第31話 深淵に咲く、劇物


 神殿の最下層へ続く螺旋階段は、一段降りるごとに生者の世界が遠のき、ねっとりとした死の気配が肌にまとわりつくようだった。


 壁面に埋め込まれた古びた魔導灯は、酸素を拒むかのように弱々しく瞬き、エレンの髪を不規則な影とともに壁へと投げかけている。


 エレンの耳に届くのは、冷たい石床を叩く自らのブーツの硬い音と、隣を歩くリリアナの衣擦れの音。


そして、幾重にも重なる岩盤の向こう側から漏れ聞こえる、魂が削れるような、言葉にならない絶望の残響だ。


「……ここから先は、神の光も、王の法も届かない場所。エルフレッド様の純粋な輝きを汚さぬよう、私が個人的に重罪人とされた人たちを『管理』している施設のようなものです」


 リリアナの声は、氷のように冷たく、それでいてどこか嬉々とした響きを孕んでいた。


エレンは周囲に漂う、澱み腐った魔力の粒子に微かに顔を顰めながらも、隣を歩く聖女への敬意を崩さず、静かに応えた。


「……リリアナ様が、これほどまでに不吉な場所を自ら管理されているとは……少し驚きです。

ですが、今の歪んだ王国を相手にするなら、これほど頼もしい場所はありません。まともな騎士を百人揃えるより、確実に急所を射抜く一人の『真の牙』が必要です」


「ふふ、さすがはエレンさん。分かっていらっしゃいますね。……数など必要ありません。エルフレッド様のために、この国の悪事をすべて暴き、その喉元を喰い破る『毒』は、たった一滴で十分なのです」


 階段を降りきった先、広大な地下空間が広がっていた。そこは『氷灰の檻』。


王国の司法さえも匙を投げた者たちが、魔力封印の結界によって飼い殺されている墓場だ。


 リリアナは、迷いのない足取りで暗闇を進んでいく。


彼女の足元からは、聖女の権能による白い光が波紋のように広がり、檻の中に閉じ込められたかつての人間たちの成れの果てを照らし出した。

 

 ある者は発狂して壁に頭を打ち付け、ある者はもはや言葉すら忘れて獣のように唸っている。


だが、リリアナはそれらには一瞥もくれず、最奥にある、ひときわ巨大で禍々しい結界の前で足を止めた。


 そこには、他の檻とは比較にならないほどの高密度な魔力封印が、幾重にも重なって施されていた。


それはあたかも、その女を解き放つことが、王国の終わりを意味すると物語っているかのようだった。


「紹介しましょう。……元・王宮筆頭魔導師、アルティナ。……かつてこの国の魔導理論の頂点に立ち、あらゆる禁忌に触れた女。彼女は軍部が進めていた『人造魔物計画』の証拠を握り、それを公表しようとして逆賊の汚名を着せられたのです」


 リリアナが杖をかざすと、結界の中に、一人の女の姿が浮かび上がった。


 ぼろぼろになった法衣を纏い、床に座り込んでいるが、その周囲には、彼女が漏らした魔力によって結晶化した魔力の塊が、鋭い氷柱のように地面から突き立っている。


「……また来たの、聖女様。今日こそは私に『解体』されるために、新しい生贄を連れてきてくれたのかしら?」


 アルティナは顔を上げず、独り言のように呟いた。


その声には、人間らしい情緒が一切欠落し、ただ冷徹な観察眼だけが残っている。


その圧倒的な強者の気配に対し、エレンは魔法を使うことなく、ただその場に屹立し、アルティナを射抜くように見た。


「アルティナさん。あなたのその知略と武力、私に貸していただけませんか?」


 エレンの一言に、アルティナはゆっくりと顔を上げた。


 乱れた黒髪の間から覗く瞳は、深淵のような黒。そこに宿るのは、世界すべてのものを無意味であり、価値のないものと断じる虚無の光だった。


「……新しい飼い主、かしら。悪いけれど、私はこの国のすべてを等しく呪っている。エルフレッドだろうが、女王だろうが、私にとっては実験台のサンプルにしか見えないわ。……私を動かす報酬は、何?」


