むし下し
内之ミケ
むし下し
天神さまにお参りにいくからねぇ。母はそう言った。困り果てた表情で、彼の額を温かい手のひらで包み込む。
どうして、と思ったけれど、母の手があんまり優しくて、彼は思わず頷いてしまったのだ。「うん、いく」と。
『天神さま』まで三日と少し。宿はどれも古く、彼はひたりと母に寄り添って眠った。最後の宿は伯父の家を頼った。あくる朝、見送りに立ち続ける伯父家族の姿を、彼はなんども振り返った。
母に手を引かれ、彼はこの旅路を歩き通している。秋の影の尾が撫でる様につま先を冷やしていった。
「坊、ずっと歩いていて、えらいねぇ」
母はしきりにそう声をかけてきた。振り仰いで見たその顔に、疲れと焦りが滲んでいる。彼は「うん」と頷いた。
「お利口にしていて偉いねぇ」
つないだ手を労わるように揺らす母の焦りの理由を、彼は分かっていた。
彼のおなかの中には、とてもつよい『カンの虫』が住み着いている。それが暴れ出さないかと、母は始終気を揉んでいるのだ。
些細なことで泣きわめき、ぐらつき始めた歯がかゆい、と癇癪をおこす。暑い寒いで地団駄を踏んで、どうにもならないことは分かっているのに、泣いて、騒いでそのくせ、気が済んだらケロリとしている。
大人たちは「疳の虫のつよい子だ」と呆れて言う。だから彼は、よく分からないなりにすべて「カンの虫」のせいなのだと思っていた。
そして今も母は、彼の様子を窺いながら、道端に咲く花や、横切った小さなうさぎの話などを途切れることなく続けている。
彼も、もう、今か今かと「カンの虫」が唸り声をあげているのを感じていた。母を困らせたくない、そう思ってため息をつく。そうしてふと顔をあげた時、彼は思わず息をのんだ。
「……ねえ、おっかさん。あれが天神さまなの?」
視界に入った山の麓から、まっすぐに伸びる赤い帯。秋空に高く頂点は見上げる程の大山の、黄に橙にと色を染めたそのなかに、錦のように敷かれたそれは、幾重にも連なる鳥居であった。
彼は、その美しさに目を奪われた。「カンの虫」の唸り声がすっと溶けて霧散する。
「よくわかったね。坊、天辺まで登れるかい?神社の前にはお茶屋があるよ。何か温かいものでも飲もうねぇ」
ここに来て、はじめて心底嬉しそうな母の声を聞いた気がした。あれが天神さま。この「カンの虫」を鎮めてくださるのだと言い聞かせられた、ありがたいお山だ。彼は元気よく頷いた。
そうして意気揚々と鳥居をくぐり、ここまでの疲労など忘れたように階段を上り始めたのは良かったが、その中腹に差し掛かって、母が突然足を止めた。眉間に強くしわを寄せ、ふくらはぎを掴んでいる。
「どうしたの」
彼は母の背にすがるようにして問いかけた。母は小さく首を振っている。重ねて、足が痛むの?と聞けば、「なんともないよ」と応えがあったが、母はいっこうに立ち上がろうとはしない。できないのだ、と悟った時、彼は階段の天辺を睨むように見上げた。最後の鳥居にまで、もうあんなに夕日が近い。引き返すより、登りきった方が早いほどの距離だった。たったあれだけの距離。いつでも側にいた母から離れるのはいかにも心細い。しかし、登り切れば、神主か茶屋の主人か、少なくとも人がいるだろうと思った。
「待ってて」
母の背を叩いて、彼は立ち上がる。母が頷いたのか、引き留めたのか、分からないままに駆けだした。
それからはもう、夢中で階段を駆け上った。こんなにも肺が痛むのは初めてのことだ。友だちと鬼ごっこをした時だって、これほど息が上がることはなかった。
もう数段、めまいのする中で人の気配をみつける。
彼は逸る呼吸を抑えて声を張り上げようとした。その時不意に、足が空を切った感触がして視界が一変する。咄嗟に両手をついたが、顎を強かに打った。口の中がジン、と痛み、両ひざが熱くなる。転んだ、と思ったときには、目に涙が浮かんでいた。大声で泣き出す、その瞬間。
「わぁん」
大きく開いた喉に何か転がり込む。彼は反射的にそれを手のひらに吐き出した。
それは小さく白いもので、彼の涙はぴたりと止まってしまった。「カンの虫だ」呆然とそれを見つめていると、彼の声を聞き付けて人が周囲に集まってくる。「どうした」などと口々に声をかけながら、彼を階段に座らせた。
「おまえさん、一人でこの階段を登って来たのかい」
老爺の問いに、彼ははっとして答えた。
「うん、ちがう、おっかさんが」
心得たように老爺は頷き、周囲に声をかけて、母のもとへと向かわせた。
「よく辛抱したなぁ、長かったろう。ここはセンダンの参道だから」
言いながら、老爺は温かい手で彼の握りしめた手のひらを開かせる。そこにある小さな乳歯を丁寧に懐紙に包んで彼に持たせた。
彼の目からポロリと涙がこぼれたが、カンの虫の声は聞こえなかった。
むし下し 内之ミケ @m-uchino
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