部屋が『災厄兵器パンドラ』と呼ばれている件について

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部屋が『災厄兵器パンドラ』と呼ばれている件について

『災厄兵器パンドラ』

 ――その物々しい二つ名が、まさか自分の四畳半の城に付けられることになるとは、中学生の取手とりで幸彦ゆきひこは思ってもみなかった。

 部屋のドアが、錆びついた監獄の門のような音を立てて開く。

 そこに立っていたのは、実の母親だ。彼女は、口元をタオルで固く覆っている。

「幸彦。心して聞きなさい」

 土曜の昼下がりという、本来なら微睡まどろみと怠惰が許されるべき時間に、審判の時は訪れた。

「あんたの部屋はもう、ただのゴミ屋敷じゃないわ。これは、人類の安寧を脅かす『災厄兵器パンドラ』よ」

「母さん、表現が大袈裟すぎない? ちょっと衣替えのタイミングを逸しただけだよ」

 幸彦は、地層のように積み上がった漫画雑誌のバックナンバーや、着なくなった衣服などを選別しながら、母に反論する。

 しかし、母の眼差しは冷徹な執行官のそれだった。

「いいえ。一度その扉を開ければ、絶望や災いという不浄の異臭が廊下に漏れ出し、家族の健康を害しているの。入ったら生きては帰れない魔境。まさに、開けてはならないパンドラの箱そのものだわ」

「パンドラって、酷い言われ方だな……」

 幸彦は、足元に広がる、コンビニ弁当の空き殻マウンテンを見た。

 確かに、ここには原始的な生命(カビ)が独自の進化を遂げていそうな気配がある。一度入ったら生きて帰れないという母の警告は、あながち比喩でもないかもと思った。

「せっかくの休みなんだから、今日という今日はどうにかしなさい。さもないと、特殊清掃業者を呼ぶからね」

 母は、逃げるようにドアを閉めた。

 静寂が戻る。

 幸彦は深い溜息をついて漫画雑誌を開く。

 すると、枕元に転がっていたスマートフォンにメッセージの着信を告げる音がなった。

 どうせくだらないDMだと思いつつも、画面をスワイプして通知を確認する。

 その瞬間、彼の心臓は爆発的なビートを刻み始めた。


『取手くん。借りてた理科のノート、今日返しに行ってもいいかな? 3時くらいには着けると思います』


 送り主は、羽住はずみ梨花りか

 幸彦が通う中学で、その名を知らぬ者はいない美少女だ。彼女の微笑み一つで、男子テニス部の入部希望者が3倍になったという伝説を持つ、学園の歩くカリスマ。

 それは先日のことだ。

 理科室での授業を終えた幸彦に、梨花の方から話しかけてくると、ノートを貸して欲しいとお願いされたのだ。

 学園の女神である梨花が、わざわざ自分のような目立たない男子からノートを借りたこと自体が、今思えば不自然極まりない。彼女なら、ノートを写させてくれる女子や男子の友人など、それこそ星の数ほどいるはずなのだ。

 にも関わらず、彼女はあえて幸彦を選んだ。

 いずれ、学校でノートを返してくれるものだと思っていたにも関わらず、彼女の方から自宅に来るという連絡に、幸彦は喜びを隠し切れないでいた。

「……そうか。そうだったのか、羽住さん!」

 幸彦の脳内では、頬を赤らめながら「取手くんの字……丁寧で好きだな」と呟く梨花が再生されている(実際の幸彦の字は、ミミズがのたうったような悪筆)。

 ノートの貸し借りは、ただの口実。

 彼女は、会話のきっかけを、そして『今日、家に行く』という大義名分を、数日前から周到に準備していたのだ。

「ということは……。ノートを返した後、彼女はなんて言う?」


『外、雨降ってきちゃった(本日は快晴)。止むまで、ここにいてもいい?』


「――待て待て、俺の心臓が物理的に爆発するぞ!」

 妄想は加速する。

 梨花が幸彦のベッド(実際は万年床)に腰掛け、少しだけスカートの裾を気にしながら、


『男子の部屋って、初めて……』


 なんて俯く。

「……ふへ、ふへへへ……っ!」

 あまりの幸福感に、幸彦の口角がだらしなく吊り上がった。

 だが、先程母が放った『災厄兵器パンドラ』という言葉が、その甘い桃源郷を真っ向から切り裂く。

 羽住梨花が来る。

 今のままでは、女神が腐海の沼に降り立つようなものだ。

 もし彼女がこの部屋の一歩でも足を踏み入れれば、その芳しい香りは瞬時に、一ヶ月熟成された靴下の異臭に汚染され、その無垢なる存在は、踏みにじられた百合の花のように儚く萎れてしまうだろう。

