恋愛わからねえ、情けねえ
両目洞窟人間
恋愛わからねえ、情けねえ
「あ、まじですか」
彩加さんは思わず言う。コンビニバイト先の竹原先輩と水面さんが付き合ってた。
というか、付き合ってないんだけども、そういう関係になってて、そういうのをどうしようもなく言えば肉体関係で、でもその結果、水面さんが辞めちゃって、それを知らずに店長に「あ、水面さん辞めたんですね」って聞いたら、上記のエピソードトークをかまされて「あ、まじですか」と思わず言う。
「まーよくあることなんだよなー。君らみたいな若い子はなんていうかさ、早いじゃない、行動が」
彩加さんはわかってない。21歳女性として若者代表みたいな顔をして行動が早いことを聞かされてるけども全然ピンときてない。
けども「あ、はい」と真っ黒な目をして頷いてみる。
「付き合う付き合わないとかさ、やっちゃうやっちゃわないとか、別にいいんだけども、それで辞められてシフト空いちゃうとねー」
店長は廃棄になった焼きそばパンを食べながら言う。
彩加さんにとってコンビニのバックヤードは灰色って感じだ。
壁の色が灰色だし、灰色のロッカーがあるからってのもあるけども、それ以上に何か漂う空気が灰色って感じがする。
灰色の中で店長は廃棄の焼きそばパンを食べていて、彩加さんは同僚の色恋話を聞かされていた。早く帰りたかった。気がついたら癖で三つ編みをいじっていた。
店長はロッカーに貼ってあるシフト表を外して、机に置く。
「ってわけで、シフト空いちゃったからさ、明日の昼から晩って入れる?ちょい長いけどもさ」
「あ、はい、はいれます、ありがとうございます」と彩加さんは真っ黒な目で思わず言っちゃうけども、本当は全然ありがとうじゃない。嫌だ。働きたくない。
週二〜週三のアルバイトで瀕死状態だから、できることなら働きたくないけども、咄嗟に答えてしまう。ありがとうございますまで言ってしまう。
何も考えず脊髄反射で答えてしまうの良くないって彩加さんは思うけども、それをどうしたらいいかわかってない。わかってないから「あ、はい」と答えてしまう。なんなら言葉の始まりに言ってしまう「あ、」も彩加さんは嫌だと思っていたけども、これの直し方もわからない。
わからないで言えば、彩加さんは恋愛がわからなかった。
バイトからの帰り道、きーきーきーと唸る赤い自転車を漕ぎながら、恋愛わからねえ、情けねえと彩加さんは唸る。
さっきの竹原先輩と水面さんのことなんて特にわからない。
行動が早いってなんだ。
行動が早いと聞くと彩加さんは脳裏には格闘技が思い浮かんだ。インスタグラムのリールで流れてきたストレートを打つかと思わせておいて、体を一回転させて目にも見えないスピードで裏拳を打つ総合格闘技のやつ。
竹原先輩も水面さんも行動が早かったのか。
というわけで水面さんの頭に裏拳に打っている竹原先輩が浮かぶ。わ、最悪だ。暴力はだめですよ。
けれども、なんやかんやあっただけで、暴力はなかったはずだ。そうだと思いたいですね。
しかし何をどうすれば、二人が思い合い、恋愛という状態になるのか彩加さんにはわからなかった。
しかし、どうやらみんなには恋愛ってものがわかってるらしい。
何を…どうしたら?
