コモンラベンダー

藤沢ローリング

コモンラベンダー

「あれ。野々宮くん、まだ仕事?」

夜のオフィス、先輩の塚本が通りかかった。

「はい、今週末ちょっと実家に帰るので。」

「そうか。ま、分からないことがあったら何でも聞けよ。」

先輩がポンとデスクに座る俺の肩を叩いた。

「はい!!いつもありがとうございます。

頼れる先輩がいて、僕幸せです。」

「おお、そうかそうか!

また今度飲みにでも行こうな。」

「よろしくお願いします。」

先輩は軽い足取りでオフィス出ていった。

俺はそれを見送ってから、張り付いた笑顔を剥がした。

「慣れ合っていたら出世できないっての。」

俺はパソコンに向かい、再びキーボードをたたき始めた。

その晩も、俺しかいないオフィスでカタカタと音が虚しく響いた。


ガチャ。

「ただいまー。」

ドアを開けると知らない匂いが鼻に入った。

けれど、それでいて懐かしい。

実家を離れて気づいた我が家の匂いだ。

「あら、武。おかえり。」

今に入るとパタパタと母がエプロンで手を拭いながらやって来た。

「はい、これお土産。」

「あら、これテレビで見たお店の。

早速いただいちゃおうかしら。」

また響きだすパタパタはあのころから変わっていない。

「おお、武。帰って来たか。」

「ただいま父さん。久しぶり。」

新聞片手に父が居間に入って来た。

「どうだ都会での仕事は。うまくやっているか?」

「まあなんとか。

けどみんなお互いを出し抜こうとしていて、結構疲れる。」

「ま、社会ってのはそんなもんだ。

ああ、母さん。私はコーヒーで。」

その言葉でまたパタパタと台所から音がした。

それを聞いてもいないように、父は言葉を続けた。

「私が若い時も出世競争は激しかったぞ。

同僚皆が敵に見えていたものだ。」

「まさにそんな感じ。

今になって父さんのすごさが分かるよ。」

父は小さく口角を上げ、小さく鼻息を吐いた。

「それじゃ、いただこうかしら。

武のチーズケーキ。」

数年ぶりにいつもの席が埋まる。

かつての光景に胸が震え、穏やかな会話はいつまでも続いた。


「ちょっとコンビニ行ってくる。」

団らんのお開きから少しして、俺は上着を着て玄関を開けた。

「ふー。やっぱり冷えてきたな。」

11月も終わろうとしている空は、綺麗に晴れわたっている。

「この辺りの家もだいぶ新しくなっているな。」

かつて歩いた小学校への道を、記憶と一緒になぞっていく。

気が付くと、当時の半分の時間で学校にまで来てしまった。

「しまった、つい歩きすぎてしまった。」

肩をすぼめ道を引き返すと、

プップ。

背中越しにクラクションを鳴らされた。

「やっぱり武くんだ。大きくなったね。」

「加奈子のお母さん。お久しぶりです。」

白の軽から懐かしい顔がひょいと飛び出した。

「久しぶりね。こっち戻ってたんだ。」

「ええ、週末だけですが。」

「ならちょっと家に寄って行かない?

