『本物の名所』

春間 来善(はるま きよし)

本物の名所

『停止を求める署名活動、署名者インタビュー動画』

〈ケースNo.32 A氏(本人希望)(男性、30代、独身)〉


えと、これ映ってますか


あ、映ってる。良かった。えとじゃあ何から話せば?


あ、「とりあえず自分の名前から」


【数秒の沈黙】


…その、言いにくいんですけど、ちょっと名前がバレるのは


はい、そうなんですよ、その、訳ありっていうか、なんていうか。


え?いいんですか?ありがとうございます。じゃあ、適当にローマ字でAとかでいいですかね。


あ、ありがとうございます。


 【周囲を気にするように小声で】

え?あぁ、はい、署名には、はい、提出するだけなら、我儘言ってすみません。


じゃあ早速話しちゃいますね。ええと、私が救われたのは――


え?初めから?ええと、となると出会いからってことですかね?と言われても気が付いたら知ってたものだしなぁ。


「初めて足を運んだ時からでいい」ですか。ううん、分かりました。それでも結構長くなりますけど文句言わないでくださいよ。


えとじゃあ、例のマンションについて、本物について、私の経験した話をしようと思います。


ハハハ、なんかちょっと恥ずかしいですね


あ、ごめんなさい。分かってます。私も皆さんと同じですから。できるだけ、伝わるように話そうと思います。


じゃあ早速ですけど、そうですね、初めは今から10数年ほど前、高校2年生の頃でした。正直当時の会話を完璧に覚えているわけでは無いので、そこらへんは悪しからず。


あれは、夏休みが始まって1週間が経過した頃だったと思います。夏期講習があって、その日は学校に行ってました。


「夏期講習ダルいぃ~」


まるで夏の暑さで溶けたような気だるげに呟いた彼は…ええと仮にBとしておきますね。


気だるげに呟いた彼は、成績優秀で教師からの信頼も厚い、私の自慢の友人でした。


「なぁ、何か夏っぽいことしようぜ」

「何かってなんだよ」

「うーん、肝試しとか?」


肝試し、まじめなBの口からそんな言葉が出るとは思わず少し驚いてしまったのを覚えています。


「おー、良いじゃん、この辺で肝試し、つったらやっぱりあそこか。」

「まぁ、あそこだろうなぁ。」


私の地元はあまり栄えていない、言ってしまえば田舎でした。そこから自転車で40分ほど離れた私たちの住んでいる場所と比較すれば十分都会と呼べるような場所にある、マンション。そこは私たちの間では少しばかり有名な場所でした。


いわゆる心霊スポットでした。変な話ですよね。人は普通に住んでいるし、別に山奥に建っていたわけでもない。ただ明確に心霊スポットと言われた理由があったんです。そのマンションはいわゆる自殺の名所ってやつだったんです。「何人も飛び降り自殺者が出て、その霊が出る」とか「その自殺者は遺書を残さない」だとか、「死ぬような人ではなかったのに急に飛び降りた」なんて噂話が絶えない場所でした。


正直私は怖いもの見たさでずっと行ってみたかった場所ではあったのですが、一人では怖いのと、まじめなBがそれを許してくれないと思っていました。


「いいのか?B?あんまりそういうノリ好きじゃないだろ?」


Bはニヤッと笑い頭をポリポリとかきながら恥ずかしそうに言いました。


「まぁ、好きじゃねぇけど、ほら、来年は受験だろ。となると遊べるのは今年まで。変な話だけどさ、思い出とか残したいじゃん。このままずっと学校ってのもな。」

「ハハハ、確かにそれもそうだな。」


思わず私も照れて笑ってしまったのを覚えています。といった流れで私とBはその日の夜に二人でそのマンションに行く約束をしたんです。


その日の講義中は夏の生ぬるい風が教室のカーテンを揺らしてセミの鳴き声が耳にこだましていたのを覚えています。


昼の暑さが嘘のように、夜は冷え込んでいました。深夜に親に黙って出歩くという背徳感。月明かりの下、私は妙に高揚していました。自身がこの世界の主人公になったような、そんな感覚に酔っていたんです。