彩加さんは困惑顔で坂を自転車ですくだっていく。
きーきーきーきー!と赤い自転車が悲鳴をあげている。
その上、竹原先輩と水面さんの場合は話がより変わってくる。
恋愛というか二人は肉体関係だったって話に彩加さんは混乱と混迷。
恋愛を経ずに肉体関係。
ロバート秋山の順序の歌を思い出して「交際して性交渉それとも性交渉して交際……」と信号待ちをしながら彩加さんはぼんやり歌う。
実家の団地に帰ると、母がテレビで恋愛リアリティショーを見ていた。
母が作ってくれていた麻婆豆腐をレンジで温め、食べながら、テレビをちらっと見る。
多分、10代の男女がお互いを見つめながら喋っていた。
「ポニーテールの子とかどうですか」ポニーテールの女の子が男の子に聞くと「ポニーテール結構好きなんだよね〜」って答える。
女の子は「え〜」と笑ってる。
なんだこのやり取りは。
これがもしかして駆け引きってやつなのか。
お互い好き同士っぽい雰囲気を醸し出しつつ、その気持ちの本質は伝えずに、でもその気持ちを小出しにしては、たわむれる行為を駆け引きって言うのか。
わからなかった。
恋愛がわからないんだから、駆け引きなんて尚更だった。
駆け引きと聞くと、彩加さんの脳裏にはやはり格闘技が思い浮かんだ。
数発パンチやキックを繰り出した後に、お互いの間合いを測って、次に来る動作を読み合ってる時間を思っていた。
その格闘技は八角形(オクタゴン)のフェンスで囲まれたリングで行われている。ルールは金的と目潰し以外のなんでもありの総合格闘技。全身にタトゥー入った選手たちがリングを血に染めて戦っている。
もしかして、恋愛ってそういうものなのか。
もしかして、オクタゴンの中で戦い合う総合格闘技なのか。
そんな総合格闘技を10代がやってるのか。いや、10代だけじゃなく、人類みなやっているのか。みんなそんなことできるのか。
彩加さんは跳び箱を三段も飛べなかったような人間だったから総合格闘技に参加できていないのかと思う。
「彩加。この踏み切り板をばーんと踏んで、手をついたら、飛べるんだよ」体育の先生がそう教えてくれたけども彩加さんは飛べなかった。
わからない。
なぜ人類皆全員が八角形のリングの中、総合格闘技で戦えているのか。
本当にわからない。
テレビの中で、10代の男女は結局思いは伝えない。それを見ているスタジオの芸能人たちが余計にやきもきしているし、母も「あーもーじれったい」と言っている。
水面さんの空けたシフトに入るために、きーきーきーと唸る赤い自転車を漕いでコンビニへ彩加さんは行く。
到着すると、コンビニの端にある駐輪場に自転車を止めて、急いでコンビニに入って灰色バックヤードへ行った。
バックヤードには竹原先輩がいた。今日の昼シフトは竹原先輩とだ。
「あ、お疲れ様です」彩加さんは言う。
竹原先輩はスマホをいじっていて、ちらっと彩加さんを見る。
「なにそのジャージ?」
「あ、ジャージです」彩加さんはバイト先だしということで高校ジャージを着ていた。
「ジャージは見たらわかるって」
「あ、すいません」
「それ高校の?」
「あ、はい。高校のです」
彩加さんがそう言うと竹原先輩は鼻で笑った。
彩加さんは、うわ、嫌だ、鼻で笑われたと思った。そんな高校ジャージを着てきたのがダメだったのかとも思った。
彩加さんはカーテンを閉めてジャージを脱いで、Tシャツになって、その上から制服に羽織る。
竹原先輩とシフトが一緒だといつもの仕事よりも緊張した。店長や水面さんとシフト入ってる時も断然緊張した。
なぜなら竹原先輩は彩加さんにいつもイライラしているように思えたからだ。
その感情が伝わってくると彩加さんは脳が締め付けられるような気持ち悪い感覚があった。
竹原先輩を苛立たせたくないけども、どうしたら苛立たないかわからなかった。
どうやら自分の存在全てが竹原先輩に嫌われている。
バイト辞めたいなって、彩加さんは始業5分前に思った。
