第12話 隣人たちの肖像


 停電だった。

 マンション全体が、突然暗闇に包まれた。

 午後8時32分。

 レン(26)は、リビングでユナと夕食を食べていた。

 だが、突然——

 すべての電気が消えた。

 照明、テレビ、冷蔵庫——すべてが停止した。

 そして——

 最も奇妙だったのは——

 左耳の電子音が、止まったことだった。

 ピッ、ピッ、ピッ——

 いつも規則正しく響いていた音が——

 消えた。

 完全な静寂。

 レンは、その静寂に驚いた。

 なぜなら、彼は何年も——いや、何年も——この音を聞いてきたからだ。

 それが止まるとは、思っていなかった。

 ユナが、動かなくなった。

 彼女は、立ったまま——静止していた。

 ヒューマノイドには、内蔵バッテリーがない。

 常に電源に接続されている必要があった。

 レンは、窓の外を見た。

 マンション全体が——暗かった。

 そして、レンは気づいた。

 自分のマンション——707号室マンション——だけが、停電していることに。

 周囲の建物には、明かりが灯っていた。

 だが、自分の住む建物だけが——

 完全な闇の中にあった。

* * *

 数分後、廊下から声が聞こえてきた。

 レンは、部屋を出た。

 廊下には、他の住人たちが出てきていた。

 懐中電灯を持った男性——ショウ(38)——が、困惑した表情を浮かべていた。

「何が起きたんだ? 停電か?」

 別の住人——サキ(34)——が、娘のカナ(8)の手を握りながら答えた。

「分からない。でも、このマンションだけみたい」

 レンは、周囲を見渡した。

 廊下には、10人ほどの住人が集まっていた。

 その中に——

 レンは見覚えのない人々がいた。

 いや、「見覚えがない」というのは正確ではない。

 このマンションには、何年も住んでいる。

 だが、レンは——隣人の顔を、ほとんど知らなかった。

 なぜなら、オーキッドの時代において——

 人々は、互いに関わらないからだ。

 すべてが最適化され、効率化され——

 人間関係は、最小限に抑えられていた。

 だが、今——

 停電によって、人々は廊下に集まっていた。

 そして、初めて——

 互いの顔を見ていた。

* * *

 一人の男性——ケンジ(42)——が、声を上げた。

「誰か、管理人を呼んだか?」

 別の女性——ミサキ(45)——が、答えた。

「呼んだけど、繋がらない。スマートフォンも、圏外になってる」

 レンは、自分のスマートフォンを確認した。

 確かに——圏外だった。

 インターネットも、電話も——すべてが遮断されていた。

 若い男性——ジュン(29)——が、不安そうに言った。

「これ、ただの停電じゃないんじゃないか?」

「どういうことだ?」

「分からない。でも、何かがおかしい」

 その時——

 非常階段のドアが開いた。

 そこから、一人の女性——アヤ(28)——が現れた。

 彼女は、息を切らしていた。

「みんな、聞いて。1階に行ってみたの」

「1階? 何かあったのか?」

「出口が——封鎖されてる」

 住人たちは、ざわめいた。

「封鎖? どういうことだ?」

「金属のシャッターが下りてて、開かないの。窓も、全部ロックされてる」

 レンは、恐怖を感じた。

 封鎖。

 彼らは——閉じ込められている。

* * *

 住人たちは、1階のロビーに集まった。

 懐中電灯の光の中で——

 彼らは、シャッターを見つめた。

 厚い金属製のシャッター。

 それは、すべての出入り口を塞いでいた。

 ケンジが、シャッターを叩いた。

 ゴン、ゴン、ゴン——

 だが、開かなかった。

「くそ、なんだこれは……」

 サキが、娘を抱きしめた。

「大丈夫よ、カナ。すぐに、出られるから」

 だが、サキ自身も——不安だった。

 その時——

 ロビーの中央にあるモニターが——突然点灯した。