 0時56分。校門の前にはすでにBが待っていました。彼もテンションが上がっている様子で深夜という時間帯の持つ魅力に取り憑かれているのが見て取れました。

2人で自転車を漕ぎながら目的のマンションに向かいました。途中コンビニでアイスなんか買ったり、当時好きだった子の話、俗にいう恋バナってやつをしながら時間をかけて目的地に向かいました。会話の内容は正直全然覚えていないんですけど、私たちに笑顔が絶えなかったのは間違いありません。


大体1時間くらい経ったでしょうか。少し小高い丘のような場所から見下ろせる地元の絶景スポットに差しかかりました。後は坂道を下れば目的地です。そこからの景色は今でも覚えています。5、6階建てのマンションやアパートが並ぶ栄えた場所。さっきまでの笑いの絶えなかった私たちに緊張が走りました。例のマンションが見えてきたのです。屋根は傾斜で傾いているようで屋上と思しき空間は無く、外観はそこら辺にあるマンションより1階分程度高いくらいで大差はなく、正直普通のマンションにしか見えませんでした。さらに遠くからでもわかるベランダの窓から漏れる淡い光や生活感は、私たちの中にある恐怖心を薄めてくれました。


「見えてきたな。」


Bの弱々しい声が彼の心情を表しているようでした。それに対して私は


「は、ははは」


となぜか興奮してしまって変な笑みを溢していました。

丘から5分ほど自転車を漕いで私たちは目的地の前に到着しました。近くで見てもそれはただのマンションにしか見えませんでした。


私たちはマンションの裏に自転車を止め、フェンスを登り設置されていた非常用と思われる階段から一階の廊下に侵入しました。ただの不法侵入。しかし、この時の私たちの高揚感を抑えつけて冷静になることはできませんでした。普段ならBが止めてくれそうなものなのですが、きっと彼も変な気分になっていたのだと思います。とにかく興奮冷めやらぬまま私たちはマンション探索を始めました。


マンションはL字型の廊下で、等間隔にフェンスとドアが設置されている、各フロア10室程度のいたって普通のマンションでした。1階を見る限りどの部屋にも表札がかかっていて人が住んでいるようでした。廊下を奥まで進むとエレベーターがあり、私たちはそれに乗り込みました。


乗り込んだ際何とも言えない…「違和感」としか形容できない感覚があったんです。その正体が何なのかこの時はわかりませんでした。


エレベーターは1~6階までのボタンがあり、私たちは2階、3階と各階を見て回ることにしました。このマンションは廊下の端にエレベーター逆側に階段がある作りになっていたので、1階から2階に上がるときは階段、2階から3階に上がるときはエレベーターといったように、奇数階から偶数階に上がるときはエレベーター、偶数階から奇数階に上るときは階段を使いました。


初めは二人で息をのみながら進んでいた廊下でしたが、蓋を開けてみれば何の変哲もないただのマンションにすぎませんでした。景色がいいかというと別にそういったわけでは無く、道路を挟んだ先には同様のマンションの壁が見えているだけ。正直拍子抜けでした。

5階から6階に上るエレベーターに乗り込む頃には「明日は講習が終わったら花火をやろう」とか、「土日に海にでも行こう」と言ったような雑談をしていました。


あっという間に最上階。正直、今更怖いも何もありませんでした。ただ一応ここまで来たということもあって、マンションを全部制覇する勢いで階段に向かって足を進めました。このフロアも表札は全ての部屋にかかっていました。


「やっぱり噂は嘘だったな。普通に人が暮らしている。少なくとも大量に自殺者が出るようなマンションとは思えねぇよ」


退屈そうな顔をしたBはそう言って大きくあくびをしました。私もつられてあくびをしながら


「あ~あ。だなぁ。」


なんて言って眠い目を擦りました。

しかし、廊下を曲がったその先私たちは緊張感を取り戻しました。階段です。エレベーターのボタンは確かに6階までしかなかったのに、私たちの目の前には上の階につながる階段がありました。屋上がないのは外から見た時点で把握していました。エレベーターに乗った際の謎の違和感の正体がわかりました。7階がある。その不気味な可能性が、私の中でマンションについた時のあの高揚感を取り戻させました。


