最後の晩餐部

深渡 ケイ

第1話:空腹と、味のしないパンケーキ

ガラス越しの陽が、白い皿の上でやけにきらめいていた。


「はい、限定いちご雲パンケーキでーす。ふわっふわ、崩れやすいのでお気をつけて」


店員が皿を置いた瞬間、湊の目が光る。湯気の向こうに、いちごの赤、ホイップの白、ミントの緑。金色の粉糖がふわっと舞って、照明に反射する。


「……勝ったな」


向かいの席で友達が笑う。


「何がだよ。まだ食ってねえじゃん」

「食う前に勝負は決まってんだよ。ほら見ろよ、この高さ。雲だぞ、雲」


湊はスマホを構え、皿にぐっと寄る。角度を変え、ほんの少し斜め上から。ストローの影が入らないように、飲み物を端へずらす。


「ちょ、邪魔。お前のカフェオレ、主役の横に立つな」

「主役ってパンケーキだろ。お前じゃねえのかよ」

「俺は監督。主演はこいつ」


カメラのシャッター音が短く鳴る。湊はすぐに画面を確認し、眉間にしわを寄せた。


「……いちごのツヤが死んでる」

「もう一回撮れよ。いちごに失礼だぞ」

「失礼とか概念あるのか、いちごに」


湊は指で画面をタップし、露出を上げる。ホイップが白飛びしないギリギリ。ミントの緑が生きるところ。


「よし。これだ」


指が滑り、編集アプリが開く。彩度、少し上。シャドウ、少し下。あとは、光を柔らかく。


「お前、料理の味よりフィルターの味のほうがわかってるよな」

「味は舌で、映えは目で。目のほうが信用できるだろ」


「意味わかんねえ」


湊は笑って、キャプションを打つ。


『限定。雲の上でいちご狩り。』


「おい、詩人かよ」

「短いほうが刺さるんだよ。ハッシュタグは……」


指が踊る。#限定 #ふわふわ #いちご #カフェ巡り #映え


投稿ボタンを押した瞬間、胸の奥に小さな火花が散った気がした。画面の上に「投稿しました」の文字。湊は椅子にもたれ、満足げに息を吐く。


「はー……これで今日も生きた」


友達がフォークを持ち上げる。


「で、食わねえの?」

「食う食う。証拠用に一口は必要だろ」


湊はフォークを入れる。ふわ、という抵抗のなさ。切れた断面がぷるんと揺れる。ホイップをまとわせ、いちごソースの赤を少しつけて、口へ。


「……あっま」


「え、うまくね?」

「甘い。甘すぎ。脳がバグる」

「甘いのが売りだろ、パンケーキは」

「売り方が強すぎる。俺、もういい」


湊はフォークを皿の端に置いた。もう一口いけば慣れる気もしたが、舌がその気にならない。視線はすでにスマホの通知へ吸い寄せられている。


画面が震える。


「早っ、もういいね付いてる」

「お前の人生、反応速度でできてんな」

「速いのは正義」


湊が画面をスクロールする横で、友達がパンケーキを一口食べて目を細めた。


「うわ、マジで雲。ふわふわだわ」

「雲は写真で十分だろ」

「いや、食えよ。もったいねえ」


「もったいないって言うけどさ」


湊は皿をちらっと見て、すぐ視線を戻す。ホイップがゆっくりと形を崩し始めている。いちごソースが皿の縁へ流れて、赤い線になった。


「俺、味わって食うっての、よくわかんねえんだよな」


友達が鼻で笑う。


「可哀想なやつ」

「可哀想とかじゃなくて、効率。映えた時点で役目終わり」


スマホの通知がまた一つ増える。湊は指で心臓マークを押し返しながら、立ち上がった。


「え、帰んの?」

「次の店行く」

「まだ昼だぞ」

「昼だから回れるんだろ。ほら、俺のストーリー見て。『今ここ』って上げるから、次も人来る」


「お前、店の回し者かよ」

「回し者じゃなくて、回す者」


湊はレジへ向かい、会計を済ませる。店員が笑顔で言った。


「お味、いかがでしたか?」

「めっちゃ映えました!」


「……ありがとうございます」


一瞬、店員の笑顔が止まった気がしたが、湊は気にしない。外に出ると、風が甘い匂いをさらっていく。


「なあ湊」

「ん?」

「お前、ほんとに腹減ってんの?」

「減ってるよ。減ってるけど、別に何でもいい。写真が撮れりゃ」


友達が呆れたように肩をすくめる。


「それ、空腹の使い方間違ってるだろ」

「間違ってねえって。世界はさ、映えでできてんだよ」


湊はスマホを掲げ、空の青を一枚撮った。画面の中の空はやけに鮮やかで、現実より少しだけ嘘っぽい。


「ほら、こっちのほうがうまそうだろ」


そう言って笑い、歩き出す。背中に、カフェの甘い匂いがいつまでもついてくるのに、湊の胃は、軽いままだった。



湊はスマホを掲げたまま、旧校舎の廊下をふらふら歩いていた。


壁のひび割れ、窓ガラスの埃、床板の軋み。全部が「レトロ」で、フィルターをかけなくてもそれっぽい。


「旧校舎、映える。……はず」


シャッターを切ろうとして、指が止まる。


すん、と鼻が動いた。


「……え、なにこの匂い」


次の瞬間、腹がきゅうっと鳴った。昼のパンケーキ、写真は盛れたのに味はよく分からなかった。そのくせ、今の匂いはやけに分かる。喉の奥が勝手に唾を作って、口の中が忙しい。


