幸福な身代わり
@momolon
第1話
1
その夜、東京は腐ったような雨のにおいに包まれていた。 アスファルトを叩く激しい雨音が、相田(あいだ)の革靴の中まで容赦なく染み込んでくる。
「……クソッ、なんで俺ばっかり」
相田は舌打ちをした。安物のビニール傘は先ほどの突風で骨が折れ、惨めな骸骨のようにぶら下がっている。 今日は最悪だった。部下のミスを課長になすりつけられ、残業を押し付けられ、挙げ句の果てには恋人のサトミから『距離を置きたい』というLINEが届いた。 俺は悪くない。俺はいつだって真面目にやっている。なのに、世の中のすべての不運が、俺という一点に集中して降り注いでいるような気がした。
いつもの帰り道、ショートカットをしようと路地裏に入ったときだ。 見慣れない明かりが、雨のカーテンの向こうにぼんやりと浮かんでいた。
『猫貸し屋』
古ぼけた提灯に、墨文字でそう書かれている。 こんな店、あっただろうか。相田は吸い寄せられるように、その軒下へと足を向けた。ガラス戸の奥には、古書店のような埃っぽい空間が広がっており、カウンターの奥に一人の老人が座っていた。
「おや、ずいぶんと濡れましたな」
老人が顔を上げた。年齢は七十、いや八十だろうか。深く刻まれた皺の奥で、爬虫類のように細い瞳が光っている。
「……雨宿りさせてくれませんか」 「どうぞどうぞ。ここは寂しい店でしてな。お客さんなんて久しぶりだ」
店の中は、妙に獣臭かった。そして、静かだった。 よく見ると、店内のあちこちに置かれた鳥籠のようなケースの中に、猫がいる。どいつもこいつも、ピクリとも動かず、ただジッと虚空を見つめていた。
「お客さん。背負っておられますな」
老人が唐突に言った。
「え?」 「不幸、ですよ。どす黒い雨雲のような不運が、あなたにへばりついている。真面目な人ほど損をする……この世は不条理だ。そう思っておられるのでしょう?」
図星だった。相田は思わず身を乗り出した。 「わかるんですか? そうなんだ、俺は何も悪いことなんてしてないのに!」 「ええ、ええ。わかりますとも。あなたは選ばれた人間だ。ただ、少しばかり運の巡りが悪いだけ」
老人はカウンターの下から、一つの籠を取り出した。 中には、真っ白な猫が入っていた。雪のように美しい毛並みだが、奇妙な点が一つある。 左耳の先端が、刃物で切り取られたように欠けているのだ。
「こいつを、お貸ししましょう」 「猫……?」 「ただの猫ではありません。こいつは『身代わり』です。あなたの降りかかるはずの不運を、すべて代わりに引き受けてくれる。泥除けのようなものですな」
馬鹿馬鹿しい、と相田は思った。だが、その猫のオッドアイ(左右色の違う瞳)を見つめていると、不思議と心が安らぐのを感じた。
「代金は?」 「結構。あなたが幸せになってくれれば、それが私の報酬です」
老人は籠を開け、白猫を相田に抱かせた。猫は温かく、そして不気味なほど大人しかった。
「ただし、一つだけ条件があります」
老人の声が、一段低くなった。
「この猫がどんな目に遭おうとも、決して同情してはいけません。怪我をしようが、病気になろうが、『こいつはただの道具だ』と思い続けること。決して、生き物として扱ってはなりませんぞ」
「……変な条件だな。まあいいでしょう、飼うだけなら」
相田は猫を受け取った。腕の中の温もりが、冷え切った体をじんわりと温めていく。 店を出る頃には、あれほど激しかった雨が嘘のように止んでいた。
「ありがとうございました」 「フォッフォッフォ……よい夢を」
背後で戸が閉まる音を聞きながら、相田は歩き出した。 その時、腕の中の白猫が、一度だけ「ニャア」と鳴いた。それは甘えるような声ではなく、どこか嘲笑うような響きを含んでいたが、相田は気にも留めなかった。
この時の彼はまだ知らない。 自分が手にしたのが、幸運への切符などではなく、地獄への片道切符であることを。
2
翌朝、世界は一変していた。 目覚めると、昨夜の疲労が嘘のように消えていた。窓の外は快晴。相田は鼻歌交じりに、足元で丸まっている白猫をまたいでベッドを出た。
「邪魔だぞ」
猫は動かなかった。よく見ると、猫の左前足が不自然な方向に曲がっているように見えたが、相田は気にも留めずに家を出た。
奇跡は、出社した直後に起きた。 「相田くん! 大変だ!」 同僚が血相を変えて飛んできた。 「あの鬼課長が、通勤中に階段から落ちて複雑骨折したらしいんだ。全治三ヶ月だって!」 「えっ?」 「それで、急遽君がプロジェクトのリーダー代行に指名されたぞ。部長が『相田くんは真面目だから適任だ』って!」
信じられなかった。あの課長がいなくなった上に、昇進のチャンスまで転がり込んでくるとは。 さらに昼休み、スマホが震えた。別れを告げられたはずのサトミからだ。 『ごめんね、私が間違ってた。もう一度やり直したいの。今夜、会えない?』
相田は震える手でスマホを握りしめた。 ツキが回ってきた。俺の時代が来たんだ。
帰宅した相田は、上機嫌でビールを開けた。 「おい、猫。お前のおかげか?」 部屋の隅、ボロ布のようにうずくまる白猫に声をかける。 猫は、朝よりも衰弱していた。美しい白毛のあちこちが抜け落ち、皮膚が赤くただれている。まるで、誰かに階段から突き落とされ、その心労を一身に背負ったかのような姿だった。