コンビニの仕事は沢山あるから、結構慌ただしい。
彩加さんはずっとあわあわしている。
何をしてもあわあわしてるから、いつも店長から「焦らなくていいよ」と言われ続けている。そう言われ続けて一年が経った。
今日もあわあわしながら品出しをしてしまう。竹原先輩から「焦んなくていいから」と言われる。その言葉のあとにため息が聞こえた。
そのため息に、彩加さんはよりあわあわした。というかパニックに近い。
いや、そもそも彩加さんの仕事中のデフォルトはパニック状態なのだ。
彩加さんは前に潜水艦が出てくる映画を見た時に、これだと思ったことがあった。
潜水艦の近くで魚雷が爆発して、潜水艦の内部であちこちから水が浸水し、ボイラーから煙が噴き上げ、船員が右往左往しながら「ファッキンハリーアップ!!!」と叫びながら修理しているシーンを見たのだけども、彩加さんの仕事中の脳内はいつもこんな感じだった。
彩加さんはいつも水があちこちから浸水していて、ボイラーから煙が噴き上げて、船員が叫びあっている。
お菓子の品出しが終わり少し仕事が落ち着いて、レジに立つ。
隣には竹原先輩がいるけども、当然のように会話はない。
私と竹原先輩は喋ることない。
けれども水面さんとは色々あったんだなと思った。
相性が良かったのだろう。
その仕事上の相性の良さから、肉体関係までいくのって、どういう道筋なんだ。たまにGoogleマップで長距離の目的地を徒歩のボタンを押してしまって、エグいルートが表示されることあるけども、そういうことなのか。
そんなことを考えていると、また癖で三つ編みをいじっていた。店長からは「あんまりお客様の前で髪はいじらないでね〜」と言われていた。
それを思い出して即座にいじるのを辞めたけども、なんとなく竹原先輩に睨まれているような気がした。竹原先輩は私が三つ編みいじってるの気がついて腹が立ってるのかもしれないと彩加さんは思った。
不安になった。
潜水艦の周りに敵船が集まってきているのをレーダーで見ている時ってこんな気持ちなのかな。
レジに不機嫌そうなサラリーマンがやってきた。
低く小さな声で「赤マル1つ」と言われた時、彩加さんは最初何を言われてるかわからなくて、5秒ほど静止をして「あ、赤のマルボロ一つか」と思って壁にならぶタバコからマルボロを探そうとすると、その膨大なタバコの壁で立ちすくんでしまった。
「225番!!」とサラリーマンが叫ぶ。
彩加さんの脳内の潜水艦は爆発。
「ファッキンハリーアップ!!!」船員が叫ぶ。
けれども、彩加さんの脳内の浸水が激しくボイラーは爆発寸前。
そしたら、竹原先輩がタバコの壁からカシャっと赤マルを取って「こちらでよろしいでしょうか」とレジに持っていき会計を済ませ、サラリーマンが立ち去る。
竹原先輩が彩加さんを見る。その目が何か冷たいものに見えて、それがとても怖くて「オゥ…….ファッキンシット……」と船員は呟き、彩加さんの潜水艦は沈没。
頭の中の潜水艦が沈没するような日が一日に何度かある。バイト入ってる日も、入ってない日も。生きてるだけで沈没しまくってる。
その度に彩加さんは「情けねえ」と思う。
「情けない」じゃ情念や後悔が出ないから「情けねえ」と思う。
「情けねえ」と思いながらも、せめてバイトだとこの「情けねえ」時間がお金を生み出していると思ったら、少しは頑張れる気がした。
いや、そう思おうと思った。
「オカネノタメニガンバルゾ!オー!!」と心の中のミニ彩加さんが、小さいが故の高い声で叫ぶ。
そういうモードをインストールしているフリをした。そうしないと「情けねえ」に潰れそうになっていたからだった。
でも実際には潰れていた。
バイト辞めたい。今日何度目かの気持ちだった。
けれども自分が他にどんなバイトできるか全くわからなかった。
だからとりあえず「オカネノタメニガンバルゾー!オー!」と心の中のミニ彩加さんが、小さいが故の高い声で叫んでいる。叫ばせている。
エイエイオー!!