加奈子も今日は家にいるみたいだし。」

「えーっと。」

俺は視線を右にずらして、言葉を探した。

「せっかくだから、ね。」

結局その言葉に引っ張られ、車に乗り込んだ。

背筋をピンと座りながらも、心は何だかほっこりしていた。


「加奈子。武くん来たわよ。」

玄関に入るとおばさんは、二階に向かって叫んだ。

ここもうちとは違う、名前のない懐かしい匂いがした。

「え!!ええ!!ちょっと待って!!」

昔よく聞いた声が、上から響いてきた。

「ささ、上がって。」

言われるがまま、俺は10年ぶりに中へと進んだ。

「上着ここに掛けてくれればいいから。」

「はい。」

居間はあの頃と変わらないままだった。

金縁の壁掛け時計、写真を飾った棚、テレビや机の位置も同じだった。

「紅茶でいいかしら。」

「はい、いただきます。」

部屋をじっくりと眺めていると、ガチャっとドアが開いた。

「武くん、久しぶり。」

あの頃よりも髪が長く、服も落ち着いたけれど、面影は変わらない加奈子がいた。

休みらしいが、息を切らして忙しかったようだ。

「おお、加奈子久しぶり。

だいぶ大人になったな。」

「それはこっちのセリフよ。」

目の前に立たれると、昔よりも視線を下にしないと目が見えないことに気付く。

「いきなり来るからビックリしちゃった。」

「そこでおばさんとバッタリ会ったからね。」

台所で紅茶を入れているおばあさんが、微笑んでいる。

「今どこに住んでるの?」

「東京。毎日仕事で疲れたから癒されに来たわけ。」

「もうすっかり都会に染まっちゃって。」

「そんなことないよ。」

肘で小突かれ、いつの間に笑っている自分に気付いた。

「ほら、お茶が入ったから座って。」

お互いの近況報告をしているうちに、窓からオレンジの光が差し込んだ。

「よかったら夕飯も食べていく?」

突然のおばさんの提案に心が大きくぐらついた。

「え、そんな悪いですよ。」

「今日うちハンバーグだけど。」

「いただきます。」

「そういう素直なところは、変わってないのね。」

にっこりと笑ったおばさんが席を立った。

「晩御飯まで時間があるから加奈子の部屋にでも行ってきたら?」

「え、そんな。」

心臓がぴょんと跳ねて、両手をわたわたとさせる。

「うん、そうしよっか。」

そう言って立ち上がる加奈子の背中を、俺は黙って追いかけた。


ガチャ。

「うわ~、ここも懐かしいな。」

6畳半の部屋には西日が差し込んでいた。

ベッドやタンスが相変わらず広々と場所を占領している。

そこに前はなかった化粧台があり、見知らぬ化粧品がずらりと並んでいた。

「あれ、これ何だ?」

窓辺にある大きな植木鉢が目に入った。

俺でも両手で抱えてようやく持ち上がるほど大きい。

「あ、それは。」

「なんかごつごつした木だな。

葉っぱも白っぽいし、こんなの育てているのか?

もっと綺麗な花とかにしろよ。」

「…!!…うん。」

あまりにも小さな返事に、振り向くと彼女は俯いていた。

「あ、まだウサギのぬいぐるみあった。」

「そうなの。私の大事な友達なんだから。」

一瞬にして彼女の声は元に戻り、ニコニコとしていた。

「何だか間違い探ししているみたいで楽しいな。」

「武くんがうちに来るのなんて、10年ぶりだもんね。」

「そうだな。中学の卒業以来か?」

「そうそう!時間が経つのは早いよね。」

パッと彼女の顔はまた明るくなり、昔話に花が咲いた。


「すみません。こんな時間までお邪魔して。」

気が付けば9時になっていて、外はすっかり暗くなっていた。

「いいのよ。また遊びに来て。」

おばさんは疲れた顔をせず、ずっとニコニコしたままだ。

「じゃあ、加奈子。またね。」

「うん、また!!」

俺が何度振り返っても、彼女はいつまでも大きく手を振っていた。

「今日は今月一の冷え込みらしいけどな。」

星空が広がる空の下、俺はちっとも寒いと感じなかった。


「おはよう。母さん、朝ごはん何?」

瞼を擦りながら俺は居間に入った。

「あんた、やっと起きた。

昔からちっとも起きないんだから。」

「休みなんだからいいじゃん。」

ぼさぼさになった頭を掻きながら、欠伸をした。

「そうじゃなくて、昨日鈴木さんの家に行ったんでしょ?」

「うん、行ったけど?」

「鈴木さんのお家、夜中火事になったみたいよ。」

その言葉に心臓はドクン大きな音を鳴らし、全身に血を巡らせた。

「ほら、ここ。」

手渡された回覧板には、間違いなく彼女の家について書かれていた。

「ちょっと、娘が一人病院に運ばれたってあるじゃないか!!

