深夜三時半の停滞泥濘鳴

如月奏

ポルガー実験

死にたいと思った。ただこの世界から消えたいと願った。セックスと死は同じものだ。

時間は一瞬で終わる。生きていた時間も死んだら終わり。セックスも行為が終われば終わりだ。

残るのは、終わったあとの身体だけ。でも死んだら火葬されて、誰かの記憶に薄らとしか残らない。

スマホの画面は暗いのに、通知が鳴る気がした。

誰からも来ていないのに、来たら困るのに。私から何も送っていないのに。返せる言葉もないのに返したい気持ちだけが残っている。

そんなことを考えながら歩いていた深夜三時半。

朝が来る前に消えたいと思っていたのに、いつの間にか浜辺まで来ていた。

波の音は規則的で、でも数えてみるとどれも少しずつ違っていた。

同じに聞こえるものほど、よく聞くとズレている。

それが分かるくらいには、頭が冴えていた。冴えているのに、何も考えたくなかった。

靴の中に砂が入っている感触がして、立ち止まる理由になるかと思ったけれど、それを理由にするには弱すぎた。理由はいつも、後からでいい。

ここまで来たら、引き返すのも面倒だった。前に進むというより、ただ同じ場所に留まるために歩いていた。止まったら、何かが終わる気がして。

「ねえ、お姉さんどうしたの」

知らない女の人がパーカーのフード越しに私の顔をまじまじと見て話しかけてきた。距離が近かった。

肩が触れるほどでもないのに、息が混ざるみたいだ。近づかれたというより、最初からそこにいたみたいな立ち方で、避ける理由の方が遅れてくる。パーソナルスペースという言葉を知らないみたいだ。ただその人の目だけが妙に浮いて見えた。