今となっては、別に機械室的なフロアがあるだけだろうと考えちゃいますけど、当時はその階段がすごく不気味に見えて、好奇心をくすぐったんです。

私はBの前に出て階段を上りました。


「お、おい、待てよ」


少し遅れてBも階段を上り始めました。Bの声はこのマンションに着いた時の弱々しいものでした。


階段の先は異質な光景でした。5mほどの短い廊下、その先に表札が無い、しかしこれまでのどの部屋のドアより豪華なドア。明らかにほかの階とは違うその雰囲気と不気味さ。まるで私たちを誘っているような、そんな異質さがありました。真っ先にその異質さを口にしたのはBでした。


「あー。これはやべぇな、帰ろう。」


その声はかすかに震えていたと思います。しかし私は湧き上がる高揚感が最高潮に達してしまいました。ダメだとは分かっている。でももう止められない。ドアノブに手をかけ、捻りました。いともたやすくそのドアノブは回りました。


「おい、バカ。何やってんだ。それ以上はやりすぎだ。」


Bの忠告を無視して私は扉を引きました。ギーっという音を立て開いた先には、家具などが一切配置されていない数本の柱が立っているだけの開放感のある空間が広がっていました。7階全部を使って1つの部屋を作っているかのようなだだっ広い空間。しかし、独特な雰囲気が漂っており、埃っぽさはなく何なら真新しさを感じる内装。独特な壁紙、正面には学校の教室ほどの窓が付いておりその窓は何故か開いていて、夏らしくない冷たい風を部屋の中に送っていました。


「ほら、もう終わりだ。帰るぞ。A」


Bは私の腕を掴みました。しかし私はその手を振りほどき、足を部屋の中に進めました。それほどまでに私はテンションが昂っていたのです。あのときの私は今思い返しても多分誰も止めることはできなかったと思います。


土足で部屋に上がり込み、広い空間の真ん中、窓から差し込む月明かりが照らしている場所に立ち周りをグルッと見渡しました。その時でした。


……たい…し…た………にたい…


私の頭の中に何かが入り込んだそんな感覚。それとほぼ同時に私の中の何かが決壊しました。


死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい


って。自分の意思じゃないんです。でも、自分の言葉なんです。止まらないんです。


生きていても意味がない。生きる価値がない。死んだほうがいい。死ぬことが正解だ。そうだ、死ぬんだ。生きている必要なんてない。死のう。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死――


「A!!!!!!!」


絶叫にも近い声を聞いて我に返りました。私は正面の窓から上半身を乗り出し、飛び降りる寸前でした。私は無意識のうちに飛び降りようとしていたのです。


「ヒッ」


上半身を後ろにそり返して尻もちをつきました。何が起こったのか訳が分からなくてただただ恐ろしかった。この部屋にいてはいけない。残っている理性で判断し、全力で走りBの待つ廊下に飛び出して膝から崩れました。私が正気を取り戻したのを見るや否や、


「お前が部屋に入った瞬間からずっと呼んでいたんだぞ!!聞こえてなかったのか!?」


とBはよほど大きな声を出し続けていたのかかすれた声で私を怒鳴り付けました。しかし私は自分がどうなっていたのか、どれくらいの時間あの部屋にいたのか、何をしていたのか一切記憶にありませんでした。あるのは頭の中が「死にたい」で支配されていた記憶。


夏なのに全身鳥肌と震えが止まりませんでした。とにかくこのマンションにもういたくない。頭の中は恐怖の感情でいっぱいでした。崩れた体を起こし、私たちは階段を駆け下りました。