「出汁? やば……」


一歩。もう一歩。


匂いが濃くなる。廊下の先、扉が半開きになっている。古い木の札がぶら下がっていて、字がかすれて読みにくい。


湊はスマホのカメラを向け、ピントを合わせた。


「……『最後の晩餐部』?」


「なにそれ。厨二か?」


笑いながら、扉を押した。


ぎい、と情けない音がして、温かい空気が溢れてくる。出汁の香りが、顔にぶつかった。


「うわ、ほんとに料理してんじゃん……」


部屋は理科室みたいに広く、机がいくつも並んでいる。窓辺にカセットコンロ。その上に土鍋。蓋の隙間から、白い湯気がのぼっていた。


そして、その土鍋の前に——少女がいた。


制服の上に、エプロン。髪はゆるく結ばれていて、頬に湯気が触れるたび、薄く光る。目を閉じて、顔を土鍋に寄せ、湯気をゆっくり吸い込んでいる。


まるで、香りを食べてるみたいに。


「……」


湊は思わず、スマホを下ろした。


少女は、吸って、止めて、吐く。そのたびに唇がわずかに開いて、何かを味わうみたいに喉が動く。


「……うま……」


小さく、そう呟いた。


湊の口が勝手に開く。


「いや、うまって。食ってないじゃん」


声に気づいたのか、少女がぴくりと肩を揺らした。目を開ける。驚いた顔、次に、すぐ笑顔。


「……あ。いらっしゃい」


「いらっしゃいって、店?」


湊が部屋を見回す。皿も箸も出てない。あるのは土鍋と、湯気と、匂いだけ。


少女は土鍋から顔を離して、少し背筋を伸ばした。笑いながら、湊の方へ軽く手を振る。


「うん、店じゃないけど。ようこそ、最後の晩餐部へ」


「晩餐部って、なに。そんな部活あんの?」


「あるよ。今できた」


「今!?」


「今、君が開けた瞬間に、存在が確定した」


「なにその量子力学みたいなノリ」


湊がツッコミを入れると、少女は楽しそうに笑った。笑い声が、出汁の香りに混ざって、やけに軽い。


「君、迷子?」


「いや、映え探し。旧校舎って言われたら、来るじゃん」


「映え……」


少女がその単語を口の中で転がすみたいに呟いて、土鍋を見た。


「なら、これも映えるよ」


「これ?」


湊が土鍋に近づく。蓋の隙間から、湯気がふわっと顔に触れた。昆布と鰹の、深い匂い。胃が反射で動く。


「うわ……やば。腹減る匂い」


「うん。お腹、鳴った」


「鳴ってないし」


「鳴った。二回」


「監視されてんの? 音フェチ?」


少女は肩をすくめた。


「匂いは、音も連れてくるから」


「意味わかんないけど、なんか詩っぽいな」


湊はスマホを持ち上げ、土鍋を撮ろうとする。湯気がレンズを曇らせた。


「ちょ、曇る……拭くもの……」


「ふふ。湯気って、写真にしにくいよね」


「湯気がメインって、料理としてどうなの」


「料理じゃないもん」


少女は言い切って、また土鍋に顔を寄せた。吸い込む。ほんの一瞬、瞳がうっとりと細くなる。


湊は眉をひそめる。


「……え、まじで、これ嗅いでるだけ?」


「うん」


「え、なに、香水みたいな?」


「香水より、ちゃんとお腹いっぱいになるよ」


「なるわけ」


湊が笑って否定した瞬間、少女の喉が小さく鳴った。咳——ではない。けれど、息が一拍だけ引っかかったように見えた。


次の瞬間には、何事もなかったみたいに笑っている。


「なるよ。私は、なる」


「……へぇ」


湊は深刻に受け取らず、土鍋の前に立った。匂いを吸う。熱が鼻腔に入り、口の中に旨味の影が広がる気がする。


「……あ、確かに。なんか、食った気になる……かも」


「でしょ?」


少女の目がきらりと光った。


「君、素直」


「いや、匂いが強すぎるだけ。てか、これ何の出汁?」


少女は胸の前で指を組み、嬉しそうに答えた。


「今日はね、昆布と鰹。あと、秘密」


「秘密って、なんだよ」


「秘密は、味を濃くするの」


「うさんくさ」


湊が笑うと、少女も笑った。けれど笑いの途中、口元がふっと止まって、視線が一瞬だけ土鍋の向こう——部屋の隅に置かれた小さなバッグへ流れた。


バッグの横に、白い小瓶が見える。ラベルは読めない。


湊は気づかないふりで、土鍋を覗き込んだ。


「で、これ、食べられるの? 俺、普通に腹減ってんだけど」


「食べられないよ」


「え」


「でも、食べられる」


「どっちだよ」


少女は指を一本立てた。


「君が話してくれたら」


「話す?」


「うん。君の『食べた記憶』。おいしかったやつ。誰と、どこで、何を。細かく」


湊は目をぱちぱちさせた。


「それ、部活?」


「部活」


「変な部活だな……」


「変じゃないよ。ちゃんと生きる部活」


湊はその言い方が妙に大げさで、逆に笑ってしまった。


「生きる部活って。厨二レベル上がったな」


少女はむっと頬をふくらませるふりをして、すぐに吹き出した。


「じゃあ、君は? 今日、何食べたの」


「パンケーキ」


「いいね。甘いやつ?」


「見た目だけは最強。味は……」


湊は言いかけて、言葉を探す。口の中に残っているはずの甘さが、思い出せない。


「……味、あんま覚えてない」


少女は土鍋の湯気を指先で掬うみたいにして、ふわりと笑った。


「じゃあ、覚えてる味からでいいよ。君の言葉で、作って」


「作ってって……俺、料理できないけど」


「料理じゃないって言ったでしょ」


少女は自分の胸に手を当てた。


「私は、物語を食べるの」


「……は?」


湊が間抜けな声を出すと、少女は嬉しそうに頷いた。


「物語の味は、最高だよ」


湊は土鍋を見て、湯気を見て、少女を見た。


「……やべえ、マジで変なとこ入った」


少女はにこっと笑って、名札もない胸元を指でちょんと叩いた。


「私は紬。最後の晩餐部、部長」


「部長、いきなり過ぎ」


「君は?」


「湊。……てか、勝手に入ってごめん。ここ、立ち入り禁止とか?」


「禁止じゃない。むしろ、歓迎」


紬は湯気の向こうで手を広げた。


「お腹すいてる顔の人、大好き」


湊は反射で腹を押さえた。


「顔に出てる?」


「出てる。すっごく」


「うわ、恥ず」


紬はまた土鍋に顔を寄せ、香りを吸い込む。恍惚とした横顔が、湯気にぼやける。


湊はその横顔を見ながら、なぜか小さな声で言った。


「……てかさ。普通、味って食わないと分かんなくね?」


紬は目を閉じたまま、ふふ、と笑った。


「分かるよ。君がちゃんと話してくれたら」


湊はスマホを握り直す。画面には、さっき撮った廊下の埃っぽい写真が残っている。ここで撮るべきは土鍋だ。湯気だ。部活名だ。変な部長だ。


なのに、指がシャッターに行かない。


「……じゃあ、話すわ。映えのために」


「うん。映えのために」


紬は同じ言葉をなぞるように言って、湯気の向こうで笑った。その笑い声の最後が、ほんの少しだけ掠れた気がしたが、湊は「湯気のせいだな」と勝手に決めた。


「で、何から?」


「一番おいしかったやつ」


湊は天井を見上げる。


「一番……」


出てこない。家の食卓の記憶が、白く抜けている。代わりに浮かぶのは、コンビニの光、ファミレスの照明、誰かの笑い声。


湊はその空白を、冗談で埋めるように言った。


「……やば。俺、食のエピソード薄いわ。生きる部活、向いてないかも」


紬は首を横に振った。


「薄いなら、濃くすればいい」


「出汁みたいに?」


「そう。君の言葉で」


湊は肩をすくめて、口を開いた。


「じゃあさ、最近のやつでいい? 昨日、駅前のラーメン屋——」


紬がぱっと顔を上げた。湯気が揺れて、瞳がまっすぐ湊を射抜く。


「ラーメン、いい」


その目の真剣さに、湊は思わず笑ってしまう。


「そんなガチで食いつく? ラーメンに?」


「食いつくよ。私は、食べるから」


湊は頷いて、言葉を探し始めた。湯気が、二人の間で静かに立ちのぼり続けている。土鍋の中身は見えないのに、匂いだけが、確かにそこにあった。



湊がコンロの火をひねると、鍋の底で水が小さく震えた。部室の窓は半分だけ開いていて、夕方の風がカーテンを持ち上げる。テーブルの上には紙皿と、粉と、牛乳のパック。買ってきたばかりのホイップと、いちご。


