『グレーゾーンの境界線』

あれから、十年の月日が流れた。


かつて結が喘いでいた六本木の喧騒も、神崎のいた「寮」の黴臭い空気も、今では遠い前世の記憶のようだ。けれど、結の人生から「境界線」が消えることはなかった。


彼女の部屋には、コンビニの半額弁当の空き容器と、書き殴られたノート、そして古びたノートパソコンが積み上がっている。


「……また、ダメだった」


結はカサカサに乾いた指先で、スマホの画面をなぞった。 介護助手の仕事は、おむつ交換の手順を一つ飛ばしただけで怒鳴られ、パニックになって三日で辞めた。保険会社の営業は、規約の小さな文字が歪んで見え、漢字がゲシュタルト崩壊を起こして、一軒も契約を取れずに終わった。コンビニのバイトは、レジの音と客の話し声が混ざり合って脳を刺し、パニックでレジ袋を破いてクビになった。


どれも、続かない。 世の中の「普通」というルールが、結の脳にはどうしてもインストールできない。


けれど、たった一つ。 この十年間、一瞬たりとも止まらなかったものがある。


「書かなきゃ。書かないと、息が止まっちゃう」


結はカタカタと震える手でキーボードを叩く。 発達障害、識字障害。文字を読むことは苦痛なのに、自分の中から溢れ出す感情を物語という「形」に変えるときだけ、彼女は自由になれた。 この十年で生み出した作品は、一千七百を超えた。それは、彼女が生き延びるために吐き出した、血であり、呼吸そのものだった。


「結さん、開けて。結さん!」


ドアを叩く音に、結はビクッと肩を震わせた。凛の声だ。 鍵を開けると、凛が血相を変えて飛び込んできた。


「結さん、メール見た? サイトの運営から何度も警告が来てたでしょ? 規約違反だって。あなたの作品、全部削除されちゃうわよ!」


結は呆然と凛を見つめた。 「……メール? 文字がいっぱい並んでるやつ……見てない。読めないの。あの中には、私の十年の全部が入ってるのに」


「著作権の引用ルールや、過激な描写のガイドライン……何度も注意されてたみたい。運営さんは『対話が不可能』だと判断したって。今、アカウントが停止されたわ」


結は膝から崩れ落ちた。 部屋の中に充満する、埃の匂いと、飲みかけのペットボトルの腐敗臭。 画面を見ると、そこには『退会処理が完了しました』という無機質な文字。


「……消えた。私の、一千七百個の命が。私が、ここで生きてるって証拠が、全部」


結は声を上げずに泣いた。涙がキーボードの隙間に落ちていく。 介護も、保険も、コンビニも、そして唯一の居場所だった物語の海からも、彼女は「規約違反」として追い出された。


「どうして……どうして私は、みんなができることができないの? メールの文字を読むだけで、頭が割れそうになる。並ぶことも、待つことも、ルールを守ることも、どうしてこんなに難しいの?」


結は自分の頭を拳で叩いた。 「神崎さんのところにいた時の方が、まだ楽だったかもしれない。だってあそこには『稼ぐ』っていう、たった一つのルールしかなかったから。今の自由な世界は、ルールが多すぎて、私みたいな人間には息ができない……!」


凛は、震える結を後ろから抱きしめた。十年前、新宿の路上で抱きしめた時よりも、結の体は薄く、脆くなっていた。


「結さん。世界はあなたを拒絶しているんじゃない。ただ、あなたの言葉を受け止める器が、まだこの世界には足りないだけよ」


「でも、私にはこれしかできないの……!」 結は凛の腕を振り切り、机に積まれたノートを掴んだ。 「おむつも替えられない。保険も売れない。レジも打てない。文字もまともに読めない。でも、私は書ける。私の中にいる、あの時助けてくれなかった神様や、あの時泣いていた自分や、佐藤さんの背中を……書くことだけは、誰にも止められないの!」


彼女は、電源の落ちたノートパソコンの横に、新しいノートを開いた。 鉛筆を握る指には、ペンだこが固くタコになっている。


「規約違反だって言われても、居場所がないって言われても、私は書き続ける。だって、私にはこれしかできないんだもの。これが、私のたった一つの、生きている証明なんだもの」


窓の外では、十年前と同じように、都会の夜が煌々と輝いている。 佐藤はもう、一線を退いたかもしれない。神崎はどこかでまた別の顔をしているかもしれない。


結は、新しいページの真っ白な空間に、最初の一文字を書き込んだ。 歪んだ、拙い文字。けれどそこには、どんな法律の条文よりも、どんな運営の規約よりも、強烈な「生」の熱が宿っていた。


書き出しの一行目。 『私は、まだここにいる。』


彼女の指先が動くたびに、部屋の中に静かな鉛筆の削れる音が響く。 それは、世界という巨大なシステムに馴染めない女が、たった一人で奏でる、反逆の音楽だった。


「見てて、凛さん。私、何度でも書くから」


結の瞳には、かつての絶望とは違う、狂気にも似た光が宿っていた。 一千七百の物語が消えても、彼女の心臓が打つたびに、新しい物語が生まれる。


彼女は笑った。 その笑顔は、かつて夜の街で浮べていた作り笑いではなく、自分の足で地獄の底を歩き続ける者だけが持つ、凄絶な美しさに満ちていた。


『グレーゾーンの境界線』 ――完――


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『グレーゾーンの境界線 ー売春防止法第3条ー』 春秋花壇 @mai5000jp

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