『音のない春』

鈴木 優

第1話

      『音のない春』

             

               鈴木 優


朝の空気はまだ冷たく、窓の外には淡い霧がかかっていた。


いつもより少し早く、鈴木朝美は職場に着いた。


誰もいないフロア。


彼女のデスクは、すでに何もなかった。

引き出しも、ロッカーも、昨日のうちに空にしてある。

ただ一枚、便箋が置かれていた。


『ありがとうございました』

とだけ、丁寧な字で書かれていた。


誰にも告げずに辞めることを、彼女は選んだ。

病のことも、退職のことも、最後まで笑顔で包んだまま。


『お世話になりました』

と言えば、きっと誰かが泣いてしまう 悲しんでしまう。

だから、何も言わないことにした。



給湯室の棚に、彼女がいつも補充していた紙コップが、今日も整っていた。

観葉植物の鉢には、昨日のうちに水をやってある。

コピー機の横には、詰まりやすい紙の向きを示す小さなメモが貼られていた。

誰も気づかないような場所に、彼女の手が残っていた。


全て彼女の優しさの行いだ



時計の針が八時を指したとき、彼女はそっと立ち上がった。


誰もいないままのフロアに、一礼する。

『ありがとうございました』

と、声には出さずに。


そして、音を立てずにドアを開け、静かに閉めた。


その数分後、出勤してきた長谷部が、便箋を見つけた。

読み終えたあと、彼はしばらく立ち尽くしていた。

そして、ぽつりとつぶやいた。


『......鈴木さんらしいな』


その日、誰も彼女の姿を見なかった。

けれど、誰もが彼女の不在に気づいた。

そして、静かに感謝した そして、ありがとう


春は、まだ遠い。

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『音のない春』 鈴木 優 @Katsumi1209

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