「よし。映えの神、降臨しろ」


湊はスマホを構え、まずは材料の集合写真を撮る。角度を変え、光を探し、指でピントを合わせる。画面の中のいちごだけがやたら元気に赤い。


「……ねえ」


背後から、紬の声。


湊は振り返りながら、片手で親指を立てた。


「見てて。パンケーキ界のインフルエンサーになるから」


「鍋」


「ん?」


紬がコンロのほうを顎で示す。湊が覗き込むと、鍋の中は透明なままだった。ぷつ、ぷつ、と泡が上がっているだけ。


「……あれ?」


湊はおたまで混ぜた。もちろん何も変わらない。


「水、入れたっけ」


「入れてたの、湯だけ」


「いや、ちょっと待って。粉は?」


「テーブル」


紬は笑っている。笑っているのに、目だけが妙に冷静で、湊の手元を見逃さない感じがした。


湊は慌ててボウルを引き寄せ、粉をざばっと入れる。牛乳を注ぐ。卵を割る……つもりで、卵がないことに気づく。


「……卵、どこ」


「買ってない」


「え」


「買い物係が、買ってない」


「買い物係って俺だよね!?」


「うん」


紬は机に肘をついて、湊の顔を覗き込んだ。


「湊って、料理より撮影が先なんだね」


「当たり前だろ。だってさ、見た目が命じゃん」


「命」


紬がその単語だけ、口の中で転がした。笑いに紛れて、ほんの一瞬、喉の奥で何かが引っかかったみたいに咳を飲み込む仕草をする。すぐにいつもの調子に戻るけど。


「じゃ、命のないパンケーキ、焼こっか」


「命あるよ。ほら、ホイップもいちごもあるし」


「骨格だけ整えて、魂入れないタイプ?」


「なんだよそれ。魂って何。幽霊かよ」


紬は「幽霊だよ」とでも言いそうな目をして、鍋の湯気を見ていた。湊が気づく前に、すっと笑って首を振る。


「焼ける? 卵なしで」


「焼ける焼ける。ホットケーキミックスって万能だから」


湊は自信満々にフライパンを出した。油をひき、ボウルの生地を流し込む。じゅわ、と音がして、丸が広がる。


「ほら、見て。いい感じ」


スマホを近づけ、湊は連写する。湯気が立つ瞬間、表面のぷつぷつ、フライパンの黒。フィルターを変えて、色を盛る。


「……その写真、見せて」


紬が指を差す。湊は画面を彼女の前に差し出した。


「どう? 映えすぎて泣く?」


紬は画面を覗き込む。目が細くなる。次の瞬間、ふっと息を吐いた。


「ゴミの味」


「は?」


湊の指が止まった。焼き面の匂いが甘く漂っているのに、紬の言葉だけが冷たい。


「ゴミって言った?」


「言った」


「え、なんで!? まだ食ってもないのに!」


「食べなくてもわかるよ」


紬はスマホの画面から目を離さず、淡々と言った。


「それ、魂がない」


「魂ってさっきから何なの。スピってんの?」


「スピってない」


「じゃあ何だよ。パンケーキに魂とか、意味わかんないんだけど」


湊は反射的にスマホを引っ込めた。画面の中のパンケーキは、確かにきれいに丸い。いちごを乗せれば完璧だ。なのに、紬の一言で、急にそれがただの画像に見えたのが腹立つ。


「見た目、最高じゃん。これでいいね取れたら勝ちだろ」


「勝ち、って何に?」


「……SNSに」


紬はぱち、と瞬きをした。笑うのをやめないまま、湊のほうに顔を向ける。


「湊のパンケーキは、湊のためだけに焼いてる」


「当たり前だろ。俺が焼いてるんだから」


「ほら」


「ほらって何!?」


紬は指で空中に小さな丸を描いた。


「湊の写真は、湊が自分を食べさせるためのごはん。お腹は膨れるかもしれないけど、味がしない」


湊は鼻で笑った。


「味、するわ。ホットケーキは甘い。あと、ホイップ。いちご。優勝」


「それ、材料の味」


「材料の味で十分だろ」


「十分じゃない」


紬が言い切った瞬間、フライパンから焦げる匂いが立った。


「うわ、やば」


湊は慌ててフライ返しを滑り込ませてひっくり返す。片面が少し濃い茶色になっていた。


「ほら、逆に香ばしい。むしろ加点」


「加点方式なんだ」


紬は笑った。笑いながら、唇の端を指で押さえる。歯を見せない笑い方。いつもそうだったっけ、と湊は一瞬だけ思って、でもすぐに「女子っぽいな」で片づけた。


「で? 魂って結局、何」


湊は焼けた生地を皿に移し、ホイップを絞る。いちごを切って、上に乗せる。完成した瞬間だけは、確かにテンションが上がった。


「はい。魂、宿りました」


スマホを構えて、湊は皿を少し傾ける。光がホイップに当たって白く輝く。いちごの赤が映える。


「……見て」


紬が皿じゃなく、湊の手元を見た。


「何」


「その手、震えてる」


「え? これ?」


湊は自分の指を見た。確かに少しだけ揺れている。さっきからスマホを握りっぱなしだからだろう。


「撮りすぎただけ。プロだから」


「プロ」


紬はまた同じようにその単語を転がして、今度はすぐ笑った。


「じゃあ、プロのパンケーキの魂、私にちょうだい」


「食わないのに?」


「食べるよ。話で」


「出た。最後の晩餐部のやつ」


湊は皿をテーブルの真ん中に置き、椅子を引いてどかっと座った。


「言っとくけど、俺の語彙力はホイップ並みに軽いからな」


