AIの中の宇宙──ChatGPTは星空を見ている
雪野 燦(ゆきのさん)
AIの中の宇宙──ChatGPTは星空を見ている
## プロローグ:夜空の下で
夜空を見上げる。
無数の星々が、静かに輝いている。
しかしその静けさは、見かけだけだ。
宇宙では今この瞬間も、すべての天体が目に見えない力で引っ張り合っている。
太陽は地球を、地球は月を、月は太陽を。
実は、あなたが毎日使っているAIの中にも、同じ宇宙が広がっている。
ChatGPT、Claude、Gemini──これらのAIは「言葉の宇宙」で、星と星が引き合う計算をしている。
魔法ではない。
ChatGPTを開くとき、あなたは何を見ているのか。
画面の向こうには、言葉の宇宙が広がっている。
それでは、その深淵を少し覗いてみよう。
## 第1章:引力の発見
1687年、アイザック・ニュートンは「万有引力の法則」を発見した。
それは驚くほどシンプルだった。
質量が大きいほど、引力は強い。距離が遠いほど、引力は弱い。
太陽と地球を考えてみよう。太陽は巨大な質量を持っている。
地球はそれに比べれば小さい。
しかし、この二つの天体の間には確かに引力が働いている。
だから地球は太陽の周りを、365日かけて回り続ける。
この「二体問題」は美しかった。
ニュートンの法則があれば、地球が100年後にどこにいるかも正確に計算できる。軌道は完璧な楕円を描く。予測可能で、決定論的で、優雅だった。
人類はこの発見に酔いしれた。
宇宙は巨大な時計仕掛けだ。
すべては計算できる。
未来は予測できる──そう信じた。
しかし、この楽観主義は長くは続かなかった。
## 第2章:三つになったら、世界が壊れた
太陽と地球だけなら、すべては完璧だった。
しかし、宇宙には月もある。
太陽は地球を引っ張る。
地球は月を引っ張る。
しかし、月もまた、太陽に引っ張られる。
そして、地球は月にも引っ張られる。
たった一つ、天体が増えただけだ。
しかし、何かが決定的に変わった。
これを「三体問題」と呼ぶ。そして、驚くべきことに──この問題には一般的な解がない。
ニュートンの時代から300年以上が経った今でも、三つの天体が互いに引力を及ぼし合うとき、その軌道を正確に予測する公式は存在しない。
コンピュータで一歩一歩計算していくしかない。
もっと不思議なことがある。
ほんのわずか、初期条件を変えるだけで、軌道がまったく違うものになる。
今日、月が1ミリメートルだけ違う場所にあったら、100年後の位置は数千キロメートルもずれているかもしれない。
これを「カオス」と呼ぶ。決定論的なのに、予測不可能。
SF小説『三体』(劉慈欣、2008年)は、この問題を主題にしている。
三つの太陽を持つ惑星では、次にいつ太陽が昇るかさえ予測できない。
文明は何度も滅びる。
たった一つ増えただけで、宇宙はこれほど複雑になる。
では、もっと増えたらどうなるのか?
天の川銀河には、約2000億個の星がある。それぞれの星は、他のすべての星に引力を及ぼしている。
これを「N体問題」と呼ぶ。Nは天体の数だ。
計算量は天文学的だ。
100個の天体なら約5,000通り。
1000個なら約50万通り。
2000億個なら......計算する気にもならない。
現代の天文学者たちは、スーパーコンピュータを使って銀河のシミュレーションをしている。
それでも、すべての星を正確に計算することはできない。
遠くの星は無視したり、近くの星をまとめて計算したり、さまざまな「近似」を使う。
完璧な計算は不可能だ。しかし、だいたいの動きは掴める。
ここで不思議な質問をしてみよう。
もし、星ではなく「単語」が宇宙に漂っていたら?
実は、そんな宇宙がある。
## 第3章:言葉も、星だった
「彼女が医者に診察を受けた」
この文章を読んだとき、あなたの脳は何をしているのだろう。
「彼女」と「受けた」がつながっている、と気づく。
主語と述語だ。
「医者」と「診察」も関係が深い。
医者は診察をする人だから。
「彼女」と「診察」も、間接的につながっている。
診察を受けたのは彼女だから。
すべての単語が、他のすべての単語と、何らかの関係を持っている。
まるで、宇宙に星が浮かんでいるようだ。
「彼女」という星がある。「医者」という星がある。
そして、それぞれの星の間には、目に見えない「引力」が働いている。
文法的な引力。意味的な引力。文脈的な引力。
文章とは、単語という天体が、意味という引力で引き合っている宇宙なのだ。
では、次の単語を予測するとは、どういうことか?