「どうもないです、散歩です」

私は軽く受け流して、この場から去りたかった。浜辺の風は冷たかった。早く終われ、早く終われと心の中で願っていた。

「ふーん、散歩ねー」

浜辺の音は静かだった。浜も、風も、必要最低限の音だけ鳴らしていた。広すぎる場所はいつも出口が分からない。

「ねえ、一つお話しない?」

唐突すぎて、断る理由を探す前に頷いてしまった。

波の音が急に煩くなって、会話が続く気はしなかったのに。

「重たい話してもいい?」

「重たいのは無理。軽いやつなら」

私が丁重に断ろうとしたら相手は笑った。

その笑い方が、深夜の浜辺には少しだけ明るすぎた。

「じゃあ、軽い話で。人って、いつ死ぬと思う?」

問いは軽く放られたのに、私の中では重たい音を立てて転がった。

答えを探す前に、肺の奥がひやりと縮む。

今、という言葉が、時間じゃなくて場所みたいに感じられた。

「今?それ軽くないよ」

どうしてこの人はそんなことを軽い話だと言えるのだろうか。私は理解ができなかった。

「でも、みんな生きたら死ぬ。だったら、いつでも同じじゃない?」

同じ、という言葉が嫌いだった。

同じだと言われると、今ここにいる私の理由まで消される気がする。

同じだと言われると、今ここに立っている理由まで平均値に吸い取られる気がする。

私がここに来た経緯も、体温も、間違えた回数も、全部まとめて「誤差」にされるみたいで。

それでも否定できなかったのは、どこかで私自身もそう思っていたからだ。

相手は砂を蹴りながら、どうでもよさそうに言った。どうでもよさそう、という言い方が一番正確だった。

軽いのとも違うし、冷たいとも違う。

ただ、私の中で重たく沈んでいた言葉を、砂みたいに蹴飛ばされた気がした。

声の奥には、何かを諦めきったような静けさがあった。

怒るでも、慰めるでもない。ただ、世界を一歩離れた場所から眺めている人の声。

私が必死に抱え込んできた「死にたい」という言葉が、どこにも触れられないまま、宙に浮いてしまう。

その瞬間、私は自分の痛みが急に取るに足らないものになった気がして、無性に寒くなった。

私はその横顔を見て、“死にたい”って言葉が、急に使い古された比喩みたいに感じてしまった。

口の中が乾いていた。何かを言えば、少しは現実になる気がした。何も言わなければ、このまま溶けて消えられる気がした。

昔、お祭りで金魚を掬って、水槽の中に入れた。水槽の中の金魚は喘いでいた。私は金魚が何故喘いでいたのか分からなかった。餌が欲しかったのだろうか?それとも水槽の中身を変えて欲しかったのだろうか?金魚はいつの間にか息を引き取った。「お祭りの金魚なんてそんなもんだよ」と家族も友人も口々に言った。皆命を軽く見ている。でも、私もスーパーボールと金魚を同じ扱いをしていたのかもしれない。私は昔から、命の扱い方が分からなかった。

大事にしなさいと言われるほど、どう触れていいのか分からなくなる。

だから、いっそ触らないふりをするか、軽く扱ってしまうか、どちらかしか選べなかった。

大事にすると壊しそうで、軽くすると壊してしまう。

その間の距離が、ずっと分からない。

誰かを好きになると、その人の呼吸や体温まで想像してしまって、想像した時点で、もう踏み込みすぎた気がしてしまう。

だから、最初から終わりが決まっている関係の方が楽だった。

触れて、終わる。終わると分かっているなら、何も残らないことを確認できる。

それは安心でもあった。でも、終わったあとに残る空白は、想像よりもずっと大きくて、「何も残らない」という事実だけが、重く残った。

金魚は、水槽の中で息ができなかった。

私は、この世界で息の仕方が分からないだけかもしれない。それでも、誰も酸素の場所を教えてはくれない。

「セックスと死は同じだと思うんです」

言ってから、少し後悔した。初対面の人に投げる言葉じゃない。でも金魚みたいに分からないで終わらせたくなかった。この人がなんて返すのか少しだけ気になったのだ。

「へえ。面白いこと言うね。結果として終わるから?」

相手は私を見ているはずなのに、私の核心に触れてない気がした。少しの自嘲も含まれているような感覚があった。顔を見ている筈なのに私という存在を輪郭だけなぞっているみたいだった。近いのに踏み込んでこない。それがこの人の距離なんだと理解して口を開けた。

「終わるから。 一瞬で、全部なかったことになる」

相手は少し考えてから、肩をすくめた。

「じゃあさ、散歩も同じじゃない?歩いて、戻って、終わり」

「……」

波の音が、一拍分だけ長く聞こえた気がした。

相手になんて声をかければいいか分からなくて沈黙をしてしまった。確かに死ぬということとセックスというのは少しスケールが大きすぎた。散歩という死とセックスよりスケールの小さい行動もそうなのだ。全ての物事は始まって終わる。だから諸行無常という言葉がある。

「でも、終わった散歩のこと、たまに思い出すでしょ」

読書も音楽も、思い出もその一瞬だけ。けど、この本のここが良かった、この表現が良かった。この言葉初めて知った。このページのこの一行。

この音楽のリズムが特徴的だった。この歌詞が良かった。この歌手のこの曲が好き。思い出は苦いものが多い。幸せな思い出は一瞬で消える。でも確かに存在していた。記憶に残る。知らないことを知るという子供の頃のわくわくを何度だって体験できた。太陽はどこから昇って、どこで沈んでいくのか。空はなぜ青いのか。子供の頃は目に付いたもの全てに疑問を持っていた。好きな物を好きという感覚が言葉に出来なくてもそこに残る。言葉が消えたふりをしているだけで確かにある。散歩が何故好きになったのかももう覚えていない。きっと初めは一人の時間を作って、何か考えながら歩くのが好きだったか、或いは考えることを忘れて景色だけ見るのが好きだったかのどちらかだ。それがいつの間にか習慣化して、たまに散歩をするのだ。