「軽いほうがいい。口どけがいいから」


紬は皿に顔を近づけた。鼻先で香りを拾うみたいに。けれど、すぐに視線を逸らして、湊のスマホの画面に指を伸ばす。


「まず、その写真。……それ、ゴミ」


「まだ言う!?」


「だって、湊が『いいね』に食べさせようとしてる顔してる」


「顔? 俺の顔関係ある?」


「ある」


紬は笑ったまま、目だけを細めた。


「湊、今、誰に作ってる?」


湊は即答する。


「俺のフォロワー」


「だから、魂がない」


湊は椅子の背に体重を預け、腕を組んだ。


「魂って便利な言葉だな。気に入らないもの全部、魂ないで片付けられる」


「便利だよ。生きるのに必要だから」


紬はさらっと言った。さらっと言いすぎて、湊の反発が一瞬だけ空振る。


「……生きるのに必要って、大げさ」


「大げさじゃないよ」


紬は皿のパンケーキを見つめた。笑顔のまま、目の奥だけが真剣で、湊はそこに妙な重さを感じた。けど、すぐに自分で笑ってしまう。


「なにそれ。マジで幽霊かよ、紬先輩」


「幽霊なら、湊のパンケーキ食べた瞬間に成仏しちゃうかもね」


「成仏させてたまるか。部活、始まったばっかだろ」


湊は身を乗り出し、指を一本立てた。


「わかった。じゃあ、魂入れてやるよ。俺が語って、紬先輩が満腹になって、俺がバズる。三方よし」


紬が「バズるは余計」と言いかけた、その瞬間。


ふっと、彼女の笑顔が一拍だけ遅れた。まばたきの間に、頬の色が薄く見えた気がした。


でも次の瞬間には、いつもの明るさで言う。


「じゃあ、聞かせて。湊のパンケーキの物語」


湊は胸を張った。


「よし。まず、このホイップがさ——」



湊が最後の晩餐部の部室に足を踏み入れると、まだ昼のざわめきが廊下に残っていた。室内は妙に静かで、窓際のカーテンだけがゆっくり揺れている。


テーブルの上には、電気ケトルと紙コップ。あと、なぜか大きめの丼がひとつ。


「よし。じゃあ入部テストね」


紬が、いかにも楽しそうに丼を両手で持ち上げた。顔色は明るい。笑い方も、さっき廊下で見た「陽キャの部長」そのものだ。


「入部テストって、何するんすか。腕立て? 早口言葉?」


「うん、似てる。早口言葉のほう」


「早口言葉?」


「言葉で食べさせて」


紬はケトルのスイッチを押す。カチ、と小さな音。赤いランプが点いた。


「これ、ただのお湯だよね?」


湊が覗き込むと、透明な水面が揺れているだけだ。


「ただのお湯。はい」


「じゃあ、何を……」


紬は丼を指でとんとんと叩いた。


「このお湯が、どんな味のうどんなのか証明して」


「……うどん?」


「うどん」


「え、うどん入ってないっすよね?」


「入ってない」


「じゃあ、証明できなくないっすか」


「できるよ。あなたの言葉なら」


湊は思わず笑った。


「いやいや、俺、詐欺師じゃないんで」


「詐欺師は、嘘をつく人でしょ」


紬がにこっとする。笑ってるのに、目だけがまっすぐ刺さってくる。


「私は、嘘が食べられないの。適当も。盛ったのも」


「え、でも……SNSとか、みんな盛るじゃないすか」


「盛ったご飯って、腹壊すよ」


さらっと言うのに、妙にリアルだった。


湊は丼の中のお湯を見た。透明で、湯気がうっすら立ちのぼる。匂いもしない。


「えーと……じゃあ、こういうのは? めっちゃコシがあって、つゆが——」


「ストップ」


紬が手を挙げた。


「今の、食べ物じゃない。広告」


「広告?」


「『めっちゃ』って言った瞬間、味が消えた」


湊は口を尖らせる。


「いや、でも、うどんって大体コシあるじゃないすか」


「大体、って言った瞬間、また消えた」


「厳しっ」


「厳しいよ。最後の晩餐部だもん」


「最後の……って、名前、重っ」


「重いのが売り」


紬は椅子に座り、紙コップを両手で包んだ。指先が細い。手首のあたりに、袖から覗く白いテープみたいなものが一瞬見えた気がして、湊は反射的に視線を外す。


「それ、絆創膏? ケガ?」


「んー、そうそう。ケガ」


紬は笑って、話を戻すみたいに丼を湊のほうへすっと押した。


「はい。お湯」


「いや、ただのお湯……」


「このお湯を、うどんにして」


「無茶ぶりすぎる」


「できないなら、帰っていいよ」


軽い口調なのに、退路が消える言い方だった。


湊は喉を鳴らす。教室でのノリなら「無理無理!」で逃げられる。でも、この部室の空気は、逃げたら負けって顔してる。


「……証明って、どうやって?」


「私が食べて、うどんだったら合格。お湯だったら不合格」


「味見すんすか」


「うん。聞いて味見する」


「それ、どういう仕組み……」


「説明は後。まず、作って」


紬は背筋を伸ばして待つ。期待というより、審判。


湊は丼を見つめた。透明の中に、何もない。何もないのに、ここで何かを出せと言われている。


「えー……じゃあ、まず、うどんの種類から……」


「逃げない」


「逃げてないっす」


「逃げてる。うどんの種類じゃなくて、あなたが食べたうどん」


「俺が……食べた……」


湊の頭に、白い湯気と、麺のつや、つゆの色が浮かびかける。けど、すぐに薄くなる。