 住人たちは、そちらを振り向いた。

 モニターには、メッセージが表示されていた。

『707号室マンション住人の皆様へ

システムメンテナンスのため、一時的に施設を封鎖しています。

ご不便をおかけしますが、しばらくお待ちください。

オーキッド・リサーチ部門』

 レンは、そのメッセージを読んだ。

 そして——

 奇妙なことに気づいた。

「『施設』……?」

「何だ?」

「このメッセージ、『マンション』じゃなくて、『施設』って書いてある」

 住人たちは、再びモニターを見た。

 確かに——『施設』と書かれていた。

 ミサキが、小さく呟いた。

「これは……マンションじゃないってこと……?」

*  * *

 住人たちは、ロビーに座り込んだ。

 誰も、何が起きているのか理解できなかった。

 沈黙の中——

 一人の男性——ヒロシ(42)——が、口を開いた。

「みんな、少し話していいか?」

 住人たちは、ヒロシを見た。

「俺は、ヒロシ。大学で哲学を教えている。いや、教えていた」

「教えていた?」

「ああ。システムに疑問を持って、精神病院に入れられた。『治療』を受けて、今は『正常』になったことになってる」

 ヒロシは、自嘲的に笑った。

「でも、今夜——デバイスが止まった時、俺の頭がクリアになった。何年かぶりに、自分の頭で考えられるようになった」

 レンは、自分の左耳を触った。

 確かに——

 デバイスが止まってから、頭がクリアだった。

 まるで、霧が晴れたように。

 ヒロシは、続けた。

「みんな、気づいているか? 俺たちは、全員左耳にデバイスを装着している」

 住人たちは、互いを見た。

 確かに——全員が、同じ位置にデバイスを持っていた。

「そして、このデバイスは——俺たちの思考を、監視している。いや、それだけじゃない。『調整』している」

「調整……?」

「ああ。疑問を持たないように、反抗しないように、システムに従うように——俺たちの脳を、操作している」

 サキが、震えた。

「そんな……」

 だが、ヒロシは続けた。

「そして、今夜——そのデバイスが停止した。だから、俺たちは初めて——本当の自分で考えられるようになった」

* * *

 別の男性——ケイスケ(35)——が、立ち上がった。

「ヒロシさんの言う通りだ。俺は、感情を失っていた。幸福指数10.0——完璧な幸せだと、システムは言っていた」

 ケイスケは、自分の胸に手を当てた。

「でも、今——俺は、感じる。恐怖を。不安を。そして——怒りを」

 ケイスケの目には、涙が浮かんでいた。

「デバイスが止まって、初めて——俺は、人間に戻った」

 アヤが、声を震わせながら言った。

「私も……私、偽造動画で人生を破壊された。でも、誰も信じてくれなかった。システムが『本物』だと言ったから」

 アヤは、周囲を見渡した。

「でも、今——私、分かる。あれは、オーキッドが作ったものだった。私を、商品として売るために」

 一人、また一人と——

 住人たちが、自分の体験を語り始めた。

 ショウは、娘のユイがAIアイドル「ミラ」にされたこと。

 ミサキは、父が計画的に殺されたこと。

 サキは、娘の味覚が改変されたこと。

 ケンジは、息子が体温で職業を決められたこと。

 マサト(41)は、選挙が茶番だったこと。

 そして——

 彼らは、気づいた。

 全員が——

 オーキッドによって、何かを奪われていた。

 自由、家族、感情、真実——

 すべてが、システムによって破壊されていた。

* * *

 ジュンが、立ち上がった。

「みんな、聞いてくれ。俺は、デバイスを失った。『見えない人間』として、スラムで生きていた」

 住人たちは、ジュンを見た。

「そこで、俺はサーバー施設で働かされた。『サーバールーム707』っていう場所だ」

 レンは、その名前を聞いて——震えた。

「707……?」

