第9話 均衡が滞る町

 分岐を越えてから、時間の感覚が信用できなくなった。太陽は確かに傾いている。影も、少しずつ伸びている。足を止めて見上げれば、空はちゃんと夕方の色だ。それでも、進んでいる気がしない。歩数は数えられる。息も乱れていない。体の疲労は、いつも通りない。


 なのに、「距離」だけが減らない。同じ道を歩いている錯覚じゃない。同じ景色を見ている感覚でもない。


 ――減っていない。


 世界が、距離を残している。


 足元の石を踏む。沈み込みは正常。反発も普通。だが、次の一歩を出す前に、ほんの一瞬だけ、空白が挟まる。思考が止まるほどではない。意識が途切れるほどでもない。


 ただ、「進む」という行為に、薄い抵抗が混じる。


「……これ、意識の問題じゃないよな」


 呟く。


「うん」


 少女は即答だった。


「世界のほうが、間を置いてる」

「なんで?」

「慎重だから」


 それ以上は言わない。理由を説明する必要がない、という態度。


 歩きやすさは変わらない。むしろ、整いすぎている。転びそうな場所は、自然と避けている。道を塞ぎそうな枝は、触れる前に逸れる。足を置く位置が、無意識のうちに最適化されている。


 選んでいる実感はない。誘導されている感じもない。ただ、失敗しない。祖父母と暮らしてる時と何も変わらない。でもそのときはじめて感じた。


「……気持ち悪いな」

「普通はね」


少女は続ける。


「でも、あんたは“助かってる”って思ってる」


 否定できなかった。嫌な感じは、しない。警戒も、恐怖もない。世界が、こちらに敵意を向けていない。それが、逆に落ち着かない。


少女が、前を向いたまま言った。


「今、自分がどこにいると思う?」

「……街道の上だろ」

「そうじゃなくて」


 言葉が、静かに重なる。


「世界の中か、外か」


 すぐに答えは出なかった。


 外ではない。追い出されてもいないし、拒絶も感じない。そもそも世界の中と外の違いすら分からない。だが、中にいると言うには、距離がある。


「どっちでもない」


 そう答えると、少女は短く頷いた。


「それが、いちばん厄介」

「厄介?」

「世界は基本的に、曖昧なのを嫌う」


 淡々とした声だった。感情はない。評価もない。ただ、事実を述べている。


「中にあるものは、守る。外にあるものは、排除する」


やっと、世界の中と外という言葉の核に近づいた気がした。世界にとってどういう存在であるかということか。


「じゃあ、その間は?」


 少女は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。


「想定外」


 その言葉にはただ冷たさだけが備わっている。


「通過者ってさ」


 少女が言う。


「世界にとって、一番どうでもいい存在なんだよ」

「通過者って何?」


 初めて聞く言葉に違和感を感じる。意識したことはない、しかしまるで自分のことのように。


「影響しない存在」


 足を止め、こちらを見てただ淡々と答える。


「通り過ぎるだけ。何も残さない。均衡を崩さない」

「……俺は?」


 一瞬、間があった。


「もう、そうじゃない」


 少女の声と同時に風が吹く。真正面から。強くも、弱くもない。押されもしない。ただ、同じ力で、向かい合う。歩いても、風圧は変わらない。立ち止まっても、変わらない。抵抗じゃない。干渉でもない。


 ――測定。


そう感じた。


 先ほどの感覚が何なのかを考えているうちに遂に町が見えた。先ほどの少女の言葉を借りるとすると、僕たちはこの町に来ることを許された。


 石造りの外壁。補修の痕。門は開いている。壊れてはいない。見捨てられてもいない。人の生活が、続いている町。近づくにつれ、違和感が増す。いままでの町とは違う違和感を感じる。


 人はいる。確実に。だが、動きが噛み合っていない。露店の前で立ち止まる客。呼びかける商人。視線が合わない。声は届いている。意味も通じている。それでも、行動が繋がらない。町全体が、半拍遅れている。


「……重いな」

「溜まってる」

「何が」

「均衡」


 門をくぐった瞬間、視線が集まった。

敵意はない。警戒でもない。


 困惑。


 どう扱えばいいのか、分からない目。


 酒場に入ると、ざわめきが一瞬止まる。本当に、一瞬。すぐに音は戻る。だが、戻り方が不自然だ。主人の声は慎重だった。


「旅の方ですか?」

「はい」


 それだけで、空気が揺れる。悪くもない。良くもない。


 均衡が、わずかに動く。


「宿は……空いています」


 一拍の沈黙。


「最近、長居される方が少なくて」

「理由は?」


 主人は首を振る。


「分からないんです」


 それが嘘じゃないと、分かる。


 部屋に入った瞬間、別種の疲労が来た。もちろん体じゃない。


 言い表すなら世界の反応を、受け続けた疲れ。


 窓から外を見る。通りを歩く人々は、迷っている。何を選ぶかではない。


 ――選ぶという行為そのものに。


「この町」

「うん」

「嫌われてるな」

「嫌われてる」


 少女は肯定する。


「集落とは逆」

「足りない」


 夕食時、小さな諍いが起きた。酒代の計算。本来なら笑って終わる話。だが、声が荒れる。感情が尖る。立ち上がろうとした瞬間、感じた。


 流れが、集まる。


 重かったものが、中心を見つけたみたいに動く。怒鳴っていた男が黙る。相手も理由なく視線を逸らす。数秒後、何事もなかったように戻る。完全ではない。だが、破綻もしない。


「今の……均衡が寄った」

「……俺に?」

「“ここ”に」


 夜。町は、静かすぎた。音が、消えているわけじゃない。ある。だが、全部が抑えられている。世界が、近い。


 前が良すぎた集落で感じた距離とは逆だ。今度は、寄せられている。


 助けたいわけじゃない。守りたいわけでもない。ただ、調整が必要な位置。


「明日、出たら」


 少女が言う。


「この町は、少し楽になる」

「残る人たちは?」


 沈黙。


「……均衡に戻される」


 救われもしない。守られもしない。ただ、世界の都合に戻る。


 はっきり分かった。


 自分はもう、ただの旅人じゃない。世界が、それを許さなくなっている。

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