 絶対に避けねばならない。

 今は11時55分。

 到着予定時刻、午後3時。

「あと、3時間……」

 幸彦は、目の前の絶望の地平を見つめ、震える手で立ち上がった。

 これは掃除ではない。

 非モテ期を終焉させる戦いだ。

「やってやる……パンドラの蓋を閉じるのは、俺だ!」

 幸彦は、ゴミで埋め尽くされた世界から、希望の星を救い出す決意を固めた。


 ◆


 第一の獲物は、足元に転がっている飲みかけのコーラのペットボトルだった。

 それは幸彦の部屋という名の『暗黒大陸』において、地層の安定を司る要石キーストーンだったのかもしれない。彼がそれをひょいと持ち上げた瞬間、世界は音を立てて崩壊を始めた。

「あっ、おい、待て待て待て!」

 幸彦の悲鳴も虚しく、物理学の法則が牙を剥く。

 ペットボトルが抜けた穴を埋めるべく、背後にそびえ立つ漫画雑誌の巨塔が、スローモーションのように傾いだ。それはまるで、均衡を失った摩天楼が断末魔の叫びを上げているかのようだった。

 崩落は連鎖する。

 漫画雑誌の山が崩れ、その衝撃が隣の使い古した教科書とプリントの断層を直撃した。さらにそこから溢れ出したルーズリーフの雪崩が、床一面を覆う。フリマサイトで入手した漫画の山は崩壊しゴミを押し流していく。

 まさにピタゴラスイッチ。

 あるいはゴミのからくり屋敷。

 幸彦の掃除という名の行動がスイッチとなり、部屋全体を巻き込む壊滅的な地殻変動を引き起こしたのだ。

 そして、最悪の『爆弾』は地層の三層目から現れた。

 雪崩の勢いに押され、山積みの衣類の中から飛び出してきたのは、金色の光沢を放つ一袋の菓子だった。

「ポテトチップス・トリプルチーズ味。ここにあったのか!」

 幸彦の記憶によれば、それは4年前に買ったはずのものだ。モッツァレラ&カマンベール&チェダーチーズの、とろ~りと伸びるチーズの濃厚な味わいがたまらない一品だ。

 生のチーズの味わいを活かす為に、要冷蔵保存のスナック菓子だったが故にパッケージは内部で発生した発酵ガスの圧力により、今にも破裂せんばかりにパンパンに膨れ上がり、深海から引き揚げられた奇妙な魚のように不気味な存在感を放っている。

「やめろ、そっちに倒れるな!」

 幸彦の制止は届かない。

 最後に崩落した1000ページの分厚い月刊漫画雑誌が、ギロチンの刃となってその袋を直撃した。


 ――パァァァンッ!!


 乾いた爆音。

 それは幸彦の部屋に、『真の災厄兵器』が解き放たれた合図だった。

 4年間の沈黙を経て解き放たれた、トリプルチーズの死臭が、爆風と共に部屋中に飛散する。それはもはやスナック菓子の香りなどではなかった。何千回、何万回と熟成を重ね、呪物へと昇華された、化学兵器そのものである。

