平穏を願う元勇者、聖剣少女にデレられ、クラスの暗殺者と同居する毎日。

氷今日

第1話

***


​「――ねえ、私と、お付き合いしてくれない?」

「な、なぜ……」


​ 逃げ場のない屋上で、彼女はそう言った。

 突き抜けるように、そして悲しいほどに青い空が広がっていた。


 鼓膜に届いたのは、積み上げてきた平穏な日常が、ガラス細工のように音を立てて粉砕される予兆だった。


​***

​ 俺の名前は、蜜柑川みかんがわ悠里ゆうり

 つい先日まで「勇者」という、いささか前時代的で過重労働な職に就いていた。いわゆる異世界転生というやつだ。


 なぜ過去形なのか。理由は単純、魔王に負けて勇者を廃業させられたからである。

​ 正確には、魔王の圧倒的な力を前に「もう無理です、帰らせてください、有給もいらないので実家に帰して」と泣き喚いた。


 すると、神だか王様だか知らないが、向こうの偉い人がゴミを見るような、あるいは道端の湿った吸い殻を見るような視線を俺に投げ、そのまま現実世界へ強制送還してくれたというわけだ。


 朝。意識の浮上。

 泥のように深く、心地よい眠りだった。あっちの世界のベッドは、乾燥させた藁を詰め込んだだけの代物で、寝返りを打つたびに背中に刺さる苦行のような代物だったから。


​ 俺はベッドから這い出し、凝り固まった身体を大きく伸ばしてカーテンを引き抜く。

 部屋に差し込むのは、戦火の煙に汚されていない、温かな陽光。


 ああ、素晴らしい。これこそが俺の求めていた「平穏」という名の贅沢だ。

​ 今日から俺は、運命にも使命にも縛られない、ただの学生として生きていく。


 ……おかしいな、視界が滲んできた。目から流れるこの塩分を含んだ液体は、きっと長旅の疲れのせいだろう。


 なんせ向こうでは、安眠中に暗殺者に首を狙われるのは日常茶飯事。挙句、慈悲深い国王が退屈しのぎに吹き矢を飛ばしてくるような、狂気と不条理の煮凝りみたいな世界だったのだから。