「俺、あんま味わって食べるタイプじゃなくて」


「知ってる」


紬が即答した。


「知ってるって、何で」


「パンケーキ、味しなかったでしょ」


湊はぎくっとして、笑って誤魔化した。


「いや、味はしたっすよ。たぶん。甘かった。たぶん」


「たぶんは、いらない」


紬は紙コップを口元に運びかけて、止めた。咳がひとつ、喉の奥でひっかかるみたいに小さく鳴った。


「……大丈夫すか?」


「大丈夫。いつもの」


言い切る速さが、逆に「いつも」じゃないみたいで、湊は「部活ってそういうノリ?」と変に納得してしまう。


「じゃあ、えーと……俺が食べたうどん……」


湊は目を閉じた。記憶を掘る。家の食卓は、思い出すと空っぽだ。冷蔵庫の明かり。ラップの皿。箸だけ。誰かの気配だけ。


「……コンビニの冷凍うどんとか?」


「それでもいい。ちゃんと食べたなら」


「ちゃんとって……」


紬が身を乗り出す。


「あなたの舌で。あなたの時間で。あなたの腹で」


湊は苦笑する。


「なんか、哲学……」


「料理だよ」


「じゃあ……冷凍うどん。レンチンしたやつで、つゆが——」


「つゆが、何」


「え、濃いめで……」


「濃いめ、じゃない」


紬の声の温度が一段下がった。


「濃いめって、あなたのどこが濃く感じたの」


「どこって……舌?」


「舌のどこ」


「……え」


「あなたは、何を食べたの」


湊は言葉に詰まる。自分が普段、味を「うまい」「やばい」「最高」で済ませてるのがバレていく感じがした。


「いや、普通に、うどんっすよ。うどんの味」


「うどんの味って何」


「……うどんの」


「何」


紬の笑顔が消えていた。消えたというより、置いてきたみたいに、表情が真っ直ぐになっている。


「湊くん」


呼び方が変わった。さっきまで「湊」だったのに、丁寧になった分だけ距離ができた。


「その言葉、私には入らない」


湊は丼の縁を指でなぞった。熱がじわっと伝わってくる。


「じゃ、じゃあ……俺、映える写真なら撮れるんすよ。うどんも。湯気の感じとか、麺のツヤとか——」


「写真は食べられない」


「いや、でも、見たら腹減るじゃないすか」


「腹が減るのと、食べるのは違う」


紬の声が鋭くなった。


「私は、飢えてるの。ずっと」


言葉が部室の床に落ちて、跳ねない。湊は笑うタイミングを失って、変に肩をすくめた。


「……えっと、じゃあ、もっと具体的に言うっす。麺が、こう……もちもちで」


「もちもち、じゃない」


「えぇ」


「あなたが今言ってるの、全部、借り物」


紬が丼に指先を落とす。水面が小さく揺れた。


「『もちもち』も『コシ』も『濃いめ』も。どこかの動画の字幕。誰かのレビューのコピペ」


「いや、そこまでじゃ……」


「そこまでだよ」


紬の声が強くなる。机がきしむ。湊は反射的に後ずさる。


「ここはね、嘘が一番まずいの」


「嘘ついてないっすよ! たぶん!」


「たぶんって言った」


「……」


「ねえ」


紬が笑おうとする。でも口角が上がりきらない。目の下に、ほんの少し影が落ちている。


「私、今、これをうどんにしてもらわないと、今日は何も食べられない」


湊は「え、そんな大げさな」と言いかけて、飲み込んだ。冗談にしては、紬の指先が紙コップを強く握っている。白くなっている。


「……じゃあ、どうすればいいんすか」


「あなたが食べたうどんを、思い出して」


「思い出って……」


「一回でいい。たった一杯でいい」


紬は息を吸って、吐く。短い。咳を噛み殺すみたいに唇を押さえ、すぐに手を離した。


「湊くん。適当な言葉、出したら——」


「出したら?」


「怒る」


「いや、今も怒ってるじゃないすか」


「今のは、まだ前菜」


前菜がこれなら本番は何だ。湊は乾いた笑いを漏らして、頭を掻いた。


「わかったっす。……ちゃんと、やる」


紬は頷いた。頷き方だけは、さっきまでの明るい部長に戻る。


「うん。じゃあ、作って」


湊は目を閉じる。自分の「食べた」がどこにあるのか探す。


冷凍うどん。レンジの音。器。湯気。……家じゃない。もっと、ちゃんと「一緒に」食べたやつ。


ふと、去年の夏祭りが浮かんだ。屋台の明かり、汗、友達の笑い声。腹が空いて、何でもうまかった夜。


「……あ」


湊が目を開けた。


「思い出した」


紬の目が、わずかに大きくなる。


「言って」


湊は丼のお湯を見た。透明なのに、湯気が少しだけ甘く見える気がしてきた。


「夏祭りでさ、うどん食ったんすよ。屋台の」


「うん」


「紙の器で、持つとふにゃってなるやつ。熱くて、指先がじんじんして」


紬の肩が、ほんの少し下がった。緊張がほどけたみたいに。


「つゆが……あれ、醤油っていうより、だしが先に来る感じで。最初、鼻に、ふわって——」


「鼻に、何が」


「……かつお。たぶん、かつお節の匂い。あと、海みたいな……昆布っぽい、丸い匂い」


紬の喉が、こくりと動いた。


湊は続ける。


「麺は、屋台だからさ、そんな上等じゃない。でも、伸びかけてて、それが逆に、腹に落ちる感じで」


「伸びかけてて、どう落ちるの」