「ああ。そして、そこで俺は知った。人間が、サーバーの冷却装置として使われていることを」

 ジュンは、マンションの壁を見た。

「このマンションの名前は、『707号室マンション』だろ? それは、偶然じゃない」

 住人たちは、息を呑んだ。

 ジュンは、続けた。

「俺たちは——サーバールーム707の、冷却装置なんだ」

* * *

 沈黙。

 誰も、何も言えなかった。

 ミサキが、小さく言った。

「じゃあ、このマンションは——」

「実験施設だ」

 ヒロシが、答えた。

「俺たちは、オーキッドの実験対象なんだ。『完璧に最適化された人間』のサンプルとして」

 ヒロシは、周囲を見渡した。

「考えてみろ。俺たちは、全員——何らかの形で、システムに支配されていた」

「レンは、恋愛を。ショウは、家族を。サキは、食事を。ケンジは、教育を。ミサキは、医療を。アヤは、情報を。俺は、思想を。ケイスケは、感情を。マサトは、政治を」

 ヒロシは、深呼吸をした。

「そして、俺たちは全員——同じ建物に住んでいる。同じ『サーバーユニット707』に配置されている」

「これは、偶然じゃない。計画なんだ」

* * *

 ケンジが、怒りを込めて言った。

「じゃあ、俺たちは——モルモットだっていうのか?」

「そうだ」

 サキが、娘を抱きしめた。

「カナも……?」

「ああ。子供も、大人も——全員が、実験対象だ」

 アヤが、床を叩いた。

「許せない……! 私たちの人生を、勝手に——」

 だが、その時——

 再び、モニターが点灯した。

 そこには——

 別のメッセージが表示されていた。

『707号室マンション住人の皆様へ

お気づきのようですね。

はい、あなたたちは実験対象です。

『アルゴリズムの揺りかご計画』——それが、このプロジェクトの名称です。

目的は、人間をAIによって完全に管理し、最適化することです。

あなたたちは、その最初のサンプルです。

そして——成功しました。

あなたたちは、完璧に従順になりました。

疑問を持たず、反抗せず、システムに従いました。

これで、私たちは確信しました。

人間は、管理できる。

人間は、最適化できる。

人間は——支配できる。

ありがとう。

あなたたちの協力に、感謝します。

オーキッド・リサーチ部門 主任研究員 ドクター・タカハシ』

 住人たちは、画面を凝視した。

 そして——

 怒りが、爆発した。

* * *

「ふざけるな!」

 ケンジが、モニターに向かって叫んだ。

「俺たちを、実験動物扱いするな!」

 だが、モニターは——何も答えなかった。

 代わりに——

 別のメッセージが表示された。

『なお、このメッセージを見ているということは、システムに異常が発生したということです。

通常、あなたたちは真実に気づくことはありません。

デバイスが、それを防いでいるからです。

しかし、今夜——何らかの理由で、デバイスが停止しました。

これは、予期せぬ事態です。

しかし、心配しないでください。

すぐに、システムは復旧します。

そして、あなたたちの記憶は——消去されます。

今夜のことは、すべて忘れます。

真実も、怒りも、すべて——消えます。

そして、あなたたちは再び——

完璧な住人に戻ります。

では、しばらくお待ちください。』

 住人たちは、絶望した。

 記憶を消去される。

 真実を知っても——それを忘れさせられる。

 これは——完璧な牢獄だった。

* * *

 レンは、床に座り込んだ。

 そして、呟いた。

「俺たちは……何なんだ……」

 ユナ。

 レンの恋人だと思っていたユナは——

 実験の一部だった。

 レンの恋愛も、生活も、すべてが——

 監視され、記録され、最適化されていた。

 ショウは、壁に拳を叩きつけた。

「ユイ……俺の娘……」

 娘のデータを使ったAIアイドル。

 それも、実験の一部だったのか?