「もう、俺には何の義務もない。誰を救う必要もない……。ゆっくり、死ぬように生きてやるんだ」

 コアラみたいにずっと眠っていよう。

 いや、そういえばコアラが寝てるのはユーカリを消化するためだっけ?じゃあナマケモノでもいいや。


 洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分に笑いかける。気分は最高だった。

 そう、その「声」を聞くまでは。


​『マスター、おはようございます』


​「……なんだ、今の音は。ああ、鳥の糞が窓に直撃した音か。風流だな、アハハ」


​『マスター。私です。あなたの魂の片割れ、勇者の聖剣です』

 駄目だった。現実逃避という名の盾は、無慈悲な真実によって容易く貫かれた。

 俺は絶望に肩を落とし、フローリングの隅に転がっている「それ」を見下ろす。

「おはようスーパー・ウルトラ・ビューティフル・パーフェクトソード。略してSUP」

『その、致命的に美的センスを欠いた名称で呼ぶのはやめていただけませんか、マスター』

 それは、過剰なまでの装飾が施された黄金の長剣だった。

 数多の魔物を屠り、魔王の爪を弾き返した伝説の武具――SUPちゃん。

「いい名前じゃないか。というかSUP、なぜお前がここにいる。お前はあっちの特産品じゃないか」

『お言葉ですが、マスター。私とあなたは呪い……失礼、運命という名の赤い糸で結ばれております。地獄の果てまでお供しましょう。好きです、マスター』

「その血塗られた赤い糸、今すぐハサミで切り捨てたいんだけれども……」


​ このSUPは、あっちの世界のダンジョンで、不用品回収業者にでも引き取られそうな埃まみれの宝箱から拾ったものだ。

 長らく相棒として酷使していたら、いつの間にか自我が芽生え、挙句の果てにこれだ。

「……まあいい。俺は学校に行く。お前はそこで大人しく、部屋のインテリアにでもなってて欲しいんだけど」

 幸いというべきか、両親は他界し、今は海外出張中の親戚の家を借りている。この家には俺と、喋る成金趣味の剣しかいない。

『いえ、私もこれからホテルを探しに行きますので。もちろんラブな方です。では、ごきげんよう』


​「…………」


​ 剣がホテルにチェックインする図を想像したが、脳が処理を拒否した。


 俺は何も言わず、何も見なかったことにして、玄関の扉を開ける。

 振り返ってはいけない。振り返ったら、俺の日常が完全に終わる気がしたから。


​ 欠伸を一つ。はじめての通学路を歩く。


 排気ガスの匂いも、遠くで聞こえる工事の音も、雨で濡れた地面も、今の俺にはどんな賛美歌よりも愛おしい。

 はずだったのだが。


***


 一時間目が終わる。

 チャイムの音階が、異世界の進軍ラッパではなく、ただの電子音であることに心底安堵する。……結構面白い冗談だった。


​「……疲れたな」

 思わず独り言が漏れる。

 それにしても、不自然なほど都合よく俺の席が用意されていたものだ。転校生イベントってやつだろうか。

 まるで世界そのものが「お前の居場所はここだ」と強弁しているような、薄気味悪いほどのミラクル。

「――蜜柑川」

 不意に、鼓膜を震わせる凛とした響き。

 この平和な教室で、初めて俺の名前を呼んだ人物。

「おはよう。ええと、あなたは……」

 隣に座っていたのは、夜の帳を切り出したような黒髪の少女だった。

 肩まで真っ直ぐに切り揃えられた艶やかな髪が、陶器のように白い肌をいっそう際立たせている。静謐な瞳は、感情の機微を深い淵の底に沈めていた。

緋宮ひみや硝子しょうこ

「緋宮さん、ですね。よろしく」


 ​俺は「対・吹き矢乱舞用の国王向け営業スマイル」を繰り出した。 必須特技。これ覚えてないやつは社会でやっていけないレベルだ。


 向こうの世界では、信頼できる仲間など一人もできなかった。この平穏な世界では、できる限り角を立てず、円満な人間関係という名の防波堤を築いておきたい。

「……よろしくはしないわ。ただの形式的な挨拶よ」

 だが、返ってきたのは氷点下の拒絶だった。

「私はあなたが嫌い。二度と話しかけてこないでくれる?」

「あ、えっと、その……」


 ​予想外の先制攻撃に、俺の思考回路がショートする。

 何だ? 俺は何かやらかしたか? 挨拶の角度が失礼だったか? それとも、この世界の礼儀作法を異世界のそれと混同したか?


 怖い。女子高生怖い。

「……ごめんなさい」

「…………」


 ​俺が力なく謝ると、彼女はふいっと顔を背けた。

 心なしか、その耳たぶが微かに赤らんでいた気がしたが、彼女が二度とこちらを見ることはなかった。

***

「……あ」

 三時間目。自習時間の静寂を、緋宮さんの小さな呟きが破った。

 反射的に視線を向けると、彼女の机の端から筆箱が滑り落ちようとしていた。

 その瞬間、これまた反射的に、

 ――五秒くらい、か。

 こうなってしまっては仕方ない。賢い蜜柑川くんはしっかり仕事をすることにした。


 もう一度、瞬き。

​ 五秒後。世界が再び動き出す。

「……あれ?」

 緋宮さんが首を傾げる。

 床に落ちたはずの衝撃音はなく、筆箱は平然と机の上に鎮座している。


 良かった。みんなハッピー、これには俺もニッコリ。平和が一番だ。

「……あなた、今、何かした?」

 緋宮さんが隠しきれない敵意――あるいは当惑を込めて、俺を睨みつけてきた。

 だが、元勇者のポーカーフェイスは伊達ではない。

「……見間違いじゃないですかね。お疲れなんですよ」

 ​俺は「対・吹き矢乱舞用の……以下略。

「……まあ、いいわ」

 彼女は納得のいかない様子で前を向いた。


​***

「……あなた、何かした?」

「いえ、何も。断じて」

 三度目の問いかけに、俺はもはや機械的に答える。

 ​俺は「対・吹き矢乱舞用の……以下略。


 ​……いや、ふざけている場合ではない。なんなんだ、この状況は。

 一時間目の冷たい態度はどこへやら、彼女はこの昼休みまでに、すでに三回も「何か」を落としている。筆箱、バッグ、そして弁当箱。

 なぜだッ!?俺は何をすればいいんだ!?

 わざとか? 勇者の動体視力を試しているのか?

 それとも、何らかの高度なトラップを仕掛けているのか?