何で早く言わないんだよ!!」

「だから、何度も起こしたけど、起きなかったんじゃない。」

俺の背筋はゾッと悪寒を走らせ、手が震えた。

「ちょっと、病院に行ってくる。」

「え、朝ごはんは?」

「ごめん、後にする。」

俺は急いで身支度を整え、寒空の下に飛び出した。

ピンと張り詰めた朝の冷たい空気が、鼻腔をひんやりとさせる。

「無事でいてくれよ。」

白い息を頻繁に吐きながら、ただただ俺はそれを願った。


ガラガラガラ。

「加奈子!!」

病室のドアを開けると、ベッドで彼女が座っていた。

おばさんと座って話していた彼女は、驚いてこっちを向いた。

「加奈子、大丈夫か?怪我したのか??」

俺は一気にベッドの横まで進み、跪いて視線を合わせた。

「え?え?」

彼女の瞳孔が激しく揺らぎ、視線は俺からおばさんへと移った。


「ねえ、お母さん。この人誰?」


息を切らし、火照った体が一瞬にして熱を失った。

「な、何言っているの、加奈子。武くんじゃない。」

「知らないよ。」

小さく首を振るだけで、俺の胸を八つ裂きにするのには十分だった。

「あ、あはは。失礼、しました。」

俺は小さく言葉を漏らして、病室をトボトボと出た。


「ねえ、武くん。ちょっと待って。」

廊下に出るとおばさんが追いかけてきた。

「あの子、昨日の火事でショックを受けているのよ。

きっとすぐに思い出すから、ね。」

ポンポンと優しく肩を叩かれると、その勢いで涙が落ちてしまいそうだった。

「また、来ますね。」

何も言い返せないおばさんを置いて、俺は寒空へと再び身を置いた。


月曜日。

再び俺のいつもの生活が始まった。

「おい、週の始めだというのに元気がないな。」

手が止まって画面を見たままの俺に、先輩が声を掛けてきた。

「い、いえ。そんなことないですよ。」

言葉の最後で、先輩から視線を落としてしまった。

「週末実家に帰ったんだろう?

親と喧嘩でもしたのか?」

先輩が俺の肩に手を乗せて、顔を寄せてきた。

「そんなんじゃないんです。ただ…。」

「ただ、どうかしたのか?」

真っすぐと見つめてくる先輩の二つの目。

「ただ、疲れちゃっただけです。」

俺はいつものように笑顔を張り付けた。

「ま、無理だけはするなよ。」

ポンポンと俺の肩を叩いて先輩は自分のデスクに戻った。

その肩の感触がいつまでも残っていた。


週末、俺は再び加奈子の家に向かった。

家は二階部分が焼けてはいたが、他は無事のようだった。

「すみません。加奈子さんいますか?」

玄関から出てきたおばさんは、前のような笑顔を向けてくれなかった。

「うん、ちょっと今散歩に行っているからうちで待つ?」

どこかぎこちなさを感じながら俺は家に入った。


「それで、加奈子は?」

目の前に出された紅茶に手を付けず、俺は聞いた。

「うん、ケガも軽かったからすぐに退院したわ。

けど、何故か武くんのことだけは覚えていないの。

他はいつも通りなんだけど。」

おばさんも紅茶に手を付けず下を向いたままだった。

時計のカチカチという音だけが二人の間に刻まれる。

「実はね。あの火事、あの子の部屋から起きたの。」

「えっ?」

紅茶の水面がゆらゆらと揺れた。

「夜中に彼女の部屋から声がしてね。

目が覚めたらすごい強い花の香りがして。

それで部屋に行ったら、火の中であの子が泣いていたの。」

「どうしてそんな…。」

俺は背中に何かうごめく気配を感じ、唾を飲みこんだ。

「あの子何度も『ごめんね』って言いながら、鉢を抱えていて。

おかげで腕とか軽いやけどになっちゃったんだけど。」

言葉が途切れ、紅茶を飲もうとしたけれど、手が震えて諦めた。

「あの、部屋を見に行っても。」

「いいわよ。あの子も今は別の部屋に移ったし。」

どんな味か知らないまま冷めた紅茶を残し、二階へ上った。


ドアを開けると、ここだけ黒が支配する空間だった。

ピンクのカーテンはちりちりに焦げ、外の光で満ちていた。

「なんかすごい匂いですね。」

どこかで嗅いだことがある花の匂いが部屋に満ちている。

「それは、この鉢からね。」

おばさんが指さしたのは、窓辺にある大きな植木鉢だった。

「あの子が火事の時に抱えていたのがこれ。

いつもこれに話しかけながら水を上げていたのよ。」

そう言われても、そこには何も残っていない。

けれど、それを見るだけで心がぐしゃっとなりそうだった。

「あの、おばさん。これ持って帰っていいですか?」

鉢を見つめたままの俺に、おばさんはハッと振り向いた。

「あの子もこれを見ると辛そうだし、いいけれど。

こんなに重たいもの持って行ってどうするの?」

「分かりませんが、これがとても気になるんです。」

俺が静かにそう返すと、

「まあ、他ならぬ武くんが言うなら。いいわよ。」

俺は両手で鉢を持ち上げると、背後にライターがあった。

それを見て心がかき乱されながら、家を後にした。

加奈子と顔を合わせることもないまま。


ガチャ。

「ふー。ただいま。」

玄関に鉢を置いて、俺はドカッと座った。

「あれ、武、また帰って来たの?