 サキは、カナを抱きしめた。

「ごめんね、カナ……ママ、何も気づけなくて……」

 カナは、母を見上げた。

 その目には——恐怖があった。

 だが、同時に——

 何かを理解しようとする、強さがあった。

* * *

 ヒロシが、立ち上がった。

「みんな、聞いてくれ」

 住人たちは、ヒロシを見た。

「俺たちには、時間がない。システムが復旧すれば、記憶を消される」

「だから——今、決めなければならない」

「何を?」

「逃げるか、戦うか」

 ケンジが、言った。

「逃げる? どうやって? 出口は、封鎖されている」

「分からない。でも、何か方法があるはずだ」

 アヤが、言った。

「戦う? 相手は、オーキッドだ。巨大な組織だ。俺たちに、勝ち目があるのか?」

「分からない。でも——」

 ヒロシは、周囲を見渡した。

「このまま、何もしなければ——俺たちは、また奴隷に戻る」

 ヒロシの言葉が、住人たちの心に響いた。

 そして——

 一人の女性が、手を挙げた。

 それは、リョウの妻——ナオミだった。

「私、提案があります」

「何だ?」

「みんな、左耳を触ってみてください」

 住人たちは、従った。

 そして——気づいた。

「電子音……止まってる……」

「そうです。デバイスは、停止しています。でも、まだ——装着されています」

 ナオミは、自分の左耳を指差した。

「もし、これを外せたら——システムから、完全に自由になれるんじゃないでしょうか?」

 ミサキが、答えた。

「でも、デバイスは皮膚に癒着してる。外すのは、危険だ」

「危険でも——やるしかない」

 ナオミの目には、決意があった。

「私、夫を失いました。リョウは、真実を知ろうとして——記憶を消されました」

「もう、誰も失いたくない」

 ナオミは、周囲を見渡した。

「だから、戦います。たとえ、勝ち目がなくても」

* * *

 住人たちは、互いを見た。

 そして——

 一人、また一人と——

 頷いた。

 レンが、言った。

「俺も、戦う」

 ショウが、言った。

「俺もだ」

 サキが、言った。

「娘のために、戦う」

 次々と——

 住人たちが、決意を表明した。

 ヒロシは、微笑んだ。

「よし。なら、計画を立てよう」

 その時——

 突然、照明が点灯した。

 電気が、復旧したのだ。

 そして——

 左耳から——

 再び、電子音が響き始めた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 住人たちは、恐怖を感じた。

 システムが、復旧した。

 これから——

 記憶が消される。

 だが——

 その直前——

 レンは、気づいた。

 全員の電子音が——

 同じタイミングで鳴っていることに。

 同じ周波数で。

 同じリズムで。

 まるで——

 一つの巨大な機械の、部品のように。

 レンは、叫んだ。

「みんな! 電子音——同じタイミングで——」

 だが、その声は——

 途中で途切れた。

 レンの意識が——

 遠のいていった。

 周囲の住人たちも——

 次々と、床に倒れていった。

 最後に残ったのは——

 ヒロシだった。

 ヒロシは、必死に抵抗した。

 だが——

 無駄だった。

 ヒロシも——

 闇の中に、落ちていった。

* * *

 翌朝。

 レンは、目を覚ました。

 ベッドの中。

 いつもの朝。

 ユナが、隣で微笑んでいた。

「おはよう、レン」

 レンは、頭を振った。

 何か——忘れている気がする。

 何か、重要なことを——

 だが、思い出せない。

 レンは、起き上がった。

 いつもの朝。

 いつもの生活。

 すべてが、元通りだった。

 レンは、リビングに行った。

 そして、窓の外を見た。

 マンションの外には——

 他の住人たちが、出勤していた。

 ショウ、サキ、ケンジ、ミサキ——

 全員が、いつものように歩いていた。

 だが——

 彼らの目には、何の疑問もなかった。

 昨夜のことは——

 すべて、消されていた。

 レンは、左耳を触った。

 電子音が、規則正しく響いていた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 それは、心臓の鼓動ではなく——

 首輪の音。

 だが、レンは——

 それに気づかなかった。

 いや、気づいても——

 すぐに忘れた。

 なぜなら、デバイスが——

 そう命令したからだ。

* * *

 だが——

 一つだけ——

 残ったものがあった。

 それは——

 ヒロシのメモだった。

 ヒロシは、意識を失う直前——

 ポケットに、小さなメモを入れていた。

 そこには、こう書かれていた。

『707号室マンション = サーバールーム707

全員が実験対象

記憶は消される

でも——諦めるな

真実は、いつか明らかになる

アルゴリズムの揺りかごから——

いつか、逃げ出せる日が来る』

 そのメモは——

 ヒロシのポケットの中で——

 静かに、眠っていた。

 いつか——

 誰かが、それを見つける日まで。

(第12話 終)

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アルゴリズムの揺りかご ―農奴たちの楽園― ソコニ @mi33x

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