それはそうとして、さっきの彩加さんを怒鳴った不機嫌なサラリーマンはまだ視界の端っこにちらついている。というか、コンビニの外の壁沿いに置かれた灰皿でタバコを吸っているのだった。その姿がレジから雑誌コーナーの窓越しにちらっとだけ見える。彩加さんは見なきゃいいのに、さっき怒鳴られたことが体に残っているから、なんか見てしまっては、気持ち悪くなっていた。
サラリーマンはタバコを灰皿に押し当て、駐車場に歩いていく。それから停めている車に乗り込み、エンジンを吹かすと、凄まじい勢いで車が前進し始めた。
「あ、」と彩加さんは声がでた。
彩加さんの視界の端っこで、車が消えていった。 それはまるで流れ星のようだった。
半端ねえ衝突音が響き渡った。
彩加さんは視界に見えたものとあまりに半端ねえ音に、慌ててコンビニを飛び出した。
車が駐輪場に突っ込んでいた。
ガラスが粉々になり、硬いフレームが折れ曲がり、ボンネットが一瞬でひしゃげて、バイクと自転車がなぎ倒されて、あたりにきらきらした破片が飛び散っていて、車のタイヤがまだウイーン!ウイーン!と空回りし続けていた。
音に引き寄せられて人々が集まり始めていた。
エアバッグに包まれた人影が見えた。
彩加さんはパニックにパニックが重なって「救急車!」と叫んだつもりが脳内のボイラーが爆発していたから「わ!わ!わーー!!!」と叫んだだけだった。
しばらくして救急車とパトカーとレッカー車がやってきた。
駐輪場に車が突っ込んだけどもコンビニは24時間年中無休営業。
「仕事に戻ってー。こっちはやっとくからさー」と店長が言い、彩加さんは仕事に戻った。
彩加さんは事故を見てから、ずっと脳がぐるんぐるんと動いていた。頭の中にポストロックバンドがいて爆音でノイズがかき鳴らしているみたいだった。
竹原先輩は事故を見てから何故かずっとにやにやしていた。
お客さんが「なんかあったの」と聞くと、竹原先輩は嬉しそうに「いや、駐輪場に車突っ込んだんすよ」と言っていた。面白い映画を見た時みたいなテンションで喋っていた。
勤務時間が終わって灰色のバックヤードに戻ると、店長がいた。
店長は後処理で疲れ切ったみたいで廃棄の麻婆豆腐が乗った炒飯を食べていた。
竹原先輩はあっという間に退勤の手続きをして、制服を脱いで「お疲れっすー」と外に出て行った。
「はいお疲れ様ー」店長はそう言って、麻婆豆腐炒飯をスプーンでかき込んでいく。かりかりかりとスプーンがプラスチックの容器を削るような音がバックヤードに響いた。
彩加さんは退勤の手続きをする。
「そういえば、自動車の人、エアバッグで無事だったみたいだよー。怪我もないみたいで」店長は言った。
「あ、そうなんですね」
「なんか、アクセルとブレーキ踏み間違えたんだって。よくあるやつだね。誰も何もなくて良かったね。まあー車あんなんだし。あれ、そういえば社用車だって。いやーやっちゃったね。それから、うちの店にも賠償あるし、その他色々あると思うけども。まあこっからあの人大変だね」と店長は言う。
それを聞いて、少しだけ彩加さんは悪い気がしなかった。あの「225番!!」が頭に響いたからだ。でもそう復讐心みたいなのを思ったことにちょっと嫌な気持ちにもなった。
彩加さんはカーテンを閉めて制服を脱いで高校ジャージを羽織る。
「彩加さん。それからさー明日の昼も入れる?水面ちゃんの代わり、まだ見つかんなくてさー」
「あ、はい、入れます。ありがとうございます」
彩加さんはまた真っ黒な目で脊髄反射的に言ってしまった。
ありがたくなんてないのに。働きたくないのに。働きたくないんだ私は。
「じゃあよろしくねー。今日はお疲れ様ー」店長はそう言うと、ウイニングランのように麻婆豆腐炒飯を一気に口に放り込んでいく。
ため息をつきながら、コンビニを出て、自転車に乗って家に帰ろうと駐輪場に行って気がつく。
そうだ。駐輪場に自動車が突っ込んだんじゃないか。あまりにパニックになってて、忘れていた。
社用車がレッカー車で撤去されたあと、残ったのは数台のぐしゃぐしゃになった自転車だった。
その一台さんは彩加さんの赤い自転車で、あまりにぐしゃぐしゃになりすぎて、赤いゴミに成り果てていた。
冷酷にそう思ったのではなく、ゴミとしか思えないほどぐしゃぐしゃになっていたのだった。
特に前輪はぐしゃぐしゃになりすぎてフレームがメビウスの輪のようになっていた。
