第9話 無知の代償と決断
季節が春から初夏へと移り変わろうとしていた頃、一つの「処分」が下された。
権田修一、依願退職。
表向きは「一身上の都合」となっていたが、実態は教育委員会からの厳しい指導による、事実上の追放だった。
傷害事件として警察が受理したこと、そして医師の診断書が決定打となった。
荷物をまとめるため、最後にもう一度だけ学校に現れた権田。
職員室での彼は、もはや「透明人間」だったという。
かつて「不撓不屈」を大声で語っていたその口は堅く結ばれ、誰一人として彼に声をかける者はいない。
アレルギーへの無知と偏見で、児童の命を危険に晒した男。
同僚たちにとって彼は、学校の信頼を地に落とした疫病神でしかなかったのだ。
ダンボール箱を抱えて校門を出た彼を待っていたのは、保護者たちの冷ややかな視線だった。
「あいつよ、例のアレルギー事件の犯人」
「無理やり食べさせたんですって? 信じられない」
「殺人未遂よね、あんなの」
直接罵声を浴びせるわけではない。
けれど、ひそひそと交わされる会話と、蔑むような視線。
それは、どんな罵倒よりも彼のプライドを抉ったことだろう。
彼は逃げるようにタクシーに乗り込み、走り去った。
後日談だが、彼はこの地域にはいられなくなったそうだ。
今の時代、悪評はどこまでも追いかけてくる。
検索すれば「アレルギー 教師 事件」の候補に彼の名前がちらつく状況で、再就職など望むべくもない。
彼が信じていた「熱血指導」という名の独善は、彼自身の人生を焼き尽くして終わったのだ。
◇
週末、私たちは弁護士事務所の応接室にいた。
テーブルの上には、学校側、そして権田側から提示された示談書の案が置かれている。
「……権田氏は、教員免許の自主返納も検討しているそうです。二度と教壇には立たない、と」
「そうですか」
弁護士の言葉に、私は淡々と頷いた。
夫が私の手を握り、顔を覗き込む。
「佳苗。裁判を起こして、徹底的に追い込むこともできる。世間に事実を公表して、もっと社会的制裁を受けさせることも。……どうしたい?」
夫の問いに、私は目を閉じた。
怒りは消えていない。一生許すつもりもない。
けれど、これ以上戦いを続ければ、結衣も巻き込まれることになる。
あの子はもう十分苦しんだ。
これ以上、あの子の貴重な時間を「あんな男」のために使いたくない。
「……終わりにしましょう」
私は目を開け、はっきりと告げた。
「彼が二度と先生になれないなら、それでいい。慰謝料もしっかり払ってもらう。その代わり、もう二度と私たちの前に顔を見せないでほしい。それが条件よ」
それは、慈悲ではない。
汚いものを切り離し、清々しい未来へ進むための「手切れ」の宣言だった。
署名をする私の手は、不思議と震えなかった。
書き終えた瞬間、肩に乗っていた重い荷物が、すとんと落ちた気がした。
「……帰ろう、あなた。結衣が待ってる」
事務所を出ると、空は抜けるように青かった。
嵐は去った。
あとは、結衣が笑顔で学校に戻れるよう、私たちが支えていくだけだ。
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