正直、帰り道の記憶はあんまりありません。


ただ明確に覚えていることはベランダから漏れる生活感がただ恐ろしかった、ということだけした。


気が付いたら見覚えのある道に差し掛かかっていました。どうやって回収したのか覚えていない自転車に乗っている私たちの顔に笑顔はなくあのマンションの話は一切口に出しませんでした。行きより20分ほど早く学校に着き、

「じゃあ、またな」

ひきつった笑顔でお互いの顔を見合い私たちは解散しました。スポットライトのような月明かりが現実ではない何か異質なもののように感じ、ペダルを漕ぐ足に自然と力が入りました。


家に帰り自分の部屋のベッドにうずくまりました。夏なのにタオルケットを頭から被りました。それでも震えは止まりませんでした。一歩遅かったら死んでいた。その事実がただただ恐ろしくて仕方がありませんでした。気が付くと窓から朝日が差しこんでいました。


騒々しい教室にそぐわない顔色のB。私と同じで一睡もしていないであろうことはすぐにわかりました。


「おはよう」


私は何と言っていいかわからず、挨拶をすることしかできませんでした。彼はかすれた声で、


「昨日の、覚えているか。」


と、私の顔をじっと見て問いかけました。その目には心配が見て取れました。変な話ですが、私はそれがすごく嬉しかったのを覚えています。


「あの建物にいって、俺が危ない目にあったのは覚えているよ。でもあの部屋の中で何があったかは覚えてないんだ。」


私の返答から少しの間をあけてBがゆっくりと語りだしました。


「A、昨日のお前がどんな感じだったか教えてやる。落ち着いて聞けよ」


Bの話によるとどうやら私は部屋の中心まで行くとその場にうずくまり、自分の首を絞め始めたそうです。まずいと思ったけれど恐怖が体を支配し、叫ぶことしかできなかったそうです。

首を絞める手に力が入り私は「カッ」と喉を鳴らし、その後、窓に向かってふらふらと歩き出し、窓から顔を突き出した。そこからは私の記憶にある通りでした。


私はぞっとしました。あの建物が自殺の名所なんかではなくもっとやばい何かだったことに、本物の名所だったことに。そして何より最も恐ろしかったのは、そんなマンションに住んでいる人がいるということに。


その日私たちはあのマンションについて、ネットや本、過去の新聞を使って調べました。分かったことは、あのマンションは今から10年ほど前に建てられたもので若くして亡くなった有名な建築家の最後の作品で…。ってわざわざ説明しなくても知ってますよね。


あ、話していいんですか。すみません。じゃあお言葉に甘えて続けさせてもらいますね。ええと、どこまで話したかな。


そうそう。このマンションはそんな有名な建築家の彼が精神的に参ってしまったときにデザインした作品。しかし、どうやらそれは7階部分のみ。全体は未完のまま自殺。真偽は定かではありませんが遺書には、


「私の人生で最も美しく、素晴らしい、本物のデザインができた。もう後悔はない。」


と残されていたそうです。しかし、その一室に入居した人が立て続けに遺書も残さず飛び降りをしていて、そうした背景からあの7階だけは入居者の募集を行っていませんでした。しかし、1~6階は満室、近所のアパートやマンションの住民も気味悪がることはなくむしろ気に入っていて、閉鎖の話が出る度に反対運動が大々的に起こるほどだそうです。近隣住民やマンションに住んでいる人は皆口を揃えて、


「私たちはあのマンションに救われました。」


というそうです。私たちは調べていくうちにとても怖くなりました。


結局私たちは「建築家が現世に残した未練による呪い。」と結論付けました。そう結論付けることしかできませんでした。この日以降私たちの間でこのマンションについて話題に上がることはありませんでした。



長いこと話過ぎちゃいましたかね。でもこれが、私とマンションとのファーストコンタクトです。


え?あぁ、怖いですよ、そりゃ。取り壊しの声が出るのも頷けます。私は言ってしまえば被害にあった一人ですから。


ん?その後ですか?ええと、この後は私の人生についての話が続いてしまって、このマンションとは直接関係がないんですよね。


そうなんですよ。いや、実はね、私あのマンションのことがもうトラウマになっちゃって、地元から離れた大学に進学して、地元にも片手で数えられるほどしか帰らなかったんです。