そのフレームを彩加さんはしばらく眺め、気がつけば三つ編みをいじり始めていた。
鼻で笑う音が聞こえた。
振り向くと竹原先輩だった。
「それお前の?」
竹原先輩が灰皿横でタバコを吸いながら彩加さんに話しかけてきた。
「あ、ぐしゃぐしゃです」
「やば。うけるね。それどうすんの」
「あ、はい」
「いや、はいじゃないっしょ。賠償金もらえんの」
「あ、わからないです」
「調べなきゃじゃん。ちんたらしてたら良くないじゃん」
「あ、はい」
「そのチャリ、古いの?」
「あ、はい」
「じゃあ新しいの買えるじゃん。良かったじゃん」
そう言うと、タバコを灰皿に押し当てて「じゃ」って言って竹原先輩は帰っていった。
竹原先輩の家はここから5分のところのワンルームマンションらしい。歩きだから、当然竹原先輩の自転車はぐしゃぐしゃになっていない。
"新しいの買えるじゃん。良かったじゃん"
何が良いのか、彩加さんにはわからなかった。
彩加さんには時間が必要だった。
それはぐしゃぐしゃになった自転車を受け止める時間だった。
さっきまで乗っていたきーきーきーと唸る赤い自転車が、ただのゴミに成り果てたのを受け入れる時間だった。
だから事務的なこと、金銭的なこと、誰かを罰するか罰しないかは、全て、その時間の先だった。
彩加さんは再びメビウスの輪になっている自転車のフレームを見た。入り口も出口も表も裏もないフレームがそこにはあった。
自転車はどうすることもできなかった。
とりあえずぐしゃぐしゃの自転車をそこに置いておくことにした。
それから、実家の団地に向かって歩くことにした。ここからだったら15分くらい歩かなきゃいけない。
帰り道は、全て行きとは風景が違って見えた。
まずこの帰り道を歩きで帰ることなんて久しぶりだった。
いつもなら自転車で流していく景色をとぼとぼと眺めながら歩いている。
景色が全て灰色に見える。
いや、本当に灰色に見えてるわけじゃないんだけども、まるで灰色のバックヤードの続きのようだった。
彩加さんはいつまでこの灰色のバックヤードが続くんだろうと思った。距離だけじゃなく、時間としても。
最近はバイトがない日も、灰色バックヤードにいるような気分になる。
いつまで?死ぬまで?
途端に足が重たくなった。
近くに小さな公園が見えた。
彩加さんは公園に入り、ベンチに座ろうと思ったら、鳩のフンで汚れていたから、座れなくて、他に座るところを探したら結局ブランコしかなくて、それに座ってゆらゆら揺れる。
今日はしんどい一日だった。
そもそも長い勤務時間だった。竹原先輩と一緒に働いた。サラリーマンに怒られた。そんなサラリーマンの自動車が私の自転車に突っ込んだ。私の自転車はゴミになった。フレームはメビウスの輪になった。竹原先輩はそんな自転車を鼻で笑った。
"新しいの買えるじゃん。良かったじゃん"
そういうことがぐるぐるぐるぐると彩加さんの頭の中を渦巻いていた。
また頭の中のバンドが爆音でノイズを掻き鳴らしていた。
ばばばばばばばざざざざざざざざ!
ノイズが爆音で鳴りすぎていると、うるさすぎてある種の静かさを感じる瞬間があった。
そのわずかな静かな瞬間に彩加さんはふと思う。というか思わず口に出てしまう。
「世界って、なんだ?」
彩加さんには思考が飛躍する癖があった。
その癖が出ていた。
その問いはあまりに21歳的なものだった。
すぐに個人と世界を接続するのは、21歳的な飛躍だったけども、彩加さんにとっては切実なものだった。
彩加さんには何故、ここまでわからないことが多いのか、それが全くわからなかった。
彩加さんはとりあえずブランコを座りながら漕いでみることにした。
高校ジャージを着た21歳女性がきーきーきーと唸るブランコを漕ぎ始めた。
彩加さんには世界がわからない。
恋愛も、肉体関係も、駆け引きも、高校ジャージを着ていると鼻で笑われるのも、話し始める時に「あ、」ってついちゃうのも、三つ編みをいじってしまうのも、竹原先輩を苛立たせてしまうのも、自動車が自転車に突っ込んでしまったのも、自転車のフレームがメビウスの輪になったのも。
全部わからなかった。
彩加さんはブランコを立ち漕ぎし始める。
立ち漕ぎをするなんて、子供の時以来だった。
なんか、せざるを得なかった。
膝を上手に屈伸させながらブランコを大きく揺らしていく。