 エレンは、アルティナの虚無に真っ向から、静かな決意をぶつけた。


「報酬は、あなたを陥れたあの賢者たちが、自分たちの積み上げた『悪事の証拠』を白日の下に晒され、絶望の中で処刑される瞬間の目撃権。……まずは、王国側が隠している決定的な証拠を見つけましょう。それさえあれば、ギルドの人間たちや、王国騎士団も動く証拠ができる。……そして証拠を掴んだ後、そのゴミどもの処分は、あなたの好きにしてください。一人残らず、あなたがあなたの魔法で掃除していいですから」


 エレンが最大限の譲歩として提示したその言葉を聞いた瞬間。


 アルティナの肩が、クスクスと、そして次第に激しく揺れ始めた。


「……あは、あははは! おかしいわ、おかしいわねお嬢ちゃん! 『処分を任せる』? 『掃除していい』? ……くく、くはははは!」


 アルティナがガバッ、と顔を上げた。その瞳に宿るのは、理性を超えた、剥き出しの狂気と嘲笑。


「……そんなものじゃ、私の心はこれっぽっちも踊らないわ。殺す? 掃除する? そんなの、あいつらへの『慈悲』でしかないじゃない。死ねば終わり、痛みも消える。……そんな温い復讐、私が満足するとでも思っているの?」


 アルティナの周囲の輝く柱が、彼女の感情に呼応して激しく震え、結界の内壁を叩く。


「……いい? 私がしたいのは『解体』じゃない。……『塗り替え』よ。あいつらが愛してやまないこの国を、あいつらが最も蔑んでいた『魔物』の揺り籠に変えてあげること。あいつらの最愛の家族が、あいつらの肉を喰らう……そんな地獄の底まで堕ちて初めて、私は満足できるのよ。理解できる? お嬢ちゃん」


 アルティナは結界に顔を押し付け、エレンを嘲り笑った。


「あんたの言ったことは、あまりに『正義』に寄りすぎているわ。……エルフレッドを守るために、この街そのものを地獄に変える覚悟はある? ……もしあいつらの死より残酷な運命を、この手で生み出すのを黙認できないっていうなら、とっとと失せなさい。私はここで、眠りながらあいつらが老い、何もできなくなってから死ぬことを願い、呪っている方がマシだわ」


 地下牢獄の空気が、アルティナの吐き出した憎悪や、憎しみによって文字通り凍りついた。


 リリアナは静かに、エレンの反応を待っている。


もしここでエレンが怯めば、この契約は成立しない。


 だが、エレンは、しばしの沈黙の後。


 ゆっくりと、さらに深く、暗く、アルティナを上回るほどの冷笑をその唇に刻んだ。


「……。ふふ、なるほど。失礼しました、アルティナさん。……確かに、私の考えが少し『温かった』ようです」


 エレンは一歩、結界へ踏み込む。


その瞳は、もはや人間のそれではなく、最愛の者を守るためなら世界を平らげる獣のそれだった。


「死よりも残酷な運命? 街が地獄に変わる?

……いいですよ、勝手にしてください。

……私の先輩、英雄エルフレッドを汚そうとした奴らが、この世のどんな地獄よりも酷い目に遭うというなら、私はそれを特等席で見物してあげます。……リリアナ様、結界を解いてくだい。

この『劇物』は、私が連れて、有効活用します」


「わかりました」


 アルティナの瞳に、初めて驚嘆と、そして歓喜の色が混ざり合った。


 リリアナが杖を振ると、部屋全体を震わせる魔力衝撃とともに、結界がガラスのように砕け散った。


 アルティナが、その地獄そのものの魔力を纏いながら、エレンの前へと歩み出る。


「……最高。いいわ、いいねぇ!お嬢さん!

あなたの案内で、私の絶望を街中にバラ撒いてあげましょう!」


アルティナの声に呼応するかのように魔力が膨れ上がる


「……まずは、あの王宮の奥底にある、連中の『恥部』を暴きに行くところからね」


 神殿の最下層。


 救国の英雄を守るという狂気の下で、二人の女が王国を変えるかもしれない契約を結んだ。


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