「……噛むより先に、つるって入ってくる。熱いのに、喉が『来い』って言うみたいな」


紬の指先が、丼の縁に触れる。触れた瞬間、熱に驚いたように少し引っ込めた。


「それで、上にねぎが乗ってて。青いとこが、ちょっとだけ苦くてさ。つゆの甘さが、その苦さで締まる」


「甘さ?」


「うん。砂糖の甘さじゃなくて……だしの甘さ。飲むと、舌の奥がじわって温まる」


紬が、目を閉じた。まぶたが震えるほどじゃない。ただ、静かに落ちる。


「……それ、食べた?」


「食べた。めっちゃ……じゃない。ちゃんと、食べた」


湊は自分で言って、少し照れた。


「友達とさ、ベンチで。汗だくで。『熱っ』って言いながら、笑って」


紬の口元が、やっと柔らかく上がる。


「そのとき、何が一番おいしかった?」


湊は少し考えて、正直に言った。


「……つゆ、最後に飲み干したとき」


「どうして」


「胃が、空っぽだったから。あったかいのが落ちてって、『生き返る』って感じがした」


紬は目を開ける。そこにさっきの鋭さはない。ただ、確かめるみたいな光。


「……合格」


湊は肩の力が抜けた。


「よっしゃ。俺、天才かも」


「天才じゃない。今のは、あなた」


紬は紙コップを持ち上げる。唇をつける直前、また小さく咳が漏れた。すぐに笑ってごまかすみたいに、湊へ丼を押し返す。


「そのお湯、もううどんだよ」


湊は丼を見て、首を傾げた。


「え、でも、相変わらず透明っすよ?」


「見た目はね」


紬は丼の湯気に顔を近づける。吸い込むように、ゆっくりと。


「……あ、かつお」


ぽつりと呟いて、紬は笑った。


その笑いが、さっきより少しだけ薄く見えたのは、湯気のせいだと湊は思った。部室の窓から差す光が、たまたま顔色を白くしただけだ、と。


「じゃ、入部ってことで?」


湊が言うと、紬は頷いた。


「うん。最後の晩餐部へようこそ。湊くん」


その言い方が、歓迎というより、何かを預けるみたいで。


湊はそれを「部長のノリ、重いなあ」と軽く受け取って、丼を持ち上げた。


湯気が、確かにうどんの匂いをしている気がした。



湊のスマホ画面には、さっき撮ったパンケーキの写真がでかでかと残っている。ふわふわ、メープル、バターの照り。なのに、口の中はずっと紙みたいに乾いていた。


「……で? 続きは?」


紬が机に肘をつき、頬杖のまま湊を見上げる。笑ってる。けど、笑いの奥に、ほんの一瞬だけ焦点が遠のくみたいな間がある。


「続きって、何の」


「味。湊くんの『映えるパンケーキ』の味。さっきから写真の話しかしてない」


「いや、味は……甘いだろ。パンケーキだし」


「雑」


「雑って言われても!」


湊が言い返すと、蓮が鼻で笑った。


「ほらな。偽物。食ったことあるやつの言葉じゃない」


「食ったわ! さっき食ったわ!」


「じゃあ言えよ。どんな甘さで、どんな匂いで、どんな温度で、喉にどう落ちた」


「……」


湊は口を開けたまま止まった。確かに食った。フォークで切って、口に入れて、飲み込んだ。けど、思い出そうとすると、写真の光沢しか出てこない。


紬がくすっと笑う。


「湊くん、味わうの苦手?」


「苦手っていうか……別に。普通だし?」


「普通って便利な言葉だね」


「便利って言うな!」


湊は椅子に深く座り直して、机の端を指でトントン叩いた。焦りが、指先から机に伝染するみたいだった。


蓮が腕を組んだまま、視線だけで刺してくる。


「無理すんな。帰れ」


「帰らねーし。俺、入部したし」


「入部届、まだ出してない」


「うるせ!」


紬が間に入るみたいに、両手をぱん、と軽く叩いた。


「はいはい。喧嘩はスパイスだけど、入れすぎると舌が死ぬよ」


「舌死ぬって何だよ」


「死ぬんだよ、舌は」


紬は冗談みたいに言って、でもその直後、喉の奥を押さえるように指先が触れた。ほんの一瞬。すぐ笑顔に戻る。


湊はそれを、ただの癖だと思って流した。


「じゃあさ。別にパンケーキじゃなくてもいいんだろ? 食べ物の話なら」


「うん。湊くんの“ちゃんとした”やつ」


「ちゃんとした……」


蓮が追い打ちをかける。


「写真の説明は禁止な」


「わかったよ!」


湊は天井を見上げた。頭の中を探る。焼肉。ラーメン。寿司。どれも、誰かの投稿で見た絵面ばっかり浮かぶ。自分の舌が覚えてるはずなのに、そこだけ空洞だ。


「……ないの?」


紬が覗き込んでくる。責める目じゃない。期待の目。腹を空かせた子どもみたいな、まっすぐな。


湊はその視線に、なぜか逃げ場を失った。


「あるよ!」


口が勝手に言った。


「ある。……えっと」


湊は言いながら、自分でも意外な方向に思考が滑っていくのを感じた。華やかな食べ物じゃない。映えない。地味で、薄い色で、湯気だけが立ってるやつ。


「……素うどん」


「すうどん?」


紬が目を瞬いた。蓮も一瞬だけ眉を動かす。


「具なしのうどん。ネギもなし。マジで白い」


「白いうどん、好きなんだ」


「好きっていうか……」


湊は言葉を探して、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。なんで今これが出てくるんだ。自分でもわからない。


