第36話 エレンの死闘
2人を前にエレンの指が、短剣の柄に触れた。
それだけだった。
鞘と刃が擦れる、蝋燭の炎すら揺らさないほどの微音。常人の耳には、沈黙と区別がつかない。
だが——
「…………止まれ」
闇の奥から、声が落ちた。
低く、硬質で、鋼を思わせる声。
アルティナの隠密魔法に包まれたまま、エレンの全身が凍りつく。
——気づかれた? この魔法の中で?
「隠れていても無駄だ。……鞘鳴りが聞こえた」
闇の中から、銀色の光が滑り出した。
短く刈り上げた銀髪。深紅の肩章。
軍務卿直属である証を纏った女騎士が、長剣を鞘から静かに引き抜く。
その抜刀には、一切の音がなかった。
エレンの鞘鳴りを聞き取った耳が、自らの抜刀音は完全に殺している。
それだけで、相手の格が知れた。
「……抜刀の音だけで存在を察知するなんて。さすが、と褒めるべきかしら」
アルティナが隠密魔法を解いた。もはや意味がない。
黒い霧が晴れ、二つの影が松明の光の下に曝される。
銀髪の女騎士——ヴァルダは、現れた二人を一瞥し、長剣の切っ先をエレンに向けた。
「……冒険者か。王宮に忍び込む侵入者が、冒険者風情とはな」
「冒険者風情で——申し訳ありません」
エレンが短剣を抜き放った。
順手。刃を外に向けた握り。重心は前。一切の防御を捨てた、攻撃のためだけの構え。
「ですが、退くつもりはありません」
ヴァルダの目が、わずかに鋭くなった。
廊下の奥で、もう一つの気配。
赤銅色の三つ編みを揺らした長身の女騎士が、身の丈ほどもある大戦斧を手に退路を塞いでいた。
前後を挟まれた。
「二人ね。赤い方は私がやるわ」
アルティナが指先に黒い魔力を灯し、背後の大戦斧の女騎士に向き直った。
「銀の方は——」
「私が行きます」
エレンが一歩、前に出た。
「……いいわ。ただし、死んだら許さないわよ」
アルティナが背後に跳び、赤銅の女騎士と対峙する。
大戦斧が唸りを上げる音が背後で響いた。
だが、エレンの意識はすでにそちらにはない。
正面。
ヴァルダの長剣が、静かに切っ先を向けている。
「この剣を受けるか、冒険者風情が。——後悔する暇もなく終わるぞ」
「後悔なら、とっくにしてます。もっと早くここに来なかったことを」
エレンが地を蹴った。
一直線。最短距離。フェイントも駆け引きもない、純粋な突撃。
正気の沙汰ではなかった。
長剣と短剣ではリーチが違いすぎる。
正面から突っ込めば、間合いの外から一方的に斬られる。
ヴァルダもそう判断した。迎撃の横薙ぎを放つ。首を狙った一閃。風が裂けた。
だが——エレンはその斬撃が来ることを、最初から織り込んでいた。
刃が首に届くコンマ数秒前。
足が石畳を蹴り、身体が沈む。横薙ぎの軌道の下を、地面すれすれの姿勢で滑り抜けた。
銀色の線が頭上を過ぎる。髪が数本、宙に舞った。
次の瞬間——エレンはもうヴァルダの懐にいた。
短剣が跳ね上がる。鎧の脇腹、革紐の接合部を狙った斬り上げ。
「——ッ!」
ヴァルダが身を捻る。刃先が鎧の表面を走り、火花が散った。接合部を紙一重で外す。
だが、エレンの攻撃は止まらない。
一撃が外れた時には、もう次が出ている。
斬り上げの勢いを回転に変え、逆の軌道から首筋へ。弾かれれば膝裏へ。
逸らされれば逆手に持ち替えて鎧の隙間に突きを放つ。
一撃、二撃、三撃、四撃——
息をつく間もない連撃が、ヴァルダの周囲に銀色の残像を描いた。
守りを考えない分、すべてが攻撃に回っている。反撃のための間合いを取らせない。
呼吸の隙間に刃を差し込み、思考する時間を奪い続ける。
「この……ッ!」
ヴァルダは防戦を強いられていた。
信じがたい事態だった。
リーチも体格も経験も、あらゆる要素で自分が勝っている。
なのにこの少女は、その有利のすべてを殺すように密着して離れない。
斬っても、弾いても。
次の瞬間には刃が戻ってくる。
「——退けッ!」
ヴァルダが渾身の力で長剣を振り下ろした。
エレンは半歩横にずれ、振り下ろされる剣の腹に短剣を添わせて軌道を外に逸らす。
ヴァルダの体勢が一瞬流れた。
がら空きの喉元に、短剣が突き出される。
——だが。