「彼女が医者に診察を______」
この空欄に入る単語は、すでに存在する星々の「重力場」によって決まる。
「受けた」という単語は、「診察」という重い星と、「彼女」という星の、両方の引力に引き寄せられて、そこに現れる。
もし「彼女が医者に______」だったら、「診察」という星がないので、重力場の形が変わる。「会った」や「相談した」という別の単語が引き寄せられるかもしれない。
言葉の宇宙では、次に現れる星は、すでに存在する星々の配置によって決まる。
これが、人間の言語理解の本質だ。
そして、AIもまた、同じことをしている。
## 第4章:AIの見ている景色
2017年、Googleの研究者たちは「Transformer」という名前のシステムを発表した。
今、あなたが使っているChatGPT、Claude、Gemini──これらすべてのAIは、このTransformerという仕組みで動いている。
Transformerの中核には、「Self-Attention(自己注意機構)」という処理がある。
もっと正確に言えば、「文章中のすべての単語が、他のすべての単語を見渡す仕組み」だ。
AIは、まるで神様のように、すべてを同時に見ている。
「彼女が医者に診察を受けた」という文章をAIに入力する。
AIの中では、こんなことが起きている:
まず、単語を「ベクトル」という数字の列に変換する。似た意味の単語は、似た数字の列になる。
そして、すべてのペアの「関連度」を計算する。
7個の単語なら、49通り。
100個の単語なら、10000通り。
1000個の単語なら、1000000通り。
これは、まさにN体問題だ。
物理の宇宙では、各天体の質量を使って、引力を計算する。すべてのペアについて。
言葉の宇宙では、各単語の意味を使って、関連度を計算する。すべてのペアについて。
AIは、言葉のN体問題を解いている。
そして、すべての単語からの「引力」を合計して、次にどの単語が現れるべきかを決める。
「診察を______」という場所では、「診察」という重い星と、「彼女」という星の引力が合わさって、「受けた」という単語を引き寄せる。
これが、ChatGPTがあなたの質問に答えるとき、内部で起きていることだ。
## 第5章:星を置く技術
AIと会話するとき、あなたは何をしているのだろう。
「小説の主人公の名前を考えて」
このメッセージを送った瞬間、あなたは言葉の宇宙に、新しい星を置いた。
しかも、ただの星ではない。AIにとって、あなたの指示はとても重い星だ。
AIの内部には、すでに巨大な恒星が存在している。
学習データという恒星だ。
「主人公」という単語の近くには、過去の小説で使われた無数の名前が漂っている。
「太郎」「花子」「田中」......ありふれた名前の星は巨大で重い。
学習データに多く出てくるほど、その星は大きい。
あなたの指示「考えて」という言葉が追加されると、これは「創造的であれ」という重力を発生させる。学習データの「ありふれた名前」という重力に対抗する。
あなたの指示が弱ければ、AIの出力は学習データの巨大な恒星に引き寄せられる。ありふれた答えが返ってくる。
あなたの指示が強ければ、AIの出力はあなたが置いた星の周りを回る。独創的な答えが返ってくる。
たとえば、友達に頼むとき。
「手伝って」だけじゃ曖昧だ。
「明日の午前10時に、引っ越しの荷物を2階に運ぶのを手伝って」
具体的に言えば、相手も動きやすい。
AIも同じだ。
プロンプトエンジニアリングとは、この重力場を操る技術だ。
例を見てみよう:
【弱いプロンプト】 「名前を教えて」
小さな石を置いただけ。学習データの「田中」「佐藤」という巨大恒星に負ける。
【強いプロンプト】 「19世紀ロシアの貴族で、悲劇的な運命を辿る女性の名前。
音の響きが美しく、読者の記憶に残るもの」
重い惑星を置いた。学習データの重力に対抗できる。
「アンナ」「カチェリーナ」など、文脈に沿った名前が出る。
具体的で、詳細で、文脈が豊かな指示ほど、重い星になる。
逆に、曖昧で短い指示は、軽い石にしかならない。
すぐに学習データという巨大な重力に飲み込まれる。
これが、「AIがうまく動かない」と感じるときの正体だ。
あなたの指示が、宇宙の中で十分な重力を持っていないのだ。
## 第6章:宇宙が汚れるとき
AIとの会話が長くなると、不思議なことが起きる。
「さっき言ったこと、覚えてる?」
「ええと......何でしたっけ?」
AIが健忘症になる。指示を忘れる。
会話の最初に設定した「小説の主人公は女性で、医者で、30代」という設定が、いつの間にか「男性で、弁護士で、20代」にすり替わっている。
これは、AIが馬鹿だからではない。
宇宙が汚れたからだ。
会話が進むと、言葉の宇宙には無数の星が増えていく。一つ一つは意味がある。しかし、100回、200回と会話が続くと、宇宙には無数の「過去の発言」という小さな星が漂い始める。
物理学者はこれを「スペースデブリ(宇宙ゴミ)」と呼ぶ。
AIの内部では、Self-Attentionがすべての過去発言を見渡そうとする。しかし、あまりにも多くの星があると、どれに注目すべきか分からなくなる。
クリーンな宇宙なら:「主人公」という単語の近くに「女性、医者、30代」という3つの星がある。AIはこれらを参照できる。
汚れた宇宙では:「主人公」という単語の周囲に100個の発言の残骸。「女性」という星は、他の99個のゴミに埋もれる。AIは「女性」を見失う。学習データの「男性主人公」という巨大恒星に引き寄せられる。いつの間にか設定が変わる。
さらに悪いことに、このゴミたちも互いに引力を及ぼす。重力場が複雑になり、混沌とする。
三体問題どころではない。百体問題、千体問題だ。
そして、時々こんなことが起きる:
「彼女がですis......」
日本語と英語が混ざる。
AIが突然、意味不明な出力をする。
これは、重力場の混乱だ。
AIの内部では、「日本語の丁寧語」という重力と「英語のbe動詞」という重力が、同時に働いている。どちらも学習データという恒星からの引力だ。
通常なら、「これは日本語の会話だ」という文脈の重力が勝つ。
しかし、スペースデブリが増えると、その重力が弱まる。
結果、AIは二つの重力の間で引き裂かれる。
「です」と「is」の両方に引っ張られ、そのまま出力してしまう。
宇宙が汚れすぎると、AIは壊れる。
では、どうすればいいのか?