波が足元まで来て、靴が少し濡れた。

冷たくて、反射的に一歩下がる。靴下の中で、ゆっくり温度が下がっていく。

「ほら。今のも、一瞬だったけど、ちゃんと残ってる」

その言い方は、慰めでも説得でもなかった。

ただ、事実を観測しているだけの言い方だった。残る、というのはこういうことなのかもしれない。記憶じゃなくて温度みたいなもの。誰にも渡せないまま、私だけが持っている感覚。

空の端が、ほんの少しだけ薄くなる。朝が来る気配が、最悪のタイミングで忍び寄ってくる。

「……もう、散歩じゃないですね」

私がそう言うと、「うん。でも死ぬほどの用事でもなさそう」それだけ言って、相手は背を向けた。

理由はない。救いもない。想定内の光景だった。

救済されたかったのかと言われると分からなかった。ただ、死ななかった夜が一つ増えただけだった。街灯の光が砂の粒を照らしていた。

どの粒も同じように見えるのに、踏むたびに違う音がした。

足跡を残しても、次の波で全部消える。それが「生き延びた」ということなのかもしれない。

救いというより、偶然。

息をするという動作が、ただ延長されただけ。

「ねえ」

もう背中を向けたと思っていた相手が、足を止めた。胸が一瞬だけ軽くなったように感じた。その軽さが少し怖かった。

「もう一個だけ。ほんとに軽いやつ」

「……なんですか」

「実験の話」

「は?」

夜の浜辺で、実験なんて単語が出てくるのが可笑しくて、思わず息が漏れた。

相手もそれを聞いて笑った。

「昔さ、親が自分の子どもを使って人生実験した人がいてさ。…ポルガー実験って知ってる?」

私は首を振る。哲学用語はあまり得意分野ではない。

「天才は生まれつきじゃない、って仮説を証明するために、三人の娘をチェスだけで育てたんだって」

「……怖いですね」

「でしょ。でも結果は大成功。三人とも世界レベルになった」

波が来て、相手の足先を濡らす。相手は気にせず、言葉を続けた。説明口調なのに、誇らしさはなかった。研究発表みたいで、個人的な感情が削ぎ落とされている。それが逆に、この人がその話を何度も反芻してきたことを示している気がした。

「でもね、面白いのはそこじゃない」

相手は私の方を見た。視線を合わせたまま、言葉だけを淡々と並べていく。感情を挟まない語り方が、逆にこの話の重さを強調していた。

「同じ環境、同じ教育、同じ時間。条件は一緒。それでも三人とも、全然違う人間になったんだって」

三人。条件。成功。言葉だけなら綺麗だった。でも私は、その中に逃げられなさを感じた。

言葉だけが綺麗でも、言葉の中には少し狂気が混ざってると感じた。私は黙って聞いた。逃げ場がない夜だった。説明の途中で、相手の瞬きが一定であることに気づいた。私は、その瞬きを数えようとしてやめた。数え始めたら、話の内容よりも、この人の癖の方が記憶に残ってしまいそうだった。