ええ。大学生活は、それはそれは楽しいものでしたよ。人生で初めて彼女もできましたし、就活は大変でしたけど、無事就職先も決まり、大学も特にトラブルもなく卒業できました。


はい、もちろん就職先も地元から全然違うところにしました。


なのでマンションと再び関わるまで軽く省略しつつ話しますね。


ええと、じゃあまずはあそこからかな



28歳のころ私の人生は大きく変化しました。当時大学時代から7年間付き合っていた彼女の浮気が発覚しました。信じられますか?7年ですよ?

そりゃもうショックでショックで。


正直、結婚すると思ってましたから。


しかもタイミングが悪かったのは私の両親が交通事故で他界したんです。…あ、ごめんなさい、思い出したらちょっと。


いやね、今でも思うときがあるんですよ。実は全部夢で実家に普通に両親が暮らしていて、帰れば温かく出迎えてくれるんじゃないかって。ごめんなさい。少し、ズズッ。


【鼻をススる。ティッシュで涙を拭う。数回の深呼吸。】


ありがとうございます。大丈夫です。続けますね。


その日から、私は夜寝られなくなり、食事も喉を通らず、仕事には集中できず上司に何度も怒られました。私の中で、何か崩れていくそんな感覚を覚えました。前を向くしかない。頭の中はそれでいっぱいでした。


そんなある日。大学時代の後輩の勧めである食事会に行くことになりました。なんでも若くして成功した人たちの集まりらしく


「先輩は成功者の素質がありますよ」


なんて後輩の言葉に、藁にも縋る思いでついていってしまったんです。冷静さを欠いていました。バカでした。もしBがいれば、全力で止めてくれたと思います。 気付いた時には、後輩とは連絡がつかなくなり、私の手元には莫大な借金だけが残りました。


ええ、ちょっと厄介なところから借りてしまって。


そうなんですよ。だから本名が映像で残るのはちょっと。


あ、ごめんなさい、話、戻りますね。ええとそうだそうだ。


当時は警察や弁護士に相談なんて考えがなくて、というより、そこまで思考が至らなくて。


ええ、よほど追い詰められていたんだと思います。当時の仕事では足らず副業で肉体労働も行いました。


当時はとにかく必死でしたよ。


そんな生活が1年続きました。


年末の足音が迫ってきた十二月の夜。夜勤終わり疲れ果てた私は自動販売機で温かいコーヒーを買いました。おつりの70円が全て十円玉で出てきました。私の中で何かが壊れました。


「死にたい」


その感情は、空っぽになった脳みそがやっとの思いで絞り出したようでした。


笑っちゃいますよね。人生ってこうも簡単に崩れるんだって。本当にあの時は辛かったなぁ。もう、本当に全部がどうでも良くなったんです。


遺書を書いて自分の死に場所と死に方を考えました。いろいろ考えました。首吊り、練炭、薬。そして『飛び降り』。蓋をしていたトラウマを自ら掘り起こしました。

あそこなら死ねる。行こう。私の人生に大きく影響を与えたあそこに。私は居てもたっても居られなくなり、12年ぶりにあのマンションに向かいました。地元に帰るのは親の葬式以降初めてでした。


 マンションの外観は12年前よりも汚れていて前よりも不気味に見えました、しかしベランダからは今も生活感が漏れ出ていました。私はスーツの内ポケットに遺書があることを確認して、そのマンションに入りました。もう現世に未練はない。ようやく死ねる。解放される。私の中で高揚感が湧き上がり、階段を一段飛ばしで7階へ向かいました。