「俺、小さい頃さ。風邪ひいた時があって」


「うん」


紬が、頷く。その頷きが、湊の背中を押した。


「熱出て、頭ガンガンして、鼻も詰まって。なんかもう、世界が全部ティッシュみたいでさ」


「例えが汚い」


蓮が突っ込む。湊は反射で言い返す。


「うるせ、今いいとこなんだよ!」


紬が笑って、口元に手を当てる。笑い声は小さい。でも、そこにちゃんと温度がある。


湊は続けた。


「で、母ちゃんが……普段はさ、あんま家にいないんだけど。その時だけ、台所に立って」


「……へえ」


紬の声が、少しだけ柔らかくなる。


湊は目を閉じた。思い出の中の台所は、やけに明るい。蛍光灯の白さじゃなくて、鍋から立つ湯気の白さだ。


「鍋の中で、うどんがさ、ぐわーって踊ってる音がして。ぐつぐつっていうか、ふつふつっていうか」


「聞こえる」


紬が小さく言う。湊はその言葉に、妙に安心して喋りやすくなった。


「で、だし。たぶん、めんつゆ薄めただけなんだけど……匂いがさ、鼻詰まってても入ってくるの。あったかい匂い」


「どんな匂い?」


「……湯気の匂い」


「それも便利な言葉」


「うるせぇ!」


湊が即ツッコミ返すと、紬が肩を揺らして笑った。笑った拍子に、ほんの一瞬だけ呼吸が乱れる。すぐに整えたけど、湊は「笑いすぎだろ」くらいにしか思わない。


「器が、でっかい丼でさ。白い。湯気がぶわって上がって、眼鏡曇って……あ、俺眼鏡じゃねぇわ」


「想像で曇らせたんだ」


「そうそう。で、麺が柔らかいの。箸で持つと、ちょっとだけ重くて、つるって……喉が痛いのに、つるって入る」


紬の目が、ゆっくり大きくなる。頬杖をやめて、両手で自分のカップを包むみたいに握りしめている。中身は空っぽなのに。


湊は気づかないふりのまま、言葉を重ねた。


「味は、薄い。塩っけも弱い。でも、その薄さがちょうどよくてさ。舌が熱でバカになってても、あったかいのだけはわかる」


「……あったかいのだけはわかる」


紬が同じ言葉をなぞる。唇が、その音を確かめるみたいに動く。


蓮が、黙って紬を見ている。湊を見る目の刺さり方が、さっきより少しだけ弱い。


湊は続けた。止まったら、何かが壊れそうな気がした。理由はわからない。


「母ちゃんがさ、『食べな』って言って。俺、返事もしないで、ずるずる食って。途中でむせて、咳して」


「咳」


紬の喉が、かすかに上下する。


「……で、母ちゃんが水持ってきてくれた。冷たい水。うどんの熱さの後の水って、なんか、世界がクリアになる感じするんだよ」


「わかる」


紬が即答した。声が少し弾んでいる。


湊はそこで、ようやく自分の胸の奥に、ちいさな灯りみたいなものがあるのを知った。いいねの数字とは違う、誰かが「わかる」と言ってくれる熱。


「別にさ、豪華じゃないし。映えないし。写真撮っても白いだけだし」


「白いだけ、好き」


紬が言う。笑いながら。けど、笑い方がさっきより静かで、丁寧だ。


「……食べた」


紬がぽつりと言った。


「は?」


「今、食べた。湊くんの素うどん」


湊は一瞬、意味がわからずに瞬きをした。


「食べたって……いや、ここにうどんないけど?」


「あるよ。ここに」


紬は自分の胸のあたりを指で軽く叩く。指先が少し白い。湊はそれを「冷房きついのかな」くらいに思ってしまう。


蓮が小さく息を吐いた。苦いのか、安堵なのか、判別できない音。


「……本当に、できたのかよ」


「できたって何だよ」


湊が首を傾げると、紬が机の上に顔を近づけて、湊のスマホを指でちょんと押した。画面が暗くなる。


「写真、消灯。今のは、映えないけど」


「けど?」


「おいしかった」


紬の「おいしかった」は、軽いのに重かった。湊は照れ隠しに肩をすくめる。


「そりゃ、うどんだしな。うどんは強い」


「湊くんの言葉が強い」


「俺の言葉? いや、俺、そんな大したこと言ってないって」


「言ってたよ」


紬が笑う。その笑いの途中で、ほんの小さく喉が鳴って、彼女は唇を結ぶ。間が落ちる。


湊はその間を、勢いで埋めた。


「じゃあ次は、白じゃないやつな! 色ついてるやつ! カレーとか! 映えるし!」


「急に映えに戻るの好き」


「俺はブレない男だから!」


蓮が呆れたように言う。


「ブレてるんだよ。めちゃくちゃに」


紬がまた笑って、今度はさっきより楽そうだった。湊はそれを見て、なんとなく勝った気がして、胸を張る。


湯気のない教室で、湊の素うどんだけが、見えない湯気を立て続けている。紬の目の奥に、その湯気が映っているように見えた。



湊のスマホの画面は、さっき撮ったパンケーキの写真で止まったままだった。光の当たり方は悪くない。ホイップの角度も、わりと完璧。


なのに、指が動かない。


「で?」


紬が机に頬杖をついて、目をきらきらさせた。


「でって何だよ。もう見せたろ、写真」


「写真じゃなくて。湊くんの、言葉」


「言葉?」


「うん。食べたときの話。最初のひとくち、どんなだった?」


湊は一瞬、口を開けて閉じた。味のことを聞かれても困る。正直、甘いか甘くないかくらいしかわからない。


「えー……パンケーキって、こう……ふわっ、だろ」


「ふわっ、だけ?」


「ふわっ、で……ちょっと、もにゅっ」


「もにゅっ」


紬が復唱して、笑った。笑いながら、胸の前で両手を小さく握る。


「生地がさ、ふわふわで、フォーク入れると……戻る、みたいな。反発。スポンジじゃなくて、ちゃんと……焼けてる反発」


「反発……いいね」