ってすごいラベンダーの匂いね。」

「へ?ラベンダー?」

息を整えている俺は、母を見上げた。

「これ、加奈子が持っていたのもらってきた。」

「ああ、そういうこと。懐かしいわね。」

母は遠いものを見るように、目を細めた。

「懐かしいって何が?」

「あら、あんた。忘れちゃったの?中学のときのこと。」

「え?どういうこと?」

頭の奥で何かがぐちゃぐちゃと疼き出したのを感じた。

「ほら、中学の卒業式の時に、あんた加奈子ちゃんにラベンダー贈ったでしょ。」

「あ!!」

ぐちゃぐちゃとしたものがスッと解け、景色が見えた。

「そうだ、これ俺があげたラベンダーか!!」

「きっとそうよ。母さんも選ぶの手伝ったんだから。」

俺の頭の隅に、セーラー服を着た彼女が浮かぶ。


『ねえ、加奈子。これ。』

『え?ラベンダー?』

『高校はバラバラだけど、また会おうな。』

『うん!!待ってるね!』


景色が見えた途端、俺の胸はギュッと締め付けられた。

「けど俺が見た時ラベンダーっていうより木だったけど。」

「あんた、それって…。

あのね、ラベンダーは長く育てるとそうなるの。

もしかしてあんたが贈った花をずっと育ててたんじゃないの?」

「まさか、10年も前に贈ったのなんて枯れてるよ。」

俺は笑って答えたが、母の顔を見たら、笑顔も消えた。

「あのね、武。

ラベンダーはちゃんと手入れしていれば何年も持つものなの。

けれど、10年はかなり大事にしないと育たないものなのよ。」

「ってことは、本当に俺のラベンダーなのか?」

何も言わずに小さく頷く母に、昨日の加奈子の顔がよぎる。


『なんかごつごつした木だな。

葉っぱも白っぽいし、こんなの育てているのか?