きぃっきぃっとブランコが唸っている。
逆になんでみんな世界がわかってるんだ。
なんで、自転車がぐちゃぐちゃにならないんだ。なんで同僚とうまくやっていけるんだ。なんで話し始める時に「あ、」ってつかないんだ。なんで三つ編みいじらないんだ。
なんで服のセンスがいいんだ。なんで八角形のリングで戦うみたいに駆け引きなんてできるんだ。なんで0から肉体関係に持ち込めるんだ。なんで恋愛がわかるんだ。
なんで上手く生きれるんだ。
だから実家の団地に帰って「自転車がぐちゃぐちゃになった」と母に伝えた時に「なんで?」と聞かれて、すぐにその「なんで?」答えることができない。
暴走した車が自転車に突っ込んだからって事実はわかるのに、その「なんで?」がわからなかったし、伝えられなかった。
私のせいじゃないけども、ぐちゃぐちゃになったんだよ。
彩加さんは母が作ってくれていた晩御飯の青椒肉絲をレンジで温めて、食べることにした。
テレビでは恋愛リアリティショーが流れていた。
昨日の10代の男女がまた出ていた。
男の子がポニーテールの女の子に告白をする。
ポニーテールの女の子が、男の子を振る。
昨日見た時は、あんなに好意があるような素振りを見せていたのに。
「好きになられると違うかなって」ポニーテールの女の子が言う。
八角形のリングの中の戦いがあまりに壮絶すぎて、彩加さんは箸が止まってしまった。
そしてもう無理だと思った。
こんな高度な戦いをしている世界で生きていけないと思った。
けれども自死をしたいわけじゃなかった。まじで死にたくはない。
ただ生きていく方法が全くわからなかった。
「彩加。この踏み切り板をばーんと踏んで、手をついたら、飛べるんだよ」
そう誰かに教えてもらいたかった。
翌日、コンビニの駐輪場に転がるぐちゃぐちゃになった赤い自転車を見た。
メビウスの輪になったフレームを見ながら、メビウスの輪の意味は永遠だとか思ってる。
永遠。
うねうねしている三つ編みをいじいじする。
「あの自転車だけども、うちの店で回収できないみたいでさー。ごめんだけども、持って帰って、家で粗大ゴミとしてやってくれないー?」
店長にそう言われて「あ、はい、やります」と彩加さんは言う。
あんなのを持って15分も歩かなきゃいけないのか。
やりたくないと思った。
でも私はいつだって脊髄反射で答えてしまうんだ。
今日のシフトも竹原先輩だった。
そして今日も何度もため息をつかれて、何度も睨まれて、彩加さんの潜水艦が三隻ほど沈没していた。
彩加さんがレジに立って、竹原先輩がお菓子の品出しをしている。
入店音がなって入り口を見ると、水面さんがいた。
何か切羽詰まっている表情をしていた。
辞めたのに来るなんて珍しいし、今、竹原先輩いるから会ったら良くないんじゃないかと彩加さんが思っているとレジに水面さんが来る。
「彩加さん、お疲れ様です。竹原先輩いる?」
「あ、います。お菓子、出してます」
「ありがとう」
水面さんはそう言って笑ったけども、その口元は引きつっていた。
水面さんはお菓子コーナーで品出しをしている竹原先輩に近づいて、竹原先輩を持っていたハンマーで殴った。
水面さんは何度も何度もハンマーで殴った。
「痛っ!ぎゃっ!やめっ!あぎゃっ!」と竹原先輩が叫んだ。
水面さんは言葉にならない何かを叫んでいた。多分「死ね」とか「殺す」とか「嫌い」と言おうとしていたけども、ハンマーを振り下ろすのに必死だったから言葉にならなかった。
「うわうわうわ!やめろやめろやめろー!」バックヤードから店長が飛び出して、慌てて水面さんを取り押さえようとする。
店長が水面さんを引き剥がして、その勢いでお菓子の棚が倒れて、二人が転がっていく。
竹原先輩は通路に倒れていて、ゆっくりと血溜まりが広がっていく。
客が騒然としている。
彩加さんには何もかもわからなかった。
何もかもわからなくて、彩加さんの頭の中で船員が「ファッキンハリーアップ!!」と叫び、オクタゴンで格闘家が殴り合い、バンドが轟音でばばばばばばざざざざざざ!とノイズを掻き鳴らしたその瞬間に一瞬の静かさが訪れて、ふと思う。
「世界って、なんだ?」
恋愛わからねえ、情けねえ 両目洞窟人間 @gachahori
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