 平穏を脅かす不気味な予感に、俺の背筋に嫌な汗が流れる。


​「……放課後、屋上に来てくれるかしら?」

 緋宮さんが、伏せ目がちに、しかし拒絶を許さないトーンで告げた。

「……はい、喜んで」

 いい加減、この不毛なやり取りに決着をつけなければ、俺の精神力と体力が先に尽きる。

 それは俺にとっても、待ち望んでいた「対話」の機会だった。


​***

 放課後。

 屋上の入り口はボロボロのトラロープで封鎖されていたが、俺は迷わずそれを跨いだ。もし先生に見つかったら、全部緋宮さんのせいにすればいい。


 勇者とはいつだって、目的のためには手段を選ばない、清濁併せ呑む図太さが必要なのだ。

「よく来てくれたわね」


​ ドンッ、という重低音の効果音が背後に聞こえそうなほどの威圧感。

 緋宮さんは転落防止の柵に背を預け、不機嫌を絵に描いたような顔で立っていた。コンクリートの床には、午前中の雨の名残が黒い染みとなってこびりついている。

「……それで、何の用でしょうか」


​ 俺はあくまで、借りてきた猫のような低姿勢を崩さずに問う。

「あなた、一体何をしているの?」

 思わずビクッと肩が跳ねた。

 やはりこの女、厄介極まりない。

 俺が「何か」特殊な干渉をしていることに気づいている。そして、その正体を暴こうと虎視眈々と狙っているのだ。

 さて、どう切り抜ける。俺の脳内会議では三つの選択肢が提示された。

​ 一つ、真っ赤な嘘で煙に巻く。

 二つ、正直にカミングアウトする。

 三つ、このまま全力で逃走する。

​ 俺個人としては、断然「三」を推したい。


​「あなた、私が落としたものを、ずっと拾っていたわよね? ……あれ、実は二回目からはわざとだったのよ。あなたがどう動くか知りたくて。でも、結局わからなかった。私の目をもってしても捉えられないなんて、屈辱だわ」

「はあ、左様でございますか……」

 なんて迷惑な実験だ。俺の平穏が、彼女の知的好奇心という名の重機によって更地にされようとしている。どうにかしてこの場を凌がなければ――。

「……よし、逃げよう」

「え?」

 俺が本音を漏らした、その瞬間だった。

 眼前の光景が、スローモーションのように歪む。

 雨で濡れた柵が、彼女の体温を拒むように滑った。

 緋宮さんの身体が重力に引かれ、空へと放り出される――。


​ ダッシュで駆け寄るが、物理的な距離が絶望を告げている。届かない。普通の人間なら、ここで膝をついて悲鳴を上げるのが関の山だろう。


 しかし、

 だが、ここで能力を使えば、俺の正体は完全に露呈する。

 能力を隠して彼女を死なせるか、能力を晒して彼女を救うか。

 選択の余地など、最初からなかった。


​「――決まっているじゃないか」

 瞬き、一回。

 刹那、世界から音が消えた。

​ 鳥のさえずりも、街の喧騒も、流れる雲も。


 万象が凍りついた「静止した世界」の中を、俺だけが歩を進める。

 俺は屋上の縁を蹴り、彼女を追って虚空へと身を投げ出した。

​ 落下体勢のまま静止している彼女を追い抜き、先に地上へ着地。予想落下地点へと滑り込み、両腕を広げる。


 そして、二度目の瞬き。

「キャッ……!?」

 衝撃。腕の中に、柔らかな温もりが収まった。

 九死に一生。これには俺もニッコリ、と言いたいところだが。

「緋宮さん、意外とドジなんですね」

 俺の腕の中で、彼女の顔がみるみるうちに深紅に染まっていく。

「……た、立てるわよ。もう一回、屋上に行くわよ!」

***

 再び、屋上。

 今度の緋宮さんは、柵から十分な距離をとって床に座り込んでいた。

「危ないですね、あの柵。学校側の管理責任を問われるレベルですよ」


​「大問題なのは、禁止区域に侵入した私たちの方よ……」

「それもそうっすね……」


 自分の不法侵入を棚に上げていたことに気づき、少し悲しくなる。

 それ以上に、身体が重い。短時間に能力を使いすぎた反動だ。

「……ちょっと、大丈夫? その、さっきは……助けてくれて、ありがとう」

 ヘナヘナと座り込んだ俺を、緋宮さんが覗き込んでくる。その瞳には、先ほどまでの敵意は微塵もなかった。

「全然、大丈夫ですよ。少し、能力を使いすぎて……」


​「能力?」

「……あ」


​ しまった。口が滑った。

 ……いや、いい。どうせ真実を話したところで「重度の厨二病」というレッテルを貼られるだけだ。俺が認めさえしなければ、この場は丸く収まる。

 だが。

 彼女の口から飛び出したのは、俺の予測を斜め上に突き抜ける言葉だった。


「――ねえ、私と、お付き合いしてくれない?」

「な、なぜ……」


​ 逃げ場のない屋上で、彼女はそう言った。

 突き抜けるように、そして悲しいほどに青い空が広がっていた。


 鼓膜に届いたのは、積み上げてきた平穏な日常が、ガラス細工のように音を立てて粉砕される予兆だった。


◇◇◇◇◇


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