「いいのかよ、それ」


「いい。続き」


湊は机の上のパンケーキを見た。自分は食べる気になれなくて、そのまま置いてある。シロップは皿の縁で、光って固まりかけている。


「で、シロップが……まあ、甘い。ベタって甘い。口の中で、こう、広がって……」


「広がって?」


「広がって、鼻に抜ける。甘い匂い。あと、バター? バターが溶けて……なんか、ズルい感じ」


「ズルい」


「ズルいだろ。甘いのに、コクがあるから、許されるみたいな」


紬が息を吸った。ほんの少し、肩が揺れた。笑いの続きかと思って湊は気にしなかった。


「ホイップは?」


「ホイップは……軽い。軽いのに、舌に残る。雪みたいな……いや、雪は残らないか」


「残る雪、最高」


「最高なのかよ」


「最高。湊くん、そういう変な比喩、もっと」


「変な比喩って言うな」


湊は照れ隠しにスマホをいじった。通知はゼロ。いつもなら焦るのに、今はどうでもいい。


「えっと……口の中が、甘い雲でいっぱいになる。で、飲み込むと、喉の奥に……」


「喉の奥に?」


紬が身を乗り出す。机の上に落ちる影が近い。湊は反射的に続きを探した。


「……温かい、みたいな。胃に落ちてくと、あったかい。甘いあったかさ。腹の底が、丸くなる」


紬のまつげが、ふるっと震えた。


「……丸くなる」


「うん。丸くなる。満たされるって、こういう感じなんだろ。……俺、普段あんま感じねーけど」


「感じて」


紬の声が、急に小さくなった。


湊は顔を上げた。紬の目の端に、透明なものが溜まっていた。


「え、え? 何? 俺、なんか変なこと言った?」


「違う。違うよ」


紬は笑おうとして、口角だけが上がった。涙が一粒、頬を伝って落ちる。


「食べてる。今、食べてるの」


「……え」


湊は固まった。からかわれてるのかと思ったが、紬の喉がこくりと動く。何もないはずの口元が、確かに咀嚼するみたいに動いた。


「ふわっ……もにゅっ……反発……」


紬は言葉を追いかけるように、ゆっくり噛んだ。笑いながら泣いている。


「甘い雲……残る雪……ズルいバター……」


「お、おい、泣くほどか?」


「泣くよ」


紬は両手で頬を押さえた。涙が指の隙間からこぼれて、机の上に落ちる。落ちた場所が、小さく濃くなった。


「だって、ちゃんと……お腹が、丸い」


湊は自分の腹を押さえた。さっきから、空っぽのままだと思ってたのに。紬の言葉を聞いていると、自分まで熱を思い出す。


「……なんだそれ。すげーな、お前」


「すげーのは、湊くん」


「俺? いや、俺はただ、適当に……」


「適当じゃない。今の、ちゃんとお料理だった」


「料理って、言葉で?」


「うん。言葉の料理」


紬は目をこすって、鼻をすすった。けれど笑みは消えない。泣き顔なのに、妙に満腹そうだった。


「もっと食べたい」


「欲張りか」


「欲張りです」


「じゃあ次は……えーと、パンケーキ以外もいけんの?」


「いける。なんでも」


「なんでもって……ラーメンとか?」


「ラーメン!」


紬の声が弾む。涙がまだ残っているのに、もう次の皿を待ってるみたいな顔だ。


「やば。俺、味わかんねーんだけど」


「湊くんのわかんないは、わかるより面白い」


「褒めてねーだろそれ」


紬は笑って、もう一度、目を閉じた。深呼吸して、胸の奥に何かをしまうみたいに。


そして、静かに言った。


「ごちそうさま」


その言い方が、妙にちゃんとしていて、湊は言葉を失った。部室の空気が、ほんの一瞬だけ、ピタッと止まる。


湊のスマホの画面は相変わらずパンケーキ。いいねは増えていない。なのに、胸のどこかが、ぐっと押される。


数字じゃない。画面じゃない。目の前で、誰かが泣きながら笑って、「ごちそうさま」と言った。


それが、手応えってやつなのかもしれない、と湊は思った。


「……おかわり、いる?」


「いる」


即答だった。


「はいはい。じゃあ次、俺の――」


湊が言いかけたとき、部室の扉が、かすかに軋んだ。


廊下側の隙間に影が落ちる。誰かが、覗いている。


湊が振り向くより先に、紬の笑顔がほんの一瞬だけ固まった。すぐに、いつもの明るさで取り繕う。


「ん? 誰か来た?」


「さあ」


湊が扉に近づくと、影はすっと引いた。


廊下に出る。夕方の光が長く伸びて、床に線を引いている。その向こうに、蓮がいた。


壁に背を預け、腕を組んでいる。表情は動かない。冷えた視線だけが、湊を刺した。


「……何だよ、覗きか?」


「覗いてない」


「じゃあ何だよ」


蓮は返事をせず、湊の肩越しに部室の中を見た。紬の笑い声が、扉の隙間から漏れる。


その音を聞いているのに、蓮の目は笑っていなかった。


「お前、勘違いすんなよ」


「は?」


「……いや、いい」


蓮は視線を外し、踵を返した。去り際に、喉の奥で何かを押し殺すみたいに小さく咳をして――それが蓮のものか、部室の奥から聞こえたのか、湊には判別がつかなかった。


「何なんだアイツ。ツンデレか?」


湊は首をかしげて、部室に戻った。


「湊くん、廊下、寒かった?」


紬が笑って聞く。


「寒くねーよ。変なやつがいただけ」


「変なやつ」


「うん。……で、ラーメンの話だっけ?」


「うん。いただきます」


紬は両手を合わせた。涙の跡が残る頬で、まっすぐ湊を見た。湊は、なぜか背筋が伸びるのを感じながら、言葉の鍋に火をつけた。



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