 部屋の色が、セピア色に染まる。

 絶望的な芳香が襲う。

「う、うわあああぁぁぁっ! 鼻が、俺の鼻が死ぬ!!」

 目に見える毒霧が部屋を満たしていく。あまりの刺激臭に、幸彦は視界がチカチカと火花を散らすのを感じた。反射的に窓を全開にする。

 しかし、それが第二の悲劇を生んだ。

 窓から解き放たれたトリプルチーズの死臭は、もはや単なる悪臭の域を超えていた。それは目に見えない黄色の死神となって、住宅街の平穏を蹂躙し始めたのである。

「嫌ぁぁぁっ!」

「臭い!」

「何よこれ!」

「ドブ川でチーズフォンデュでもしたの!?」

 家々で悲鳴が上がる。

 庭で洗濯物を干していた隣の田中さんが、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。

「おい、ガス漏れだ! いや、これは化学兵器の漏洩か!? 避難しろ、窓を閉めろおおおぉぉ!」

 三軒隣の隠居老人、佐藤さんが杖を振り回しながら絶叫する。

 まさに、阿鼻叫喚の地獄絵図。

 近所の犬たちは一斉に遠吠えを始め、パトカーのサイレン音が遠くから聞こえてくる。

「や、ヤバい……」

 幸彦は二階の窓から、ゾンビ映画の主人公になったように日常が壊れていく瞬間の光景を呆然と眺めていた。

 そこで彼は、自宅の様子がどうなっているのか気になった。

「母さん、大丈夫!?」

 幸彦は慌てて階段を降り、母がいる台所へと突入する。

 母はシンクに顔を突っ込み、白目を剥いた母の無残な姿がある。幸彦は換気扇を作動させると共に、家中の扇風機4台を用意すると家の窓という窓を全開にした。

 その甲斐もあってか、家にあった死臭は徐々に和らいでくる。

「幸彦……。あんた、何したの?」

 シンクに顔を突っ込んだままの母は、心配そうにこちらを伺う幸彦に一言だけ呟く。

「ごめん。ちょっと部屋の片付けをしようとしたんだ。母さんはソファーで休んでていいから」

 母は、ゆっくりとした動きで立ち上がりリビングに行く。

 その最中で幸彦は掃き出し窓の向こうの花壇。太陽に向かって咲いていた花が、重度の二日酔いのような顔でしなびていた。

「このままじゃ羽住さんが来る前に、この家が黄色い規制線で囲まれちまう。元を絶たなくては」

 彼は決死の覚悟で、ゴミの部屋に再びダイブした。

「……ぐっ、ううっ、鼻の粘膜が焼けるようだ……だが、止まるわけにはいかない! 羽住さんに、俺の部屋がバイオハザードの発生源だと知られるわけにはいかないんだ!」

 幸彦は、異臭の源泉である破裂したポテチ袋を、三重にしたゴミ袋に押し込み、さらにその上からガムテープをぐるぐる巻きにした。

 その姿は、放射性廃棄物を処理する作業員のようでもあり、凶悪な怪物を封印する退魔師のようでもあった。

 なんとか源泉を封じ込めたものの、部屋に染み付いた重厚なチーズの記憶は消えない。

 それは部屋のゴミが死臭を吸い込んでいるからだ、もはや雪崩を起こす心配はなさそうだが、このまま放置していては何の解決もできない。

「……羽住さん。俺、頑張るよ。君がこの部屋のドアを開けた時、『取手くんの部屋ってキレイ、このまま同棲しちゃおうかな❤』って思ってくれるくらいに」

 涙目で鼻を啜りながら、幸彦は再び立ち上がった。

 手には黒いゴミ袋。

 心には決死の覚悟。

「……女の子が俺の部屋に来るかも知れないんだ。やってやる。やってやるぞー!」

 幸彦の瞳から、人間としての理性の光が消え、代わりにどろりとした執念の炎が宿った。彼は、もはや取手幸彦ではなかった。ゴミを屠り、汚れを浄化する鬼――掃除鬼と変身を遂げたのだ。

