ブルーインパルスが空を舞う下で、私は吐瀉物にまみれていた――地方病院ER、コロナ禍の記録

お月見ましろ

1. 始まりは、静かなパニックだった



 今、マスクを通さずに吸い込む空気は、驚くほど軽くて頼りない。

 

 臨床を離れた私の日常には、かつての喧騒も、防護服の肌に張り付くような熱気もない。けれど、ふとした瞬間に、あの「地獄」の匂いが鼻腔をかすめることがある。

 


 2020年初春、ダイヤモンド・プリンセス号での集団感染が、各種メディアで報道されていた頃。当時、私が勤めていたのは、地方都市の三次救急病院だった。

 

 県内で最初の感染者が確認されたというニュースが流れただけで、小さな田舎町の空気は一変した。狭いコミュニティゆえに、誰がどこで発症したかという情報は、ウイルスよりも速く、そして残酷に拡散された。


「あそこの家だ」

 

 特定された家には、執拗に生卵がぶつけられた。割れた殻から漏れ出した白身が、初春の陽に焼かれ、壁を伝ってどろりと腐敗していく。鼻を突く硫黄のような臭いは、町に蔓延する「不浄なものへの拒絶」そのものだった。


 だが、世間はこの残酷な皮肉を知らない。

 

 その家の人々は、その時、たった一人の家族をコロナで亡くし、静まり返った部屋で深い喪失の淵にいたのだ。本来であれば、隣人に肩を抱かれ、共に涙を流すべき被害者であるはずの人々。それなのに、彼らは弔いの時間さえ奪われ、家の中で息を潜め、壁を叩きつける卵の音に震えていた。

 

 ウイルスに命を奪われ、隣人に心を殺される。

 病院の外に広がるその光景は、ウイルスそのものよりも、よほど得体の知れない「悪意」という名の病に侵されているように見えた。


 

 病院の中も、平時ではありえない光景に支配されていた。物資は枯渇し、命を守るはずのサージカルマスクは「三日間使い回し」を命じられた。油性ペンで自分の名前を書いたマスク。


 三日目ともなると、自分の吐息の湿り気と、わずかな唾液の匂いが内側にこびりつき、清潔とは程遠い布きれを顔に縛り付けている惨めさを、私は今も忘れることができない。


 


 そんな殺伐とした日々の中で、唯一、心が浮き立つような出来事もあった。


 某アイドル事務所から病院に届いた、支援物資とポスターだ。色鮮やかな色彩と、眩しいほどの笑顔が並ぶその紙面。


 壁に貼られたそれを見上げながら、「ああ、嬉しいな」と素直に喜んでいる自分がいた。まだどこか能天気で、エンターテインメントの光に救いを見出せるほどの余裕があった、あどけない希望の季節。


 けれど、あの時の私はまだ信じていた。この不自由は、せいぜい数ヶ月の辛抱だろうと。


 彼らが送ってくれたエールを受け取り、桜が散り、夏が来る頃には、この忌々しい布を捨てて笑い合っているはずだと、疑いもしなかったのだ。


 まさか、あの色鮮やかなポスターが色褪せていくよりもずっと長く、この「三日の使い回し」の延長線上に、数年間にも及ぶ長い、あまりに長い戦いが待ち受けているとは夢にも思わなかった。


 もしあの日の私に、これから続く時間の正体を教える者がいたとしたら。


 私は果たして、翌朝も同じように、あの重い病院の門をくぐることができただろうか。



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