理解しようとすると、自分の中の何かが削られていく感じがした。共感でも反発でもなく、ただ情報として受け取るしかない距離。

この人は、誰かを納得させるために話していない。

納得されなくてもいい場所で、正確であることだけを優先している。それが、少し羨ましかった。

感情を挟まないための癖みたいな間隔。

誰かに話すためというより、自分の中で順序を確認している声だった。

「人生ってさ、意味があるかどうかより、条件が揃ってるかの方が大事な時があると思わない?」

「…条件の何が大事ですか?」

問い返したあと、相手はすぐに答えなかった。

待つことに慣れている人の沈黙だった。

急かすでもなく、説明するでもなく、私が考え終わるのを待っている。

「生きてる時間とか。触れられる身体とか。朝が来るかどうかとか」

胸の奥が、少しだけざわついた。

「セックスと死が同じだって言ったよね」

相手は、さっき私が言った言葉を正確に拾った。

「一瞬で終わるから、でしょ」

「はい」

正直言うと図星だった。私が全ての物事を終わりにしたいと願っていたからだ。

「でも実験ってさ、一瞬で終わっても、データは残るんだよ」

その言い方が、妙に静かだった。

「実験だってセックスだってやった事実だけが残る。成功でも失敗でもなく」

空が、さっきより明るい。

終わりさえ来れば説明しなくて済むと思っていた。終わることを望みながら、終わったあとの空白だけ怖がってる。その矛盾を、指摘された気がした。

最悪だと思った朝が、もうすぐそこまで来ている。

「今日の夜も」

相手は、海の方を見たまま言った。

「あなたが死ぬ実験だったかもしれないし、生き延びる実験だったかもしれない」

「……」

「どっちか分かるのは、多分、ずっと後」

私は何も言えなかった。死にたい気持ちが消えたわけじゃない。ただ、実験を途中で中断する理由が、急に見つからなくなった。

この人は、私の言葉をちゃんと聞いているのに、私の表情を読もうとしない。

気遣いもしない。慰めもしない。

その代わり、私が置いた言葉だけを拾って、並べ直す。近いのに、踏み込んでこない。それがこの人の距離なんだと思った。

相手がどう思うか感じていない。自分が相手のことをどう思っているかだけを考えて動いている。こんな人間と出会ったのは初めてだ。私はそれを少し羨ましいと思ってしまった。

「じゃ、今度こそ散歩の続き」

そう言って、相手は歩き出した。

背中が遠ざかるにつれて、音の配置が変わった。

波の音が前に出て、足音が消えて、

自分の呼吸だけが遅れて戻ってくる。

追いかけなかった。

引き留める理由も、言葉も、もう残っていなかった。浜辺に一人で立つのは、さっきまでよりも現実的だった。

誰かがいた証拠が、もうどこにも残っていない。

砂はすぐに均されて、会話は波の音に溶けていく。

それでも、体のどこかにだけ、一拍遅れの温度が残っていた。朝は来てしまう。結論は出ない。仮説だけが、少し形を変えて残る。

朝、部屋に戻ってからも眠れなかった。

シャワーを浴びても、砂の感触が足の裏に残っている気がした。スマホを開いた。無意識に検索窓を叩いてから、自分が何を探しているのか気づいて、少しだけ嫌になった。

ポルガー実験。天才は生まれつきではなく、育てられる。そう信じた父親が、自分の娘たちを使って行った教育実験。

三人とも成功した。

でも、同じ人生にはならなかった。

スクロールしながら思う。

――条件が揃っていただけ。

――意味は後付け。

検索画面を閉じる。納得も、反論もできない。

友達からの通知は来ていなかった。来たら嬉しい反面苦しくなる。代わりに、出会い系の画面を開く癖が指先に残っていた。名前も年齢もどうでもいい。ただ、今誰かがいるという表示だけが欲しかった。さすがにこの時間にログインしている人は少数だった。

触られるのは嫌いじゃない。でも終わった後に残る空腹みたいな空白が嫌いだ。愛がその一瞬しかなかったような、息苦しい時間だ。世のカップルはそこでピロートークを繰り広げると思うが、私はもうセックスという行為をやったらそこで終わりというタイプなのだ。相手を知りすぎてしまうことが怖かった。人間の扱い方が少しだけ怖かった。壊してしまったらどうしたらいいのか分からなかった。

会話を手探りに思い出す。相手の名前も、年齢も知らない。私と同じ種ということだけしか知らない。

なのに、「実験」という言葉だけが、妙に現実に残っている。

死にたい気持ちは、まだある。消えてはいない。

ただ、検証が終わっていない感じだけが、体の奥に残っていた。

また浜辺に行くかもしれない。行かないかもしれない。それすら、まだ分からない。

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2026年1月13日 03:30

深夜三時半の停滞泥濘鳴 如月奏 @Sou_shousetu

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