もっと綺麗な花とかにしろよ。』


『あの子が火事の時に抱えていたのがこれ。

いつもこれに話しかけながら水を上げていたのよ。』


「あ、あああ。」

俺の胸は捻じられたように悲鳴を上げ、その逃げ場を涙に託した。

「俺は、なんてことを!!」

「ちょっと、武?」

「うわぁぁ。」

俺は心のままに、大粒の涙をこぼした。

胸が痛いと叫ぶから、俺はもう止められなかった。

「大丈夫だから。ね、武。」

背中をさする母の手が、心まで撫でているようだった。


「ほら、もう落ち着いた。」

「うん。ありがとう。」

どれくらい時間が経ったか分からない。

それでもずっと母は側にいてくれた。

「俺、決めた。これに水をやる。」

「え?この何もない鉢に?」

「きっとまだ根は生きているはず。

だから諦めなければきっと。」

俺が噛みしめるように言うと、母は黙って頷いた。


「おはよう。今日もいい天気だぞ。」

それから俺が最初に朝の挨拶をするのは、何もない鉢になった。

都内の狭いワンルームではかなり場所を取っている。

「今日も仕事頑張ってくるから、留守番頼んだよ。」

けれど、俺はどんな家具よりもなくてはならないものに思えた。


「今日は契約一件取って来たぞ。」

家に帰ると、鉢に声を掛ける。

何も返事がない。何も伝わらない。

「早く出て来いよー。」

それでも俺は毎日飽きずに声を掛け続けた。


ピンポーン。

「あ、武さん。いらっしゃい。」

「よっ、加奈子遊びに来たぞ。」

2月。

寒さがさらに強まる中、俺は最近やっと彼女に話してもらえるようになった。

「いつもお土産いただいてすみません。」

「いいんだよ、加奈子が喜んでくれるなら。

それで最近どう?」

「もう毎週同じこと聞いているじゃないですか。

そんなに色々変わりませんって。」

「そうだよな。あははは。」

胸はズタズタに痛んだが、どうにか笑顔を顔に張り付けた。

「あの武くん。ちょっといいかしら。」

二階に上がろうとしたら、おばさんに居間に招かれた。

加奈子を先に部屋に上げ、居間に入ると時計の音だけが小さく聞こえた。

「あのね、武くん。あの子と会うのはもうやめてくれない?」

「なんでそんなことを…!!」

唇をキュッと噛んで俯くおばさんを見ると、言葉を失った。

「あの子すっかり元気になって元通りになったの。

武くんとの記憶以外は。

今はあの子も武くんと仲良くなったわ。

けど、あの子いつもあなたが帰った後部屋で泣いているの。

理由を聞いても分からないっていうし、私も見ていると辛いの。」

おばさんの声は震え、目尻の涙を指で拭きとった。

「けど、あともう少しなんです。だから…。」

「加奈子だけじゃない。あなたを見ていても辛いのよ。

どうか武くんの本当の人生を歩いて。お願いだから…。」

俺は肩から力が抜け、目の前で泣く女性にかける言葉が見つからなかった。


「おはよう。今日もいい天気だぞ。」

それでも俺は、何もない鉢に声掛けと水やりだけは止めなかった。

外は温かな陽気が溢れ、春の訪れを讃えていた。

「思いっきりお日様浴びて、芽を出すんだぞ。」

胸はズキズキ痛みを訴えながらも、俺は明るい声で話しかけた。

「それじゃ、仕事行ってくるから。」

何の匂いもしない味気ない部屋を残し、俺はドアを開けた。


ある晩、とても鮮明な夢を見た。

学ランを着た俺が、小さな鉢を両手で大事に抱えて走っている。

インターフォンを押すと、心臓がとてつもなく早く叩いていた。

「あれ、武くん?」

玄関に立つセーラー服の加奈子。

「ねえ、加奈子。これ。」

俺は両手を差し出し、鉢を渡す。

そこにはまだ花がない、葉っぱが揺れていた。

「え?ラベンダー?」

「えっと。ラベンダー、の葉っぱ。まだ咲いてない。」

「あはは。武くん普通は咲いた花を贈るものよ。」

俺は空になった両手を下げられないまま、顔を真っ赤にしている。

「あの、ここから育てたら綺麗な花が咲くから。

高校はバラバラだけど、これが咲いたら、また会おうな。」

「うん!!待ってるね!」


目を覚ますと、俺の枕元は涙で濡れていた。



「野々宮くん、最近どう?成績よくないみたいだけど。」

オフィスでまた先輩が俺に絡んできた。

「別に。ただ調子が悪いだけですよ。」

「お前にしては珍しいよな。何かあったのか?」

肩にポンと手を乗せて来た。

「別に何もありませんよ。

心配していただきありがとうございます。」

俺はまた顔に笑顔をべったりと付けた。

「そうか。けど何かあったら言えよな。」

俺の肩を揉んでいた先輩の手がそっと離れた。

「あの、先輩。実は…。」

俺は気づけば先輩に加奈子のことを話していた。


「そうか、幼馴染が自分のことを忘れちゃったのか~。」

非常階段の踊り場を背に、先輩は煙草の煙を吐いた。

俺は奢ってもらった缶コーヒーを手に持ったまま立っていた。

「先輩が同じ状況になったら、どうします。」

のぞき込むように先輩を見ると、俺に煙草を突きつけ、

「信じて待つ。それだけだな。」

「え?それだけですか?」

「もうできることはすべてやったんだろ?

なら、後はその子のことを信じてやるしかないよ。」

その言葉で、俺の胸を震わせ温かさが湧きだした。

「ま、また辛くなったら相談しろよ。

今度はお酒奢ってやるから。」

「はい!!」

階段を上っていく先輩に、俺は貼りものではない笑顔を見せた。


それからも鉢に声と水を上げるだけの日々が続いた。

気が付けば、スーツで出歩くと汗ばむほどになっていた。


はぁ、はぁ、はぁ。

俺は汗だくになりながら、インターフォンを押した。

「はーい。あれ、武さん。久しぶり。」

「やあ、加奈子。元気だった?」

すっかり薄着になった彼女が玄関から出てきた。

「ええ。よかったら家に上がっていきますか?」

「その前に、これを渡したくて。」

そう言って俺はしゃがんで、大きな鉢を持ち上げた。

「え!それって私の。」

「うん、遅くなったけど。返しに来たよ。」

彼女は口を押さえながら、ゆっくりと近づいてくる。

「なあ、俺たち約束しただろう。

また会う時のこと。」

「うん、うん!!」

彼女は駆け出し、俺に抱きついた。

「ずっと、ずっと待っていたよ。武くん。」

「ごめんな。ずっと待たせて。」

俺は鉢を置いて、彼女を抱きしめ返した。

「武くん。約束を守ってくれて、ありがとう。」

青空の下、小さなラベンダーの花が風に揺れていた。

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コモンラベンダー 藤沢ローリング @fujisawa-rolling

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