(……怪我をしようが病気になろうが、同情してはいけない)
老人の言葉が脳裏をよぎる。 相田の心に、一瞬だけチクリと良心の呵責が走った。病院に連れて行くべきか? いや、これはただの「身代わり」だ。俺の不運を吸い取ってくれたフィルターに過ぎない。フィルターが汚れるのは当たり前だ。
「……フン、高いエサでも買ってきてやろうと思ったが、食欲もなさそうだな」
相田は猫から視線を逸らし、サトミへの返信を打ち始めた。 猫のオッドアイが、じっとその背中を見つめていることに気づかないまま。
それからの数日は、まさに黄金の日々だった。 ギャンブルで大勝ちすれば、帰宅した時に猫が血を吐いていた。 ライバル社員が不祥事で消えた日は、猫の爪がすべて剥がれ落ちていた。
相田は学習した。 猫がボロボロになればなるほど、俺は輝く。 この猫は、俺の幸福のための「燃料」なのだ。
「もっとだ……もっと俺を評価しろ」
欲望は膨れ上がる。相田は、もはや猫の姿を直視しなくなっていた。部屋の隅で、生きているのか死んでいるのかもわからない白い塊が、荒い呼吸を繰り返している音だけが、BGMのように響いていた。
3
破滅の足音は、唐突に響いた。 会社の経理部から監査が入ることになったのだ。
「まずい……」
相田は自室で頭を抱えた。昇進のプレッシャーと、金遣いの荒くなったサトミを繋ぎ止めるために、会社の裏金に手をつけていた。その額、三百万。 明日になれば全てバレる。解雇だけでは済まない。逮捕だ。人生が終わる。
ふと、視線が部屋の隅に向いた。 そこには、もはや白猫とは呼べない、薄汚れた雑巾のような塊が転がっていた。呼吸は浅く、いつ息絶えてもおかしくない。
「……そうだ。お前だ」
相田はふらつきながら猫に歩み寄った。 今まで、怪我も病気も全て引き受けてくれた。なら、「罪」だって引き受けられるはずだ。
「お前がやったことにしろ。俺は知らない。全部お前がやったんだ!」
相田は猫の首を掴み、強く念じた。 その時、猫が目を開けた。 濁ったオッドアイが、相田の瞳を射抜く。その視線は、今まで見たこともないほど澄んでいて、どこか憐れむような響きを帯びていた。
——あ。
世界が反転した。 強烈な吐き気が相田を襲う。天井がグルリと回り、地面が急激にせり上がってくる。 意識がブラックアウトする寸前、相田は聞いた。 『契約、不履行』と。
4
冷たい。 床がひどく冷たかった。
相田は目を覚ました。ひどい頭痛がする。 「……おい、どうなったんだ」 口を開いたつもりだったが、喉から出たのは「ギャア」という掠れた音だけだった。
おかしい。視界が低い。 目の前には、巨大なテーブルの脚がある。自分の手を見ると、そこには白い毛に覆われた「前足」があった。爪は剥がれ、皮膚はただれている。
(な、なんだこれ!? 俺の手が……なんで!?)
パニックになりかけた時、頭上から影が落ちた。
「気がついたか?」
聞き覚えのある声。それは、相田自身の声だった。 見上げると、そこには「相田」が立っていた。 スーツを着こなし、肌艶もよく、自信に満ち溢れた笑顔を浮かべている。かつての相田が喉から手が出るほど欲しかった「理想の自分」そのものだった。
「み、ミャア!(俺だ! 俺はここにいる!)」
必死に叫ぶが、「相田」は冷ややかな目で見下ろすだけだ。
「かわいそうに。随分と痛そうだね」 「相田」はしゃがみ込み、猫(元・相田)の傷ついた前足を指先でつついた。激痛が走る。 「でも、僕は助けないよ。だって君は『ただの道具』だろ? 君自身がそう言ったじゃないか」
その瞳は、人間の理性を超えた、爬虫類のような冷たさを宿していた。 中身が入れ替わったのだ。 相田が猫を道具として扱った瞬間に、猫の方も相田を「新しい肉体(入れ物)」としか見なさなくなったのだ。
カラン、コロン。 玄関のドアベルが鳴った。鍵などかけていないはずなのに、あの老人が入ってくる。
「おやまあ。とうとう器が壊れましたか」 「ええ。性能は良かったんですが、最後は欲をかきすぎて自滅しましたよ」
「相田」は肩をすくめて笑った。老人は満足そうに頷き、床に這いつくばる猫(元・相田)の首根っこを乱暴に掴み上げた。
「では、この『出し殻』は回収しましょう。まだ使い道はありますからな」 「お願いします。……ああそうだ、店主」
「相田」は、これから連れ去られるかつての自分を見ても、眉一つ動かさずに言った。
「次の『身代わり』も用意しておいてくださいよ。この先、もっと出世するには、僕一人じゃ荷が重い」
5
再び、雨の路地裏。 相田は狭い檻の中に放り込まれた。周りには、同じように虚ろな目をした猫たちが何匹もいる。 ここは地獄の待機所だ。
「さて、新人さんには印をつけておかないとね」
老人が懐から錆びた剪定バサミを取り出した。 逃げようとする相田を抑え込み、その左耳に冷たい刃を当てる。
「ギャアアアアッ!」
激痛と共に、肉の焼けるような臭いがした。 左耳が欠けた。これで彼も、あまたいる「身代わり猫」の一匹になったのだ。
老人は檻に覆いをかけながら、楽しそうに独り言ちた。
「次の不幸なお客様は、どこのどいつかなぁ……フォッフォッフォ」
雨音にかき消された相田の慟哭は、誰にも届くことはなかった。
(完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます