狩りもいる。結界も永遠ではない。街はこれから苦しくなる。

それでも、ミナは母の手を握って、前を見た。

五時間しかなかった少女の目に、初めて“その先”が映っていた。


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