ヴァルダの首が、刃を避けた。切っ先が頬を浅く裂き、血が線を引く。致命には至らない。
そして——崩れた体勢のまま、ヴァルダは膝蹴りを放った。
エレンの腹部に、直撃。
「——かはっ」
衝撃が内臓を揺さぶり、身体がくの字に折れた。
後方に吹き飛び、壁に背中を叩きつけられる。
息ができない。
「……速い。それは認めよう」
ヴァルダが頬の血を拭い、構えを取り直す。
「だが、守りのない剣は一度捕まれば終わりだ。冒険者の遊びはここまでだ」
「——遊び?」
エレンは壁に手をつき、立ち上がった。
口の端から血が垂れている。
「遊びなんかじゃ、ありません」
短剣を握り直す。震えはない。
「先輩は——身体が壊れても、骨が折れても、絶対に止まらなかった。あなたたちが笑っている間も、先輩はずっと一人で戦い続けていたんです」
ヴァルダの目に、ほんの一瞬、何かが揺れた。
「だから私も止まりません。この剣が折れても、腕がもげても——攻めて、攻めて、攻め続けます」
黄金の瞳に、炎が宿る。
「それが、先輩の隣にいた私の戦い方です」
ヴァルダは——不覚にも、たじろいだ。
目の前の少女の瞳に、恐怖がない。
死を恐れない目ではない。もっと厄介なものだ。
自分の命を、とうに天秤に乗せ終えた者の目。
「……狂っているな」
「狂わせたのは、あなたたちです」
エレンが再び踏み込んだ。
今度はさらに速い。
痛みが身体のリミッターを壊していた。
ヴァルダの長剣が迎撃する。横薙ぎ。先ほどより速く、重い。
エレンは潜らなかった。今度は——跳んだ。
斬撃の上を飛び越え、空中からヴァルダの頭上に短剣を振り下ろす。
「ちっ——」
ヴァルダが長剣を翳して受ける。
火花が散り、金属の悲鳴が廊下に響いた。
着地。即座に次の斬撃。膝を狙い、弾かれれば腿を狙い、逸らされれば首を狙う。
だが、ヴァルダも適応し始めていた。
最初こそ面食らったエレンの超攻撃型に、身体が慣れてきている。受けるのではなく、いなす。
短剣の軌道を読み、最小限の動きで捌き始めた。
そして——隙を見て反撃の蹴りが飛ぶ。
エレンの脇腹に、ヴァルダのブーツの爪先がめり込んだ。
「がっ——」
身体が横に吹き飛ぶ。石畳を転がり、壁に激突して止まった。
「はぁっ……はぁっ……」
立ち上がる。短剣を構える。突っ込む。
弾かれる。蹴られる。壁に叩きつけられる。
立ち上がる。
突っ込む。
何度も。何度も。
エレンの身体に、傷が増えていく。
だが致命傷は一つもない。
ヴァルダの攻撃を完全に躱すことはできなくとも、急所だけは外し続けている。
そして——一度も、退かない。
「…………なぜだ」
ヴァルダが、わずかに息を乱しながら呟いた。
「なぜ立てる。なぜ、まだ向かってくる」
「……決まってます」
エレンが、血まみれの顔で笑った。
「先輩が待ってるからです」
ヴァルダの長剣を握る手が、一瞬——震えた。
それは恐怖ではなかった。もっと別の何かだった。
(……この女。この冒険者は——)
ヴァルダの脳裏に、一人の男の姿が過ぎった。
片腕で盾を構え、嘲笑の中を一人で歩いていた男。
何度倒されても立ち上がり、何度嗤われても前を向いていた男。
同じだ。
この少女の目は——あの男と、同じだ。
(……だからこそ、ここで終わらせる)
ヴァルダが構えを変えた。
長剣を片手で上段に掲げる。
全力の一撃を叩き込む構え。
「次で、終わりだ」
「……ええ。次で終わりです」
エレンも短剣を構え直した。
右手一本。残った全てを、この一撃に賭ける。
二人の間の空気が、張り詰めた。
松明の炎が、風もないのに揺れた。
沈黙。
その沈黙の中で——ヴァルダが、口を開いた。
「……名を聞いていなかったな」
エレンが、わずかに目を見開いた。
「軍務卿直属第三席、ヴァルダ・エーレンフェスト」
名乗り。
それは——相手を、ただの侵入者ではなく、一人の剣士として認めた証だった。
エレンの唇が、かすかに震えた。
「——冒険者、エレンです」
一拍の静寂。
そして——二人が同時に踏み込んだ。
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