バストエンペラー 滅びゆく帝国。支配できるのは、ただ乳房だけ。

露草

第1話 即位と啓かれる快楽

 性太后の私室には、昼の光が柔らかく差し込んでいた。薄絹の帳が揺れ、香の匂いが、甘く、静かに満ちている。


 彼女は寝台に身を預けていた。年の頃は二十代の後半。若さを失ってはいないが、軽さもない。身体に沿う寝間着は薄く、重い朝服の威圧から解き放たれた肢体の線を、そのまま映している。


 胸元はゆるやかに開き、谷間の影が浅く落ちていた。呼吸のたび、白い肌が静かに持ち上がり、布越しにも張りのある輪郭が主張する。目を逸らそうとしても、そこに“在る”ことだけは、否応なく伝わってくる。


 病に侵された身体であることは、一目で分かった。頬はわずかにこけ、手首は細い。

 それでも、失われたのは力であって、艶ではない。削ぎ落とされた末に残ったのは、成熟した女だけが持つ、はかなさと挑発の同居だった。


 彼は、視線を上げるべきではないと知っていた。だが、目は勝手に引き寄せられる。

 薄布の下に隠された起伏、鎖骨の影、喉元の脈。


 一瞬だけ。

 それだけで、身体の奥が熱を持った。


「近くへ」


 声は低く、かすれている。しかし、宮殿を動かしてきた女の響きは失われていない。


 彼は歩み寄り、跪いた。視線を落としたままでも、彼女の存在は感じ取れた。香り、体温、そして女としての圧。


「おまえが、皇帝だ」


 言葉は短い。説明も、前置きもない。彼の胸が強く打った。息が浅くなる。頭が追いつかない。


 性太后は、彼をじっと見つめていた。血筋は条件を満たしている。

 形式もまた、かろうじて保たれている。彼女の視線は、そこだけを静かになぞった。


 それで足りる――そう結論づけるまでに、迷いはなかった。彼女は短く息を整え、薄く開いた胸元が、呼吸に合わせてわずかに上下する。その微細な動きに、彼の喉が無意識に鳴った。


 本来なら、その座にあるべきは自分だった。そう思わなかったわけではない。

 だが、身体はすでに答えを出している。この熱、この脈、この衰えは、長くは続かない。


 彼女は小さく笑った。悔いでも未練でもない、事実を確認するだけの笑みだった。そして、その事実を、彼に渡した。


 自分はもう、時間を使い切りかけている。だから、選ぶ。できる者ではなく、残る者を。

 儀礼は、淡々と終わった。彼は皇帝になった。実感よりも、身体に残った熱だけが、はっきりしていた。


 自室に戻ると、静けさが彼を包む。衣を脱いでも、横になっても、落ち着かない。


 腹の下に、熱が溜まっていた。さきほど見た光景が、思考よりも先に身体に残っている。薄布の向こうで呼吸に合わせて持ち上がった胸の起伏、影をつくる谷間、布を内側から押す張り――それらが、まぶたを閉じるたびに、静かに蘇った。



 扉が控えめに叩かれ、レイナ・ジョンストンが入ってきた。静かに扉を閉めると、部屋の空気が、わずかに変わる。儀礼や命令とは無縁の、柔らかな気配が流れ込んだ。


 彼女は教えるときと同じ落ち着いた所作で歩み寄り、今日は上着を脱いだまま、淡い色のブラウス一枚だった。胸の線をなぞる縫い目の奥で、下着の存在がはっきり分かる。動くたびに布が引かれ、その形が、隠そうともしない。



 彼は、見ないようにしていた。それでも、視界の端に残る。白い襟、柔らかな膨らみ、そして落ち着いた呼吸。


 ――いけない。

 そう思うほど、意識はそこへ戻ってしまう。


「……眠れません」


 彼は、ようやく口を開いた。皇帝としての言葉ではなく、若い男の声だった。


「考えてしまうんです。 これからのことを」


 レイナは、すぐに理解した。視線の動きも、呼吸の乱れも、隠しているつもりの欲望も。


「それは、とても自然なことです」


 彼女は責めない。からかいもしない。ただ、椅子に腰を下ろし、少し声を落とした。


「嫌なことや、怖いことを抱えた夜には、 張りつめてしまった身体を、静かに解いてあげるのが一番です」



 彼女は言葉を続けながら、片手を胸の前に持ち上げた。指をそろえ、何か細長いものを包み込むように、やわらかく、確かめるような形をつくる。


 そして、力を入れず、下から上へ、ゆっくりと撫で上げる仕草。張りつめたものを落ち着かせるように、同じ動きを、静かに繰り返した。


「……固くなったままでは、 身体は休めませんから」


 その仕草は短く、控えめだった。だが彼には、十分すぎるほどだった。


「……私を、見ながらでも構いません」


 彼の肩が、わずかに強張る。視線はレイナの二つのふくらみに注がれる。

 胸の奥に溜まっていたものが、形を持たないまま、身体の奥で疼き始める。呼吸が浅くなり、眉間に力が入る。


 苦しそうな表情だった。快楽というより、どうしていいか分からない者の顔。

 彼は、初めてだった。

 衝動の意味も、それを逃がす術も、誰からも教えられたことがない。ただ耐えるものだと、ただ隠すものだと、そう思い込んで、生きてきた。



 彼の呼吸が、突然浅くなる。胸が大きく上下し、指先に力がこもった。何かを掴むように、無意識に、衣の端を強く握りしめる。


 身体の奥で溜め込まれていたものが、行き場を探すように暴れ、やがて一気に流れ出す。


 肩が震え、背筋が反る。抑え込もうとしていた声が、喉の奥で詰まり、息だけが、荒く漏れた。


 ほんの一瞬、世界が遠のいたような静けさが訪れる。

 それから、張りつめていた全身が、ゆっくりとほどけていく。力が抜け、震えが収まり、彼はその場に、深く息を吐いた。


 彼が深く息を吐くのを、レイナは静かに見守った。落ち着きを取り戻した呼吸、まだ熱を帯びた頬、指先に残る微かな震え。そこへ辿り着いたことが、はっきりと分かる。


「……今のように」


「女性の胸を見ながらするといいと思います。授乳の時やご入浴される際などが特によろしいかと」


 それは指南だった。

 この先も、揺らぎを抱えたまま進むための、簡潔な知恵。


 レイナは一歩退き、扉へ向かう。視線を外し、余韻をその場に残す。


「覚えておいてください。 身体は、整えれば応えてくれます」


 扉が閉じ、静けさが戻る。彼はその静けさの中で、ゆっくりと理解した。


 今夜、得たのは慰めではない。生き延びるための術だった。

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