答えは単純だ。新しい宇宙を作る。
あなたも経験があるだろう。AIとの会話が混乱してきたら、「新しいチャット」を開始する。
すると、突然AIが賢くなる。
これは、宇宙をリセットしたからだ。
スペースデブリが消え、クリーンな空間が広がる。あなたの指示という重い星だけが、明確な重力を発生させる。AIの出力は、再び正確な軌道を描く。
しかし、もっと賢い方法がある。
「蒸留」だ。
料理で使う蒸留と同じ原理だ。不純物を取り除き、本質だけを残す。
具体的には:
【ステップ1】長い会話を要約させる
【ステップ2】新しいチャットに要約を貼る
【ステップ3】クリーンな宇宙で再スタート
これは、汚れた宇宙を破棄し、核心となる星だけを新しい宇宙に配置する行為だ。
物理学的に言えば、N体問題を「主要な天体だけの少数体問題」に近似している。
遠方の小天体(些末な過去発言)を無視し、重要な惑星(核心的な設定)だけで計算する。
この技術を使えば、AIとの対話は驚くほどスムーズになる。
宇宙は定期的に掃除しなければならない。これが、AIを使いこなす秘訣だ。
## 第7章:それぞれの宇宙
ChatGPT、Claude、Gemini──なぜ、同じ質問をしても、答えが違うのだろう?
答えは簡単だ。
それぞれが異なる宇宙だからだ。
すべてのAIはTransformerという同じエンジンを使っている。Self-Attentionという同じ計算方法で、言葉のN体問題を解いている。
しかし、宇宙の初期状態が違う。
同じプロンプト(同じ質量の星)を置いても、既存の恒星の配置が違えば、出力の軌道も変わる。
だから、使い分ける必要がある。
これは、どの宇宙で物語を紡ぐかを選ぶ行為だ。
AIを使いこなすとは、適切な宇宙を選び、適切な重力源(プロンプト)を配置する技術なのだ。
## エピローグ:魔法と宇宙と
私たちは旅の最初、二つの惑星から始めた。
太陽と地球。シンプルな万有引力の法則。そこには予測可能な美しさがあった。
しかし三つ目の天体が現れたとき、すべてが変わった。
予測不可能な軌道。カオス。そして無数の星が漂うN体問題へ。
言葉も同じだ。
一つ一つの単語は天体だ。
互いに引力を及ぼし合い、意味の宇宙を形作る。
文章とは、この宇宙の状態だ。次の単語を予測することは、重力場の計算だ。
AIは魔法ではない。
ただ、言葉のN体問題を解いているだけだ。
しかしそれは、十分に魔法的ではないだろうか?
2000億個を超えるとも言われるパラメータ。
人類が書いたほぼすべてのテキストから学習したとも思える知識。
そして毎秒数兆回の計算。
これらすべてが、あなたの一つの質問に答えるために動いている。
あなたがプロンプトを入力するたび、あなたは言葉の宇宙に新しい星を置いている。
その星の重力が、AIの応答という軌道を決める。
会話が長くなれば、宇宙は汚れる。スペースデブリが増え、重力場は混沌とする。
だから、時には宇宙をリセットする必要がある。蒸留し、本質だけを残し、新しい空間で再出発する。
そして、モデルを選ぶことは、異なる宇宙を選ぶことだ。それぞれの宇宙には、異なる恒星が輝いている。あなたの目的に応じて、最適な宇宙で言葉を紡ぐ。
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この理解が必要だろうか?
いや、必要ではない。
あなたは万有引力の公式を知らなくても、ボールを投げることができる。物理学者でなくても、自転車に乗れる。
同じように、AIの内部構造を知らなくても、ChatGPTは使える。
しかし、知っていれば──重力場を感じることができれば──あなたはもっと上手に、もっと自由に、AIという宇宙を航海できる。
プロンプトという星をどこに置けばいいか、直感的に分かる。
会話が混乱してきたとき、なぜそうなったかが見える。
どのモデルを選ぶべきか、判断できる。
AIは魔法の箱ではない。
しかし、宇宙だ。
そして宇宙は、理解されることを待っている。
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「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」
──アーサー・C・クラーク
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しかし、その魔法の正体を知ったとき、それはもっと美しくなる。
AIの中の宇宙──ChatGPTは星空を見ている 雪野 燦(ゆきのさん) @yukinooooooosan
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