7階の扉は12年前と違って輝いて見えました。あの日のトラウマが、今の私にとって希望でした。ドアノブに手をかけ捻りました。ドアを引くと「ギギギッ」と前よりも重たい音を立て開きました。広い空間に開いた窓。埃っぽさはなく、10年以上経っているというのにあの頃と同じ、いやあの頃以上に真新しさを感じ、あの時は時間感覚が麻痺しました。覚悟を決めて私は部屋の中へ歩を進めました。その時私の頭の中に湧いて出てきたんです。本当にシンプルなものでした。


「美しい」


なぜか涙があふれてきました。この空間全体が私を肯定しているように感じました。私の頭の中に『死にたい』はきれいさっぱり消えていました。部屋の中心で膝から崩れ落ち私は泣きじゃくりました。どうしてこんなに美しいんだ。どうしてこんなに綺麗なんだ。どうしてあの時これに気付けなかったのか。全身に鳥肌が立っていました。震えも止まりませんでした。


私は遺書を無造作にポケットに突っ込みマンションを後にしました。いつかこのマンションに住む。私の生きる意味はこのマンションになりました。


あのマンションは自殺の名所なんてものでも、建築家の呪いなんかでもありません。7階は建築家が極限の精神状態で最も美しいと感じデザインしたもの。その完成度は彼が満足して自殺をしてしまうほど。今思えば、そんな人が未練を残すとは考えられません。


ただ、そんな彼が命を賭してまで作ったその美しさを感じるには条件があったんだと思います。「資格」がいるんです。彼と同じ、極限状態。死にたくて死にたくて仕方がなくなった人だけが、美しさに気が付ける。


中途半端な覚悟ではあの部屋の持つ「圧」に耐えられず高校時代の私のように壊れてしまう。


呪いなんて単純なものじゃないんですよ。あれはもっと崇高なものなんです。


え?いや、冗談じゃないですって、だってそうじゃないと考えられない、いや、絶対そうに決まってます。あ、ごめんなさい。ちょっと熱くなっちゃって。


ええと、つまり、私が思うに、あの部屋はあの部屋自身の意思で、美しく見てもらいたいんだと思うんです。


しかし、12年前、私はこの部屋の美しさに気付けなかった。


そりゃそうですよ。だってあんな一気に「死にたい」何て感情が溢れてしまえば周りなんて見えません。


実際、私は周りを見ずに、窓から上半身を突き出した。あの時私が生き残ったのは、運が良かったんです。きっとあの空間が影響を与える範囲外、窓の外に頭が行ったのと、Bの叫び声、全てがうまく噛み合って、我に返ることができたんじゃないかと考えています。


そんな当時に対して、今は違う。浮気、両親の死、裏切り、借金、極限状態の人は、自殺を決意した人はその真の美しさに胸を打たれ、救われ、このマンションを生きる理由にするんです。それが私の思うこのマンションの正体です。取り壊しの話が出るたびに近隣住民が反対したのも今なら納得ができます。


あれから4年が経ち私は今このマンションの近くのアパートで暮らしています。仕事をやめアルバイトで稼いだお金で借金を返済し続ける毎日。でも人生で一番の幸せを感じています。私にはあのマンションがある。あれを見るだけで勇気をもらえる。私は借金を返済したらお金をためてあのマンションに引っ越すつもりです。


まぁ、何年後になるかわかりませんけど。


しかし、最近また取り壊しの話が出ています。当たり前ですが私は断固反対です。きっとこの動画も、最終的にはあいつが見ているんでしょう?ねぇ?


【数秒の沈黙の後、真顔に戻る】


B。


いや「坂東代表」。画面の前のお前だよ。


聞いたよ、お前が先導してマンションの取り壊しの話を進めてるって。わかるよ、お前にとってもあのマンションはトラウマだもんな。


でもな、そんな簡単な話じゃないんだよ。もし今取り壊しが決定したら。

あの周りに住んでいる人は皆飛び降りるだろうな。


お前のせいで人が死ぬんだ。


それだけの力があるんだよ。分かるだろ?

あのマンションは『本物の名所』なんだよ。


〈撮影日 202X年 7月14日 マンション取り壊し計画代表坂東氏の友人、取り壊し停止署名者 A氏の証言〉

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