 彼は猛然と、ゴミの連峰へ突っ込んだ。

 迷いはない。

 手に持った特大のゴミ袋は、まるで獲物を飲み込む巨大な怪物の口のように開かれ、地層を構成していた漫画雑誌、空き缶、正体不明のプリントを次々と飲み込んでいく。

「オラァッ! これは可燃! これは不燃! これは……お気に入りのエロ本だけど、今は可燃だあああぁぁぁっ!」

 神速の仕分け。

 マッハのパッキング。

 幸彦の動きはもはや残像を伴っていた。雪崩が起きれば、それを力技でねじ伏せ、崩落する前に袋に詰める。

 幸彦は構わず、踊るようにゴミをクローゼットへと押し込んでいった。

 クローゼットは、今や『開けなければセーフ』という名の、ゴミの最終処分場と化した。

 そして、核廃棄物を封印するように蹴り込んで閉める。

「はぁ、はぁ、はぁ……。あ、あと……仕上げだ……っ!」

 幸彦は掃除機を爆音で回し、残った微細な埃を吸い取り、家にあった買い置きを含めた除菌消臭剤を3本まるごと、まるで聖水を撒く神父のように部屋中に噴射した。

 そして――。

 嵐が去った。

 作業時間、ジャスト3時間。

 部屋は、かつての『災厄兵器パンドラ』の面影など微塵もないほど、不自然なまでに片付いていた。

 そこにあるのは、モデルルームのような無機質な空間。空気は強力消臭液が混ざり合い、もはや神殿か神社かと疑いたくなるほどに殺菌され、清潔という名の狂気が漂っている。

 仕上げとして、幸彦は、鏡の前でセットを整え、爽やかな男子の仮面を被り直した。


 ピンポーン


 心臓が、喉から飛び出しそうになる。

 幸彦は廊下を駆け、玄関のドアを開けた。

「こんにちは、取手くん」

 そこには、逆光を背負って立つ、羽住梨花がいた。

 学校の教室で見ることのないワンピース姿に、何倍も輝いて見える。風に揺れる髪からは、フローラル系の香りがした。

「羽住さん……わざわざ、ありがとう」

「ううん、急に来ちゃってごめんね。あ、これ借してもらってたノート。本当に助かったよ」

 梨花は聖女のような微笑みを浮かべ、ノートを差し出した。

 幸彦は、それを受け取る手が震えるのを必死で抑える。

「あ、あのさ……もしよかったら、少し、部屋で休んでいかない? お茶くらい、出すけど」

 女子を誘ってしまった。

 地獄の戦場を乗り越えた達成感が、彼に不相応な勇気を与えていた。

 梨花は少し驚くが、すぐに

「いいの? じゃあ、お邪魔しようかな」

 と、軽やかに玄関を上がった。

 幸彦は、勝利を確信した。

 これから始まるのは、美少女と二人きりの、甘い放課後ティータイム。

 彼は誇らしげに、二階の自室のドアを開けた。

「どうぞ。……ちょっと、片付いてないかもしれないけど」

 嘘をつけ。

 これ以上ないほど片付けただろう、と自分にツッコミを入れながら、幸彦は梨花を招き入れる。

 部屋に入った梨花は、その異常なまでの清潔さに息を呑んだ。

 窓から差し込む日光が、磨き上げられたフローリングに反射して、彼女の瞳を射抜く。

「……わぁ、すごい。取手くんの部屋、なんだか……とっても『潔癖』な感じがするね」

「あはは。まあ、男部屋だけど、最低限はね」

 幸彦は、自分の背後にあるクローゼット(体積にして3㎥単位のゴミが圧縮されている)が、重圧でミシミシと音を立てているのを聞かないふりをした。

 梨花は部屋の真ん中にちょこんと座り、周囲を見渡した。

「取手くんって、意外としっかりしてるんだね。私、こういう綺麗好きな人って、いいと思うな」

 梨花が、上目遣いで幸彦を見つめた。

 幸彦の心臓が跳ね上がる。

 きた。

 これは、きた。

 と、期待が高まる。

 だが、梨花の口から飛び出したのは、幸彦の全神経をマヒさせる、全く別の言葉だった。

「えっと。取手くんって……佐京光希くんと、すっごく仲良しだよね?」

 空気が、凍りついた。

 佐京光希は武術ウーシューをしている同級生の格闘オタクのことだ、幸彦はシュートボクシングをしていて、格闘仲間と言えばそうだが、仲良しとは言えない。

 あまりにも予想外の質問に、幸彦の思考はフリーズした。

「……それでね。さ、佐京くんって、どんな女の子が好きなのかな?」

 梨花の声音には、これまで見せたことのない切実な響きが混じっていた。申し訳なさそうに指先をいじりながらも、幸彦を見つめる瞳は潤み、彼の一挙手一投足を、救いの一言を待つ祈りのように凝視していた。

 その瞬間、幸彦の脳裏でパズルが完成した。

 なぜ、彼女がわざわざ自分にノートを借りたのか。

 なぜ、わざわざ自宅まで返しに来たのか。

 彼女は、幸彦という窓口を通じて、佐京光希という難攻不落の城を攻略しようとしていたのだと。


(終)

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